2002.01.01〜


      文責 藤永英治
人のこころは、どのようなものであるか?
その不思議さを知りたくてこのHPを立ち上げたました。
どうぞ最後まで、お付き合いよろしくお願いします。

フロイトの心理学的モデルと治癒 1999,5(再掲載)

精神分析の創始者フロイトは自ら不安神経症に悩まされていた。
その為、自分を癒す方法を常に模索していたと思われる。
「心に悪魔が存在する」
これは彼が云っていた神経症の症状にたいする比喩的表現である。
不安神経症というのはもともと性格的な一面も関与しているのは間違い無い。
物事をネガティブに捉えるというパーソナリティが潜在的心性にある。
フロイトのいうような母子分離による去勢不安説が存在する事も否めない。
フロイトも夢分析や自由連想による他者との対話によって
自分自身をカウンセリングしていたと思われる。
心に存在する他者すなわち無意識的自我そして他人の自我を取り入れる事、
それらが癒しの根源になっていた。
特に友人の耳鼻科医フリースとの文通がフロイトの場合、自己洞察に繋がった。
フロイトは性的抑圧が神経症の原因だと言っている。
翻って著者は性的な事に限らず歯止め無い欲求が神経症の原因だと考える。
もとも神経症者は自我求愛が過剰になっておりリビドーの力が
内的自己に向きやすい。
この向きやすいリビドーをコントロールすることが
神経症を軽減する手立てではないかと考える。
一方、催眠から夢の状態に見られる無意識状態。
覚醒している時には我々には感じ得ないが白昼夢や精神分裂状態の場合、
意識と無意識が置き換えが行われると考える。
この無意識意識交代現象が起きる理論として著者は次のように考える。
フロイトのリビドー論の場合、エスと超自我と自我との力動的関係論が
謳われている。自我が他者との同一化や取り入れが困難な場合、
エスは無意識状態を意識状態に置き換えようとする。
また意識状態を無意識状態に置き換えようとするー分裂状態。
またエスは自我が極端に固着している場合、退行出来ずにいると
自我を多数作り出すー多重人格状態と考える。
さらに超自我が硬く厳しいものであればメランコリーなどの
うつ状態になると考える。つまりリビドー供給が超自我に過度に
行われたときである。
リビドーは心的なエネルギーといっていいのではないだろうか。
リビドーはいうなれば人が行動する時エスが使うもので
これが不足すると抑うつなどの症状を露呈すのではなかろうか。
リビドー供給が円滑に行われずアンバランスになった時、
各種精神症状となるのではないだろうかと考える。
具体的には抑うつ状態などはリビドー供給が無くなった状態であると
考えることができないだろうか。
無意識は常に意識を監視しているのである。
意識も常に無意識を監視しているのである。
次に無意識を意識化するという作業であるが、これはとても難解な作業である。
現在の自然科学的な考察においては意識的な思考のみが重鎮されている。
むしろもっとも広大無辺な無意識領域にこそ目を向けるべきである。
無意識領域にはどのようなものがあるか。夢や錯誤行為、云い間違い、
さらには人の行動の大部分がこの無意識領域における
エスの関与によって動かされている。
例えば初めての人に会ったときの第一印象は無意識の間接的な関与が大きい。無意識に取り入れられた他者表象が判断しているのである。
またフロイトはそれを抑圧したものといっているが著者はそればかりでなく、
例えば機知やユーモアなどは無意識から開放されたものであると考える。
エスそれ自体どうゆうものであろうか。
フロイト自体、非常に抽象的な表現でしかも翻訳のときも
日本語が見当たらない等々、意味曖昧なままであるが著者はこう考える。
エスの本質とは受け継承された心的産物であり
自我からは制御不能のものである。
当然といえば当然でもし何らかの改編作業が行われれば
精神生物としての人となりえない。もう少し具体的に云うと
祖先から受け継いだ原始的な心性である。
フロイトの理論で注目をひくのは無意識内容は不滅である
ということである。著者もこれに強い共感を覚える。
つまり一度、無意識に取り入れられた記憶は残存するということであり
意識に影響するということである。
夢に出てくる大部分の風景表象はその確たるものである。
記憶との関係を述べると意識状態の記憶は忘却されやすいが
無意識状態ではむしろ逆で忘れがたいと考える。下図参照

         意識下    無意識下

記憶       忘却     蓄層
記憶の想起  可能     困難


こころの鍵穴とは?(2006.1)

