98年9月30日更新
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ドイツの旅 ’98



 

9月5日(土)
ソウル → 東京

ぐっすり眠って目が覚めました。時差の関係で窓の外は真っ昼間の日差しで、飛行機はすでにモンゴル上空まで差し掛かっていました。じきに出された食事を食べ終える頃には更にチンタオ付近まで進み、体感的にはまさにあっという間に極東に戻ってくることができてしまいました。

大韓航空について言えば、経費節減のためか機内食のレベルが落ちているように思います。ビーフなどの高い食材は使わずメニューのバリエーションも減らされているようです。私たちは往きと帰りにほとんど同じメニューが出されました。またスタッフ総出で免税品を異様な熱心さで販売していました。収益向上の至上命令でも出ているのでしょうか。外貨が手に入れば今の韓国ではとても有利な収入となるはずです。今時免税の酒を買う日本人も少ないと思いますが、韓国人乗客はこれまた目の色変えて免税品を購入していました。そんなにうれしいものでしょうかね。免税でも値引きが少なかったとしたらむしろ割高のようにも思うのですが。

現地時間の15時30分にソウルに到着。乗換待ち時間が3時間あったので免税店を覗いたりロビーでボーっとしたりしていました。ウォン安のおかげで円とウォンは 1 : 10 の交換レートなので、免税店でのプライスは割安な感じで、缶入りの海苔や立派な箱詰めのチョコレートが1,000円弱で買えました。サムソン・ブランドのカメラなどは遠慮しておきました。

18時40分にソウルを離陸し20時40分に成田に到着しました。都心へ向かう京成スカイライナー号から見る久しぶりの日本を無性に懐かしさを覚えました。雑然とした町並みは嫌でしたが。 午前0時に帰宅。家に着いてみると水槽が案の定修羅場になっていて魚は全滅して溶け、水はスープ状態、カメは脱走。家中にとてつもない悪臭が充満し、大変なことになってしまっていました。妻は激怒し、私は換気と後始末に追われ、旅行の感傷は瞬く間に吹き飛んでしまいました。サイテー。
 

9月4日(金)
ベルリン → フランクフルト → 離独

しうち君夫妻と朝食。9時30分にチェックアウト後、4人でカイザー・ヴィルヘルム教会に行き、中に入ってみました。空襲で破壊されたままの建物も1階部分は展示館としての工事が施されており、いろんな展示物がありました。最後の皇帝ヴィルヘルム2世の壁画もあり、興味深く見てまわりました。 その後、私の妻は、しうち君の奥様が案内役で付き添ってショッピングに行きました。残った我々男性軍は戦勝記念塔を見に行きました。ティアガルテンの中にあるこの塔は普仏戦争での勝利を記念して建てられたもので、鉄血宰相ビスマルク主導で統一ドイツ・第二帝国が成立し、ドイツが急速に強国になった頃のものです。塔のあちこちには第二次大戦時の銃弾の跡が残っていました。日本と違って石造りの町のため、戦争の傷痕がいつまでも消えないのでしょう。注意してみていると同様の傷は至る所に見ることができます。塔の上までは階段で登ることができました。上からベルリンの町を見渡すと私が見てまわった場所の位置関係がよく分かりました。

11時30分、KDW(カー・デー・ヴェー)というデパートで女性軍と合流した後、ベルリン・フィルのチケットを買いに行くという、しうち君夫妻と一旦別れ、私たちは土産物を物色しました。レジのおばさんに「今晩日本に帰るんです。」と言うと、おばさんは「スイス航空機が落ちたので気をつけて帰ってね。」とやさしく言って、クッキーのサンプルをたくさんくれました。ダンケ。 その後ホテルに預けてあった荷物を引取ってツォー駅に向かい、駅でしうち君夫妻と再び合流しました。 ドイツでは金曜日は半日で仕事を切上げる人が多いそうで、そのせいか駅は日本みたいにひどく混雑していました。私たちはそれぞれに昼食用の食糧を買い込み、13時30分にホームにあがりました。しうち君は日本からビデオデッキやホルン等を持ち帰ってきたため、持ち切れないほどの荷物量です。これでどうやってニースに行ったというのでしょう。

