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『孫家伝々』

孫堅 「お、策の奴はもう寝たのか?」
呉夫人「ええ、さっき室を覗いたら、もうぐっすりでしたわ」
孫堅 「そうか、ならおまえもこっちで一杯どうだ」
呉夫人「あらあら。では、少しだけ」
孫堅 「ああ」
呉夫人「…どうかなさいましたの?わたくしの顔をしげしげとご覧になって」
孫堅 「いや、な。以前から尋ねてみたかったことがあるのだが」
呉夫人「まあ、何かしら」
孫堅 「あー、その…なんだ。俺の元へ嫁いで、その…幸せか?」
呉夫人「何かと思ったら、そんなこと。立派な旦那様に、利発で元気な子供。幸せでない
    などと言ったら、罰があたりますわ」
孫堅 「そうか、うん、なら良いのだ」
呉夫人「でも、なぜ急にそのようなことを?」
孫堅 「いや、そちらの家で結婚を決めたときの話を、小耳に挟んだものでな」
呉夫人「あら…何かありましたかしら?」
孫堅 「始め親戚の者たちが反対していたのを、おまえが押し切ったそうだな」
呉夫人「ええ、そうですわ」
孫堅 「その時の言葉が『なぜ娘一人を惜しんで災いを招くのですか、私が嫁ぎ先で不幸
    になったとしても、それは運命なのです』とか何とか」
呉夫人「ええ、そうですわ」
孫堅 「要するに『断ったらあの男何をするかわからない、私一人が犠牲になって済むの
    なら、我慢します』ということか」
呉夫人「ええ…あらあら」
孫堅 「喜んで来たわけではないのだな……」
呉夫人「だって、初めてお見かけしたとき……いえ、何でもありませんわ」
孫堅 「何だ、言ってみろ。気になるではないか」
呉夫人「川の岸辺で、誰もいないところに向かって刀を振り回し、『よし、取り囲め』だ
    の『いいか、一斉にかかるぞ』だのと独り言をおっしゃってたものですから、あ
    あ、あの方はきっと関わり合いになってはならない類の御仁なのだと」
孫堅 「待て待て、あれは賊を脅かすためにだな」
呉夫人「うふふ、存じておりましたとも。冗談ですわ」
孫堅 「まったく」
呉夫人「文台さまは、なぜわたくしを選んで下さいましたの?」
孫堅 「気丈な上に、美しい娘だと噂に聞いたのでな」
呉夫人「まあ、それでは本人をご覧になって、がっかりなさったのではありません?」
孫堅 「いやいや、噂以上の女性だな。なにせ、一族のために自分が犠牲になろうという
    ほどの気丈さ」
呉夫人「根に持たないで下さいましな」
孫堅 「それに」
呉夫人「あ」
孫堅 「噂などよりずっと美しい」
呉夫人「あらあら、いけませんわ」
孫堅 「何がいかんのだ」
呉夫人「実は今朝がた、太陽がお腹に入る夢を見ましたの」
孫堅 「おおっ、それはもしや」
呉夫人「策を身ごもったときには、月がこの身に入る夢を見ましたから…きっとあの子の
    弟になりますわね」
孫堅 「月に陽か、めでたいことだ。きっと孫家は栄えることだろう」
呉夫人「まあそれならわかりやすくて良いのですけれども」
孫堅 「何か言いたいことがありそうだな?」
呉夫人「文台さまがお生まれになるときの話を思い出したものですから」
孫堅 「ああ、俺の母親が見た夢か」
呉夫人「腸が飛び出して、城門に巻き付く夢をご覧になったとか…」
孫堅 「こらこら、厭そうな顔をするな。隣の家の夫人は、吉兆かも知れないと言ったの
    だぞ」
呉夫人「あの…その方は、占トの心得がおありでしたの?」
孫堅 「いや、単なる隣のおばさんだ」
呉夫人「…………」
孫堅 「まあ、あれだ、腸という文字は月と陽を合わせたものだからな。もとより陰と陽
    を兼ね備えているということだ」
呉夫人「わたくし相手にでしたらよろしいですけれど、子供たちにはそういうでまかせを
    お教えにならないで下さいましね」
孫堅 「おまえこそ、このあいだ策に妙なことを吹き込んでおっただろう」
呉夫人「何かありましたかしら?」
孫堅 「孫家の墓所から、変な色をした煙がしょっちゅう立ちのぼっていたとか何とか」
呉夫人「あら、違いましたの?」
孫堅 「一応、世間では『五色の雲気が立ちのぼっていた』ということになっているのだ
    が」
呉夫人「わたくしはまた、何か怪しい物でも燃していたのかと」
孫堅 「立ちのぼっていた根元を掘り返してみたが、特に何も出なかったな」
呉夫人「あの…墓所ですわよね?」
孫堅 「不思議なことがあれば、まず調べてみるものだろう」
呉夫人「あの、もしかして」
孫堅 「何だ」
呉夫人「先日井戸で瓜を冷やしておりましたのを、こっそり食べておしまいになったのは
    まさか…」
孫堅 「ああ、俺だ。井戸の端に見慣れぬ綱が出ていたのでな、これは何か水につけてい
    るのかと」
呉夫人「あらあら…わたくしてっきり策だと思って、井戸端で締め上げましたのに」
孫堅 「締め上げたのか」
呉夫人「とにかく、人々の上に立つお立場の方なのですから、いちいち井戸なぞ覗いてま
    わられませんように」
孫堅 「何か珍しい物を見つけるかも知れないではないか」
呉夫人「なりません」
孫堅 「わかったわかった、井戸から五色の気でも立ちのぼっている時だけにするさ」
呉夫人「まったく…」
孫堅 「そうふくれるな、一杯どうだ…っと、お腹の子に障るといかんな」
呉夫人「そうですわね」
孫堅 「待て、おまえさっき一杯飲んでおったな?」
呉夫人「文台さまがすすめて下さったものですから、つい」
孫堅 「身ごもっておると聞いていれば、すすめてなどおらん。大酒飲みの子が生まれた
    ら、どうするつもりだ」
呉夫人「良いではありませんの、策がお酒を飲める歳になるのを楽しみにしておられるの
    でしょう?お酒の席は賑やかな方が楽しいではありませんか」
孫堅 「ううむ、どうも後に禍根を残しそうな気がするぞ」
呉夫人「うふふ」

<終>

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 孫堅と呉夫人の仲睦まじい様子を書きたいな、と思ってお話作っているうちに、やっ
 ぱりツッコミ入り始めました。まあ、この類の「実は生まれるときにめでたいしるし
 が現れていた」という記述は、偉くなった人ならたいていついてきますね。いちいち
 真偽の詮索しても仕方ないものです。でも「腸が飛び出して城門に…」の夢は、どう
 考えてもめでたくない絵面ですし、もしかしたら本当なのかも知れないと思っており
 ます。作り話なら、当時人物評だとか占いで有名だった人の名前を使って「○○は、
 この夢を聞いて吉兆だと言った」などとなりそうなものですので。隣のおばさんって
 あんた…(白文では「隣母」)。
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