近年、結婚する男女人口が減っていると新聞の調査で明らかになりました。
独身の方なら自分の好きなタイプの相手というのは皆さん、
それぞれお持ちでしょう。

私はあのような映画俳優さんが好み、ボクはあの歌手が好きだなんて
声が聞こえてきそうです。

実は自分の理想像というのは案外偏っているのだと思います。
男性なら母親像、女性なら父親像をこころの奥底では意識し、
実際男女とも正に、それに近い方を選ばれ結婚されています。

ユング心理学では自分のこころの中にある男性像や女性像を特に
アニマ、アニムスと呼んでいます。
それは自己においては理想像であったりします。

何故このような現象が起きるのかずっと考えてました。
一つは、やはり幼少時から親の姿を見ているので、
それをモデリングとしているのでしょう。

それ以外に「こころの鍵穴」という発想が出てきました。
これは何かと申しますと相手が鍵穴、自分は鍵という
こころの嗜好特性を持っているということなのです。

つまり、この鍵穴が一致しない相手は自分の好みではないという事です。
これは広い意味での人間関係にもいえることだと思います。
特に友人関係や会社の上下関係などにも、この鍵穴があり、
相性が合うか、ウマが合わないかになります。

相手のこころの扉を開くにはこの鍵穴が重要なのです。
多くの鍵を持つということは、それだけ沢山の人を引き付ける
ということになると思います。

先にあるもの(2005.11)

最近、占いなどが流行している。これは自分の人生がこれからどうなるか?
という不安が自分の心の中に顕在的にあって、
未来の自分を知りたいという欲求があるからなのである。

しかしよく考えてみると未来なんておよそ予測のつくものではない。
占いに頼る方は占い師に安堵するような事を言ってもらって
何とか自分のこころが落ち着きを取り戻すという具合なのだ。

占いと心理療法が決定的に違うのは、占いは一定の方向にしか教示しない、
これに対して心理療法とは多様な方向性とその人らしさを引き出す
人間教育的な部分もある。

人はおぎゃあと生まれて学校に行き卒業すれば教育は終わりなんてことはない。
人間は、ずっとずっと一生学び続けなければいけないのである。
実は未来の予測というのは自分だけが知っているのである。
つまり長い人生においては自分のことを最も学ぶのである。

いやいや、先生、私は将来のことが不安で仕方がない、
ましてや自分のことなどよくわからないという方がおられるが、
それは主に心の深い部分にある隠れた自分を発見していないからである。
自分の未来を知りたければ自分のこころの奥底にある自分を見ればよい。

そんなことを云われても見えないものは見えないんです。
と、これを読まれている方は思われているだろう。
実は面白い実験があって、24時間自分を監視するカメラで
自分の姿を分析してみるがいい。

こんな行動を自分がしていたなんて思わなかったという方が大半なのである。
つまり殆どの方は自分の意思とは関係なく動いているので不条理なのだ。
では自分を動かしているのは何なのか?という疑問が出てくる。
この答えは皆さんへの宿題にしておこう。少し意地悪かな。

モノや動物にこころがあるか?(2005.10)

我が家ではペットを飼っているのですが、
さて動物にも人間と同じように、こころがあるのでしょうか。

その答えを考える前にモノにもこころが存在するか否か、
という疑問も出てきますね。

例えば著名な音楽家、モーツアルトの楽譜やジョンレノンのギターなどが、
オークションで高額で取引されていたりしています。
これは、モノにその人の魂=こころが刻印されているからだと思います。

自分自身が身近に使っているものなんかにも、
自分のこころが宿ったりすると思います。
ですので、余談ですが私は質屋の品物は買いません。
これは前に使っていた方のこころが残っているからです。

また動物を見てますと人間に近い感情状態を
表出させることがあります。

考えてみれば、これはどんなものにも神が宿るという、
アミニズムのような考え方に似ているかもしれません。

また認知的な心理学の観点からいえば、
あなたの見方が、そのような思考になっているのだと批評されそうです。

いずれにしましても、こころというのは目に見えない形で存在し、
かつ私たちの存在を認識させるものだと思います。

結論といたしまして、動物や自然界、人間界には勿論のこと、
モノにさえ、こころが存在すると思います。


摂食障害とリビドー(2005.6)