13時52分発で5分遅れの ICEに乗りベルリンを後にしました。私たちはジャーマンレイルパスのおかげで1等に乗れましたが、しうち君たちは2等チケットで、しかも混雑のために座れずドアのところに立っていました。私は彼らのところまで行き、彼らとしゃべっていました。1時間ほどでマグデブルクに到着。しうち君は旧東ドイツのこの町のことを「あまりきれいな街ではない」としきりに言っていました。みれば確かに少し古い共産圏にありがちなアパートメントが多く、ドイツ独特のきれいな家並みは余り見られません。バイエルン地方の諸都市とは違う雰囲気の町並みのようでした。米ソ両軍が握手した「エルベの誓い」の場面となった橋が遠くに見えました。しうち君の家や職場のホールは見えませんでした。 ここでしうち君たちは下車しました。写真を撮った後がっちり握手して彼らと別れました。本当にお世話になりました。またメールにて交流しましょう。それにしても、彼らはほどなく家に着きますが、私たちはここからが長い道程です。

ICE は私がいろいろ乗った中で初めて専用軌道を走り、スピードを250キロまで上げました。さすがに早いです。それでもベルリンを出てから乗換込で5時間以上もかかってフランクフルト空港駅に到着しました。

19時01分、空港駅に到着。ホームにはTAKEUCHIさん夫妻が待っていました。メールで散々お世話になった方です。私たちは彼らに挨拶をし、空港内の喫茶店で1時間程談笑しました。私はドイツ旅行の感想を述べたり、疑問に思ったことを質問したり。時間も無かったこともあり、堰を切ったように話をしました。話が未整理の状態だったのでさぞわかりにくかったと思います。TAKEUCHIさんがこれを読んでいたならば、この旅行記で私が何を言おうとしていたのかを推察していただきたいと思っています。 ところで、TAKEUCHIさんのフィアンセはドイツ人でとてもやさしそうな人でした。私の妻の目がハートマークになり私は困りました。でも悔しいですがたしかにカッコ良かったです。

20時過ぎに彼らと別れ、いよいよ離独の手続に入りました。航空券を受取り、ゲートをくぐって免税店で土産を買いました。免税店の品揃えは良くなかったです。食事する場所も少ないので、空港で食料や土産を調達しようと思わない方が良い感じです。 22時10分に大韓航空機に乗り込み、22時30分に離陸しました。遅い夕食を機内で食べた後、私は旅の疲れが出たのか、あっという間にぐっすり寝てしまいました。

旅の最終日はあわただしいのが相場ですが、今回も名残を惜しむまもなくドイツを後にしました。ノスタルジーは少し遅れて感じるのでしょう、きっと。
 

9月3日(木)
ベルリン観光

ICNのベッドで目覚め、食堂車へ食事に行きました。朝食はホテルと同レベルのバイキング。なかなか充実していました。私の食欲もほぼ回復し問題無し。ちなみに朝食は切符の料金に含まれていました。

7時。ベルリン・ツォーロギッシャー・ガルテン駅に到着。ここは旧西ベルリンの中央駅で、大半の客が降りました。私たちは荷物整理が間に合わず終点のリヒテンベルク駅まで乗りました。ツォー駅から先は旧東ベルリン地区です。かつて壁があった境界付近は首都移転に向けた大規模な建設工事の真っ最中で見渡す限りクレーンや足場が組まれたような景色が広がっていました。そんな中にベルリンの壁やまだ再建中の国会議事堂(Reichstag)、また戦勝記念塔(Siegessaeule)や東側が作ったテレビ塔が見えました。ベルリンに来たのだという実感が込み上げてきてうれしくなりました。

7時20分、リヒテンベルク駅に到着し列車を降りました。隣のホームからはロシア行きの列車が人と荷物を文字どおり満載して停まっており、ここが東欧の入り口であることを感じました。ここから市外電車のSバーンに乗り換えました。Sバーンは窓が落書きだらけでとても汚いです。ドイツのどこに行っても鉄道沿いは落書きだらけであり、ドイツ人の常識を疑いたくなる一面をまた見てしまいました。

ツォー駅で電車を降り、クーダムにあるホテルにチェックインしました。ここはドイツ在住のTAKEUCHIさんに予約をメールでお願いしたホテルです。話がきちんと通っていたので感激しました。

クーダムのマクドナルドでお茶をしたところ、隣に座っていたドイツ人のおばさんに話し掛けられ、世間話になだれ込まれて往生しました。何だか今回はこういったハプニングが多い気がします。

この日のベルリンはひんやりと寒かったです。おまけに風が吹いているのでちょっとした木枯らしのよう。人々はジャンパーをしっかり着ていました。私たちは震えながら観光に出掛けました。まず国会議事堂を経てブランデンブルク門。議事堂はナチスの放火と独ソ両軍の市街戦で破壊されたものを現在再建中でした。来年には完成するとのことです。その周辺も工事中でとても埃っぽかったです。ブランデンブルク門はかつて東西分断の壁であったことが嘘のように人と車が行き交っています。ただ分断と壁崩壊をリアルタイムに知っている世代の私は歴史の重みを強く感じてしばらくその場に立ち竦んでいました。この場所にはうわさで聞いていた物売りがやっぱりたくさんいて東ドイツ軍やソ連軍の帽子や勲章を売っていました。私はソ連の勲章を多分にせものと知りつつ10マルクで買いました。
門をくぐってティアガルテンを少し行ったところにソビエト戦勝記念碑がありました。碑の両脇にはT34戦車が置いてあり、軍事オタクの私は感涙しました。天気も良いし最高です。

車も好きな私は通りにも終始注目していましたが、ベルリンではあのトラバントを見つけました。東ドイツの国民車です。ボディーはプラスティック樹脂、エンジンは2ストローク、極めつけはヘッドライトのスイッチがライトの下に付いており、点灯する時はわざわざ外に出てこなければならないという、共産主義の非効率性を体言したような車です。実物を見たら私が聞き知っていたことは全て事実でした。でもスタイルはローバー・ミニのようにかわいらしくそんなにいやな感じではありません。とある車など、レカロシートが装着されており、けっこうそれなりに愛されているのだな、と微笑ましく思いました。トラビー、頑張れ!

タクシーを拾ってペルガモン博物館に行きました。ベルガモン博物館は古代ギリシャ・ローマ、メソポタミアの発掘品が展示してあるところです。私は世界史が好きなのでとても興味を持ってみてまわりました。展示内容は素晴らしく、ペリクレスやユリウス・カエサルの胸像など歴史の教科書に載っていたいくつかの有名どころもここにありました。オクタヴィアヌス時代のコインに「アウグストゥス」と彼の尊称が掘られているのを見た時は知識でしかなかった歴史を現実の出来事として実感できて感激しました。感激しすぎて全体の1/2を占めるメソポタミアの展示物を見るのを忘れて出てきてしまいました。惜しいことをしました。隣のボーデ博物館にも行きました。ここには古代エジプト関係の展示が充実しています。しかし、整理中のためかほとんど展示が無く、収穫はありませんでした。

その後移動してチェックポイント・チャーリー博物館へ行きました。ここはベルリンの壁に関する展示があるところです。こういったことに大変興味がある私は文字どおり穴が開くほど展示を見てまわりました。検問所に並ぶ西側の車の列のすぐ脇で、東ドイツ軍が西への脱出者を射殺したカラーの連続写真にはショックを受けました。しかも日付は1989年4月。壁が崩壊する直前のものでした。妻はサバが死んだような眼でついてきますがこの際無視しました。

ここで私のベルリン予定は渋々ながら一区切りつけ、妻の買い物タイムとなりました。今度は私がうつろな表情で妻についていきました。ただ繁華街のクーダム通りでカイザー・ヴィルヘルム教会を見つけ、しばし見上げました。ベルリンはやっぱり見所が多いです。当初の計画通り1人で来ていたならミュンヘンとベルリンはもっともっと時間を割いてあちこち見てまわるはずでした。その時間を失って少し残念に思います。この日記の記述量も前半よりも後半の方が明らかに情熱を持って大量に書いているので、やっぱり私はロマンチック街道ではなくミュンヘンとベルリンに一番行きたかったのだと再認識している次第です。