フロイトはリビドーという心理的要素を考える上で力動理論として取り入れた。
もっとも、これはどちらかというと性的エネルギーを根源にした考え方だった。
それは、フロイトのヒステリーの研究から由来している。
当時、ヒステリーは子宮を体が這い回る病気だと考えられていた。

私はこれに新たな学説を唱えたい。
リビドーは人間にとって心的なエネルギーで不可欠なものである。
これが喪失すると唯の肉体動物になってしまうのである。
リビドーの解釈に至ってはもう少し広範囲に
理解してもいいのではないのではなかろうか。

例えば、フロイトのいう性欲もそうだが、これに加えて
食欲、睡眠欲など人間が基本的に必要としているものも
リビドーから供給を受けていると考えてもいいのではないだろうか。

私は、現在、臨床の現場で摂食障害などのクライエントを治療しているのだが、
臨床ケースから判断すると、この手のクライエントの場合、
リビドーが食欲に傾いているのである。摂食障害は身体表現性病症である。
フロイト風にいうと発達段階である口唇期に他者から十分な愛情を
得られなかったのである。

食欲にリビドーのエネルギーが傾いているので摂食障害になるのである。
このようなアンバランスな心的状態を戻すにはリビドーが傾いた原因を
探らなければならない。それは多分に母子関係に由来するのである。
ボルビィらが唱えたアタッチメントが重要な鍵になると考えられる。

摂食障害のクライエントはいわば、こころが枯渇した状態なのである。
つまり、水(リビドー)の入っていないグラス(こころ)なのである。
性欲のグラス、食欲のグラス、睡眠のグラスなどなど、
こころの要素には多様なグラスが存在するのである。

もう少し詳しく述べると過食症はグラスに穴があいていて、
いくら水を入れても満杯にならない状態なのである。
一方、拒食症はグラスに蓋がしてあって、水をいれようにも、
水が入らない状態といっていいだろう。

こころが、満たされないとこころは水を供給しようとリビドーが活発になる。
それが繰り返し、ずっと継続的な心的状態となりうる。
摂食障害のクライエントはこのように、他のいろいろなグラスにも、
極端にリビドーを使役して水を供給しようとするのである。


エリクソンのライフサイクル論について(2005.2)

彼の理論によると、
乳児期 基本的信頼-基本的不信 希望
幼児期 自律性-恥と疑惑 意志
児童期 自発性-罪悪感 目的
学童期 勤勉性-劣等感 有能感
青年期 同一性-同一性拡散 忠誠心
成人期 親密性-孤独 愛情
壮年期 世代性-停滞性 世話
老年期 統合性ー絶望 知恵

という定義がなされています。

エリクソン自身はハーフであり、
ユダヤ人と北欧人の混血児として生まれたのであります。
なので彼自身、どちらか母国なのか?自分の体はガイジンなのか?
いつも自分にそのような事を問いかけていたと思います。
その中で「自分は一体、何者なのか?自分は何を成し遂げようとしているのか?」
という疑問が常に彼についてまわり、それが悩みであったようです。

現代社会流にいえば、引きこもり、ニート、生きがいを失った老中年など
「漂流する人々」のことを、自我同一不一致という言葉で表し、
精神科領域では境界例などに代表されるものになってくるんでしょう。

しかし、もう少し柔軟な考え方をすれば、エリクソンの言う
「モラトリアム」は人生のどの過程でも起こりうることであり、
何も青年期に限ったことではないと思います。

例えば、精神分析では退行という概念があり、
問題に、つまづいたら、そこからやり直すという手法をとります。
「赤ちゃん返り」がもっともポピュラーな例ですが、
これは大人にも起こりうることなのではないかと思います。

そうゆう意味において人間はどのライフサイクルに於いても、
常にアイデンティティを確立する作業を行っており、
それが崩壊しては、また自己を確立するということが
大切ではないかと思います。

どんなに美人、ハンサムで若い方でも最後には年寄りになる。
過去の青春の輝いた日々ばかりに、こころが囚われて、
今を真剣に生きようとしないのは自分らしくない生き方である。
それぞれの年代において最も輝く方法を見つけた人が、
エリクソンのいう自我同一ではないでしょうか。
年を取ったからといって自分を卑下する必要は一切ないと思います。

これからの高齢社会、自分らしく生きる生き方が
正しい生き方といえるのではないかと思います。


無意識の階層
深層心理学の先達の巨人、フロイト-ユングをご存知の方は既に無意識というものの概念をある程度、抽象的 に捉えていると思います。私はこういった概念にもう少し根を張り、葉を持たせたいので独自の考え を述べてみたいと思います。