夕方、ホテルに戻りしばしベッドでうたた寝をしていると、ドアをノックする音が聞こえました。ドアを開けると、しうち君が立っていました。ニースから戻ってきたのです。我々は予定通り、3度目の正直でやっとドイツで会うことができました。過去、2回こうするチャンスがありましたが、そのたびに私が原因で実現にいたらなかったのです。1度目は97年12月で、この時は私が冬のヨーロッパを嫌い、ハワイに目的地を変更してしまいました。そして98年7月は私が仕事の都合で行けなくなってしまったのです。そのたび毎に、しうち君には迷惑をかけました。

しうち君には「ドイツらしい店に連れていって欲しい」と日本で頼んであったのですが、私がドイツ料理がNGであるため、頼み込んで日本料理の店に連れていってもらいました。彼は拍子抜けしたようでしたが、それぞれの奥さん同伴でチャーシューメンやら天ぷらそばやらを食べながらビールで乾杯し楽しい一夜を過ごしました。

彼らも私たちのホテルに部屋を取ったとのことで、食事後は明日の予定を打ち合わせてそれぞれの部屋に引き揚げました。ドイツ最後の晩はこうしてふけました。さあ、明日はいよいよ日本に帰る日です。ちょっと寂しくなってきました。
 
 
9月2日(水)
ミュンヘン → フュッセン・ノイシュヴァンシュタイン城 → ミュンヘン → ウルム → ミュンヘン

昨日、体調を崩しましたが、目が覚めてみると一応出歩ける状態まで持ち直していました。しかし食欲は全く無く、ホテルのドイツ風朝食には手が出ませんでした。思いがけなくダイエットのチャンス到来です。悲し。

今日は有名なノイシュヴァンシュタイン城に行きました。ミュンヘンからフュッセン行きのローカル快速に乗り2時間の行程です。 ドイツの鉄道は自転車を載せることを前提とした作りになっており、行楽日和の今日も自転車を伴った観光客が乗ってきました。驚くのは通勤電車にも自転車と一緒に客が乗車してくることです。改札が無いので自転車でホームまで乗り付けることが可能であり、また、日本のような殺人ラッシュも無いのでこのようなことが可能なのでしょう。

改札が無い分、車内検札はとても頻繁に行なわれます。車掌の愛想が悪かったりした場合、「乗車券を拝見・・・。」と手を伸ばして近寄ってこられると、ここがドイツであるだけに戦争映画に出てくる、ゲシュタポに「身分証を!」とチェックをされている場面を思い出してしまいます。そのくらい検札はしっかりやられます。

とにかく時間や混み具合にはゆとりがあることを前提に全てのシステムが組まれているのがドイツ鉄道であり、日本と発想が根本から違うように思いました。車両のコンパートメントなどの座席配置も、ゆとりはあるものの輸送効率は大変低いものであり、日本ではドイツ流のシステムを使っての業務は絶対不可能でしょう。この点でドイツは私にとっては他の惑星のような隔たりを感じました。ただ、乗客の移動手段として便利であるためには何をすべきかよく考えてそれを実行に移している姿勢は大いに評価されるべきでしょう。

フランクフルトからミュンヘンにかけてのドイツは風景の変化が少なく、集落となだらかな丘陵地帯と、森林が延々と続くのですが、オーストリアとの国境に近いフュッセンに近づくにつれてアルプスの山並みが見え、風景が明らかに変わってきました。先ほど述べた戦争映画といえば「大脱走」でスティープマックィーンがドイツ軍の制服を着てバイクを乗り回してスイス国境を越えようとするシーンがありますが、フュッセンに向かう車窓はまさにあの映画のワンシーンそのままです。これまで風景に変化が無かっただけにアルプスが近づいてくると国境が近いことを実感します。フランク・シナトラ主演の「脱走特急」で、捕虜がアルプスを見て歓喜の声を上げる気持ちが良く分かりました。ただしあれはイタリアからスイスに向かう映画ですが。

フュッセン駅に到着し、タクシーを拾ってノイシュヴァンシュタイン城に向かいました。城のふもとで車を降りると上り坂を上がっていきます。何も食べていない私にこれはこたえました。おかげで城の見学や城の全景の撮影が非常におざなりになってしまいました。城自体は作られてからまだ100年しか経っていないせいかとても新しく感じます。中には水道も通っており、建築の様子が写真に残されているほどです。ドイツの石造りの城としては新品同様といったところでしょうか。それにしても建築を命じたルードヴィヒ2世は美男子です。

見学もそこそこに終えて私たちは駅に戻ってきました。ちょうど昼だったのですが食欲は全くありません。そこに「お弁当あります。」という日本語の看板を発見したのです。ドイツ料理に参っていた私たちは迷わずその店に突進しました。その店はありがたいことに日本人の経営で、シャケ弁当や味噌汁が手に入りました。私たちはむさぼるように日本食を食べ、南方戦線の日本兵のように「梅干しと白いご飯が食べたい・・・。」という状態だったのが、ようやく元気を取り戻しました。

日本のご飯を食べて俄然元気が出た私たちは、ミュンヘンに戻ると返す刀でウルムに向かいました。妻の希望で「パン博物館」を見学するためです。ウルムに着いてみると世界一の高さを誇る教会の塔が夕空にそびえたっているのが見え、ものすごく感動しました。 博物館に入ると、そこではソプラノ歌手のミニコンサートが行われていました。係員が私たちに声をかけるので適当に「Ja」とか答えていたら、私たちは訳が分からないままにそのコンサートの観客と主催者との立食パーティーに招待されてしまいました。いろんな人からワイングラス片手に話し掛けられ、私はどんな顔をしてよいのかも分からず言葉も出ないままに立ちすくんでしまいました。妻は出されたパンを「これ、おいしい!!」とか言ってせっせといくつもポケットに仕舞い込んでいました。いい気なものです。ちなみにこのパン博物館は1人5マルク必要なのですが、コンサートとパーティーのどさくさに紛れて払わずじまいでした。係員も「どうぞどうぞ!」という感じでしたので。

駅のホームでパンと野菜ジュースの簡単な夕食を取り(私が食欲不振のため、妻には粗食につきあってもらう結果となり迷惑をかけました。)、パリ発のEC(Euro City)に乗ってミュンヘンに取って返し、22時30分、ベルリン行きの寝台特急 ICN(Inter City Night)に乗りこみました。私たちはシャワー、洗面台、トイレ付の個室特等です。中は狭いながらもとても機能的で快適です。この ICNは乗客の自動車も、連結している貨車で運ぶことができ、動く列車ホテルとしてとても機能的に作られています。車輪が客車の連結部分にまたがるような形で取り付けてあり(小田急ロマンスカーがこの方式)、レールの継ぎ目から来るショックを極力押さえる構造になっていたり、見るべき点の多い列車でした。

23時12分、列車は人もまばらなミュンヘン中央駅を音も無く発車し、私はすぐに寝てしまいました。 今日は列車に乗ってばかりでしたが、なぜか一番楽しかったような気がします。旅もいよいよ終盤突入。さらば南ドイツ。
 

9月1日(火)
ミュンヘン市内観光

朝食後、ホテルを早々にチェックアウトして、もっと安いホテル探しをしました。泊まったホテルの2軒隣のホテルと交渉し、175マルクの部屋をにチェックインしました。そんなに安くはありませんでしたが、フロントが気さくな感じで、それだけで前のホテルよりマシでした。それに朝から部屋に荷物を置いてよいといわれたので荷物を担ぐ必要もなくなり、メリットの多いチェックインでした。ただ、部屋は小ぎれいだったものの、多少においを感じ、少し気になりました。
今日はまずドイツ博物館(Deutsches Museum)に行きました。ここには主に戦前・戦中のドイツ科学・工業の最先端が展示されています。私は戦争中のドイツ軍の兵器とご対面してすっかり興奮してしまいました。Me262ジェット戦闘機、Me163ロケット戦闘機、Me109戦闘機、Ju52輸送機、V1、V2ロケットの実物が展示してありました。敗戦で戦勝国に接収されたと思っていたこれらのものがこんなにドイツに残っていたことに驚きました。また、その精巧な出来栄えに、ドイツの技術の高さを感じずには居れませんでした。その他にはUボート、ライト兄弟の飛行機、シュヴィムヴァーゲン、ケッテンクラート、F104戦闘機などが目を引きました。軍事オタクにはこたえられない場所でした。