無意識領域の最底辺には人類共通の普遍的無意識があると言ったのはユングですが、実は無意識には階層があって、その階層は人それぞれ違ってます。

もう少し具体的にお話しますと例えば古代遺跡を発掘する作業を思い出してください。考古学者は年代ごとに地表の階層を割り当て、いつの時代の地層なのか?拾得した土器や装身具などから考察します。こうした考古学者の掘り起こし作業と大変似通ったのが意識における無意識の顕在化作用です。つまり発掘された土器とか装身具というのは保持された過去の記憶そのものであり、地層はその記憶がもたらした時代なのです。

無意識の中の記憶について述べてみますと無意識は、ある程度まとまって階層化されており、しかも各個人ごとに心の中で、例えば木の年輪のように刻印ずけされています。

無意識の下層部はどうなっているのかと申しますと、人間が人として誕生する母親のお腹にいる頃より前の記憶が蓄積されていると思います。そして、その記憶や本能は現在もずっと心に保持していると思います。

そういった記憶の蓄積は膨大な情報量になります。何故かと申しますと無意識下では自分が注意喚起した意識以外のことも記憶として取り込んでしまうからです。しからば、こうした膨大な情報は脳がどう処理してるのかという問題がありますね。

私が考える答えは一つです。夢を見る事によってバラバラな情報は、統合されたまとまりの一つの記憶として無意識下に収められます。そうして無意識下に収められた情報は現実としては合理性のない記憶として扱われますので夢が支離滅裂なのはこの為だと思われます。

記憶の伝承
さて無意識の上層部に個人的な記憶があるとすれば、その下層部には、どのような記憶が残されてるのでしょうか。 これは自分が生まれる前の事だから、記憶なんて無いのではないのか?と思われるでしょう。

心的な装置はとても複雑に出来ていてこの下層にある無意識には祖先の記憶が残されていると思います。はるか大昔の記憶から祖父母、親までの記憶がこの中間層に潜んでいると思います。

記憶は受け継がれるものであり、その必要性があるのです。なぜなら、それは人の生命に関わる事だからです。特に不安や危険などの記憶は真っ先に無意識の中の記憶として保持されると思います。

大昔、人は自然の脅威と戦いながら生き抜いていました。その戦った記憶、それは子孫代々まで伝えるべき事として伝えておかなければ、ならない。ところが人が死んでしまうとその記憶は消えてしまい、生きる手段としての知恵が伝わらない。心的装置は無意識というものにその警告というべき記憶を作り出すことによって、その情報を後世まで伝えようとしたと思います。

夢の禁じ手
よく自在に夢をコントロール出来たらいいなあとか、読者の皆さんは考えるかも知れません。夢の中で空を飛んだり、好きな人に愛を告白したりとか。それにはまず自分が今、ここで夢を見てるんだという自覚が必要ですね。

これを顕在夢というのです。私は過去に何度も顕在夢をみた事があり、それなら自由に、この世界で振舞ってやろうと思いました。しかしながら何故か体が動きませんでした。そして自分が夢の中で実行しようと思った事は、全く夢の中では実行出来ませんでした。

夢の世界と現実の世界(これはこころの話の上での世界)には非常に分厚い壁というか境界があり分け隔ててあると思います。

つまり無意識と意識の世界には境界線が引かれてるという事だと思います。そしてそれぞれに繋がる入り口と出口があり、そこには検閲(これはフロイトの理論)があります。簡単に云うと江戸から大坂に行くのに箱根の関所があって、そこを行き来するという感じになります。

何故このような関所があるのかと申しますと無意識は意識のバックグランドであり記憶が混在、混沌とするのを防ぐためです。

仮に関所が無いとしましょう。すると人は現実世界に於いて妄想や幼聴を持つ事になるのです。これは大変危険な事であります。検閲の役目は無意識のイメージが現実生活に反映しないようにする事です。

ですので元の話に戻りますが、夢で自在に振舞おうとする事は、この検閲を無視してしまうことなのです。つまり関所破りなのです。

但し、例外があります。世の中に作家、芸術家、音楽家などと云われる方は、この境界を自由に行き来して自分の想像を膨らませ作品にするという仕事をしています。彼らに共通して見られるのは確固たる自我が成立しているので無意識の世界から帰って来れないという事はないです。



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