博物館の中に「インターネット・カフェ」なるパソコン喫茶があったので、そこで日本の友人のホームページを見てみました。ドイツで本当に見ることができるかどうか、くだらないとはわかっていてもこの目で確かめたかったのです。結果は文字化けしてはいましたが、見ることができました。日本から遠く離れているのにこんなに手軽に通信できるとは、インターネットとは本当に便利なものだと思いました。いくつかのホームページには次のようなメッセージを入れておきました。

「hello!  i send this message from munchen,germany.  i am now in deutsches museum.  i see the homepages of my friends in owo.  can you read it?  bye!」

昼食は博物館内のインビス(スナックコーナー)でウィンナーとザウアクラウト、ポテトチップを食べました。この頃までにドイツ食に辟易していた私は、この昼食で完全に調子を崩してしまいました。
 

博物館の後、市庁舎裏のレジデンツに行きました。中の装飾も素晴らしかったですが、戦争で破壊された建物と美術品を復元していく過程を写真で展示してある部屋があり、その執念に感動しました。装飾そのものは、ここまでゴテゴテと飾らなくてもよいのではないか、と枯れ山水を愛でる一日本人としては思える部分もあるものでした。

レジデンツの後、有名なホーフブロイハウスの前まで行きました。ここは1923年にヒトラーが革命を起こそうと立ち上がった歴史的な場所でもあります。その近くにあるミュンヘン三越は空いており、店員が暇そうにおしゃべりしてました。もっとビッとしなきゃいかんよ、君たち。

ミュンヘンの繁華街はそのイメージほどにはきれいではありませんでした。特に目立つのはタバコのポイ捨てと犬のフンを飼い主が片づけないこと。車のアイドリングを厳しく戒める国民性からするととてもアンバランスな行為と思わずにいられません。自分たちが気にしないことは全然実行しない、ドイツ人のある種の頑固さが悪い面で出ている例だと思いました。

また、20時になると町中の教会の鐘が一斉に鳴りだし、商店も一斉にシャッターを降ろします。すると繁華街の人達は急にその場を去る流れを作り、やや騒然とした感じになります。堅気の人が安全に往来できる昼の顔が終わり、治安を保障しない夜の顔に、町が表情を変えるのは日本とはかなり趣が違うと思いました。街を歩く時には日本よりは常に周囲に注意を払い、危険には近づかないということを現地の人は徹底している感じでした。

この後は妻の買い物タイムとなるのですが、私はどうにも気分が悪くなり、先にホテルに帰りました。そして寝るまで嘔吐と下痢を繰り返し、すっかり元気を失ってしまいました。テレビをつけてみていると、なにやら北朝鮮がミサイルを発射したとか、スイス航空機が墜落したとか、ニューヨーク株が急落して円高が一気に進んだとか、東北で地震があったとか、いろいろ重大ニュースが流れていました。特に株の急落はトップで扱われており、私も不安げに見ていました。体調も今後の旅行に支障がある状態となり、私はミュンヘンで進退極まってしまいました。

日本食が恋しいです。思わず日本の野山を瞼に思い出してしまいました。トホホ・・・。
 
 
 8月31日(月)
ローテンブルク → ミュンヘン

ドイツのホテルにはたいてい朝食が付いてくるようです。オカズはハムとチーズ。本場だけあってとてもおいしかったです。しかし、毎日毎食ハム、ウィンナー、チーズ、ジャガイモ、ザウアクラウト、パン、そして昼夜はプラス、ビール、が続くのもドイツの特徴です。さすがにドイツ料理への食指が動かなくなってきました。でも食べてしまう悲しい性・・・。

ホテルをチェックアウトしてローテンブルクの町を改めて一周しました。今日は月曜日。ドイツ人も働いています。雑貨屋なども開いています。ベンツのゴミ清掃車が街を走りまわっています。
Rathaus(市庁舎)の塔に登って城壁に囲まれた典型的な中世の町並みを堪能しました。ただ、塔に登る階段が異常にミニチュアなため、小柄な我々日本人でも昇降にとても苦労しました。案の定アメリカ人が立ち往生していました。
ヴュルツブルクが比較的普通の町だとすればローテンブルクは景観保存都市です。どちらもそれぞれに素朴な雰囲気があり、立ち寄る価値が大きい場所だと思いました。

昼、再び電車に乗りヴュルツブルクまで戻り、そこからドイツ版新幹線、ICE(Inter  City  Express)に乗り換えて一気にミュンヘンに移動しました。しかし、いきなりヴュルツブルク到着が10分遅れ。ドイツ鉄道は時間に正確ではなかったのでしょうか。超特急も遅れては仕方あるまいに。その後の経験も併せて言えば、ドイツ鉄道は5分の遅れくらいは気にしないみたいです。
私たちはジャーマンレイルパスの1等チケットを持っていたので、文字どおり何でも乗れます。しかも1等車に。ICEの2等車は旅行全体を通じて混んでおり、話に聞いたほどには容易に座れそうもありませんでした。その点通常運賃が1.5倍の1等は空いていることが多く、座席はテレビ付きで広く、車掌は料理を運ぶボーイ係も行なうなど扱いには大きな差があると感じました。
ドイツの列車は機関車が客車を牽引するタイプが多かったですが、このICEもそのタイプでした。つまり客車にモーターが付いていないので停車時や低速走行時はとても静かでした。日本の新幹線のように専用軌道がまだあまりなく、標準軌とはいえ在来線を走るので、せいぜい200キロまでと、さほどスピードが出せず、しかも在来線では小刻みに振動がきたりしてまだまだ高速輸送システムとしては発展途上だなと感じられました。日本の新幹線よりも肩に力が入った感じが無いのが魅力ではありましたが。IC以上の列車に人の名前が付いているのも私は好きでした。

教会の尖塔を中心に赤屋根のきれいな家が集まるドイツの集落と北海道のようななだらかな丘陵地帯を見ながらミュンヘンに到着しました。気が付くと周りの会話の「グーテン・ターク」は「グリュース・ゴット」に、「アウフ・ヴィーダーゼーエン」は「アウフ・ヴィーダーシャウエン」に、とバイエルン訛りになっていました。おおっ感動。

初めての大都会に降り立つとそこは異民族のるつぼで、イスラム系の人たちが大勢いました。怪しい感じの人もたむろしていたりして、ガイドブックに見る「さわやかなバイエルンの首都」というイメージは消えてしまいました。ちょっと油断できない異国の大都という感じです。

到着後、繁華街の只中にあるホテルに部屋を取りましたが、ここのフロント係の女性がツーンとした感じの人で、私のドイツ語を全然理解せず、向こうの英語も早口で全然聞き取れず、値段は225マルクと高く、現金が無いのにトラベラーズチェックを断られ、と私はけっこうノックアウト状態になってしまいました。大都会の手荒い洗礼を受けた感じです。

夜、仕掛け時計で有名なミュンヘンの市庁舎の地下のレストラン(Ratskeller)に、本場のレストランの雰囲気を楽しみに行きました。ところがメニューに何が書いてあるのか、今までは何とか読めていたのに、ここではさっぱりわかりません。しかも給仕係が執事のような硬い感じの人でニコリともしません。急かされるように適当にオーダーしてカラカラのノドをビールで潤しました。外国にいるという不安がわいてきました。大変な町に来てしまったようです・・・。

でもこの給仕さんは実は愛敬のあるいい人でした。自分からカメラのシャッターを押してくれたり、ウィンクをして笑ってくれたり・・・。チップを弾むと「ダァーンケ・シェーン!!」と最敬礼してくれました。ミュンヘンに来て初めてホッとできました。

ホテルでトルコのテレビを見ました。アジア色の濃い歌謡ショーをやってました。さすがガストアルバイターの国です。

8月30日(日)
ヴュルツブルク → ローテンブルク

ホテルをチェックアウトした後、レジデンツ(宮殿)に行きました。ちょうと朝の10時になり、町中の教会が鐘を一斉に鳴らし、とても良い雰囲気。鐘の意味も分からず「いやーっさすがヨーロッパだよね。」とか感動しながら礼拝堂に入ったとたん、パイプオルガンが鳴り響き、中にいた人たちが一斉に起立して讃美歌を歌いはじめたではありませんか。私たちはなんと日曜礼拝に迷い混んでしまったのです。荘厳な雰囲気を味わえたのは良いのですが抜けるに抜けられません。なんとか隙を見て脱出に成功しました。あの鐘は「いらっしゃい、いらっしゃい」という客寄せの鐘だったのです。知りませんでした。

今日は日曜日です。ドイツでは店の閉店時間について法律で定められており、土曜日の夕方以降と日曜日は営業が禁じられています。そのため、昨晩ヴュルツブルクに到着後、今日にいたるまで買い物らしい買い物が全くできません。店先に照明がともっている店も多いので空いていると思いきや、そういう店も全て閉まっています。営業できない分をウィンドショッピングしてもらうことで埋めようとしているのかもしれません。飲み屋やファーストフードの店は開いてました。コンビニなどは全くありません。こういう不便さは、コンビニができる前の20年くらい前の日本の正月の不便さを想像すればわかっていただけると思います。

昼過ぎにヴュルツブルクを離れ、ローテンブルクに向かいました。俗に言う「ロマンチック街道」を進んでいるわけです。シュタイナハという駅でローカル線に乗り換え、ローテンブルクに着きました。ここの土産物屋は前述の法律にもかかわらず多くが開いていました。ここには日本人観光客も多く、かなり人出がいました。

今夜のホテルからは予約をしていないのでホテル探しからしなければなりません。荷物も重いです。我々は「グロッケ(鐘)」という名前のホテルの門をたたき、空き部屋があるかを尋ね、チェックインしました。このホテルは自家製ワインを作っており、地元では結構人気のホテルのようでした。ホテルの人も親しみやすく、値段も適価で好感が持てました。旅行全体を通じて感じましたが、ドイツのホテルは簡素ではあるものの清潔で、日本人の感性には合うと思います。家や家具を大切にするというドイツ人のイメージに違わず、トイレなどもきれいでした。また、ドイツ人も概して誠実で、ボられたり、だまされたりというような危険も日本同様の低さであるように感じました。

チェックインの後、夕食に行くのも兼ねて街を散策しました。ドイツ人の観光客も多いので、この街は日本で言うところの京都や飛騨高山のような、昔の町並みを意図的に残した観光都市という印象を受けました。その点ちょっとあざとい感じもありますが、日本の観光都市に比べればとても質素な雰囲気なので素直に雰囲気を楽しめました。日没が20時以降と遅いので一日を有効に使って観光できました。
 

8月29日(土)
成田→ソウル経由→フランクフルト→ヴュルツブルク

時折大雨が降る中、大韓航空にて成田を飛び立ちました。ソウルに12時に到着、そこでフランクフルト行きに乗り換えて13時45分に離陸。チンタオ、ウランバートル、モスクワ、ベルリンを結ぶ線を飛び現地時間の29日18時10分にフランクフルト・マイン空港に到着しました。12時間以上の飛行だったのでどれほど退屈するかと思っていましたが、良く寝たことと、若干の興奮もあり、非常に短いフライトに感じられました。航空会社のお国柄のため昼食にビビンバが出て、機内にニンニク臭さが充満したのには笑ってしまいました。また機内で映画「タイタニック」を見られたのはラッキーでした。機上からはユーラシアの大地が延々と見ることができました。韓国は日本とよく似た風景でしたが中国に入ると地上の模様のパターンが変わり、モンゴルの草原地帯や、シベリアの手付かずの森林地帯は私にはとても興味深いものでした。

今回の旅行は団体ツアーでは無いので、フランクフルトに着くとあとは自力で行かねばなりません。ジャーマンレイルパスでの搭乗手続きからドイツ語の洗礼を受けました。ドイツ語での交渉はじきに慣れましたが、最初はとにかく緊張しました。

DB(Deutsche Bahn,ドイツ鉄道株式会社)のIC(Inter City。ドイツ新幹線に次ぐ速さの在来型特急。)に乗り、ミュンヘン方向に約1時間のところにあるヴュルツブルクに移動し、そこで予約してあったホテルにチェックインしました。こうしてようやく旅のスタートラインに着くことができました。長い旅路でした。
 

 
 


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