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介(看)護していて感じたこと


2012.05.12(土) これが医療?

昨日、母の入院先の介護支援担当と、主治医と三人で、母の今後のことを話し合った。結果は見えている。
「ここは救急病院だから早く出て行け」ということなのだ。元には高齢者を長期間入院させるディメリットが
ある。病院は否定するが、現にそういう患者が集まっている病室に母はいる。脳梗塞後、誤嚥による肺炎後と
いうことを考えれば(これは病院の責任範囲の発症だ)、せめて自分で食べられるまでは治療の範囲だと思
う。意見の違うのはここからだ。中心静脈の栄養点滴を入れた時点から、病気から介護措置に変わっている、
だからこの病院にはおけない。そうかといってこの中心静脈栄養カテーテルは簡単に外せない。何かこの辺り
がおかしい。父の入院していた大学病院では、何度も鎖骨下の中心静脈カテーテルを取り替えているし、途中
で中止もした。「一度入れたら外せない」というのは変だ。これが方便に使われている。堪えて幾つか言わな
かったことがある。@中心静脈を外して、末梢静脈に移してください、A転院という形で病院を紹介してくだ
さい。Aは婉曲に言った。「お前の病院は信用できないから他の病院に移す」とまでは言えなかった。信用で
きる病院だし、できれば転院させたくない。「置けない」というなら転院しかない。中心静脈カテーテルがな
ければ、普通の貧血と脳梗塞後の治療ということで、転院は可能だと思う。療養型病院にはいろいろな理由で
入れたくない。病人として亡くなって欲しい。子供の心は複雑だ。私が我をはならなければよかったのか。そ
うしたら母の安定した状態もなかった。年齢だけで諦める訳にはいかない。私は、「できることをしないこ
と」が一番嫌いだ。丁度そのストライクゾーンに入ってしまっている。


2012.05.06(日)こういうことなのか

日曜日の朝、新聞を取りに行く。母は最後まで、「朝、玄関に出て朝刊を入れる」ことを自分の仕事にしてい
た。転ばれたら困るからいくら止めてくれと言っても、変えなかった。入院から115日目になる。母の不在
がこれだけ長くなると、部屋から介護保険で借りていた電動ベットやマットレス等が片付けられ、二階で動く
母の気配がなくなり、家に溢れていた糞尿の匂いやそれを打ち消すための消臭剤の匂いも、母の生活の痕跡が
少しずつ消えていく。私達の生活の中に確かに母はいるが、施設に入れたり、長期の入院による不在は、私達
の生活と母のいた生活をほんの少しずつ変えていく。細かい習慣や食事の好みやそんなものが少しずつ変わっ
ていく。今私達は、母がいなくなったときの練習をしている。有名なスポーツ選手が、外国にいて母の死に目
に会えなかった。大きく報道され「悲劇」として記憶している。しかし、同居していない人は段々遠くなる。
これは自然が人間に与えた生活の知恵の一つかもしれない。


2012.05.03(木)

まだ雨は降っている。一晩寝て私はふっと思った。グループホームの研究をしたことがある。介護保険制度の
できはじめの頃、自立できる初期の認知症の患者が、集まって家族とともにお互いに世話をしながら運営して
いくシステムだ。特養、老健、療養型の病院、それに大手の介護事業者。制度の設立時の意志とは異なり、
「介護」は大規模事業者の寡占の中、一つの「産業」としていびつな発達をしてきた。過程でワーキングプア
の問題も生じている。少ない公立の施設、高額な私立の施設、低所得の被介護者は受難の時代になっている。
何度も書いてきた、「介護と看護の境目」に今母はいる。母の前でも、介護施設から病気を得て病院の患者に
なり、小康状態になるとまた介護施設に戻っていく、老人のための病床はそんな人達の一種の通過駅になって
いる。老人ホームのパンフレットにある、ベットにいる老人の周りに綺麗な自然と家族達が集う、そんな光景
は夢である。老人ホームでは死なせてくれない。私に10億の金があったら、自分の家の土地を提供して、安
心して死ねるグループホームを造りたい。60坪の8階建て、1階は駐車場、3階から8階までは一人暮らし
できる個室。屋上からはタワーが目の前に見える。近所の個人医院や生鮮食品の業者と提携して、地域の産業
の手助けもできる。最終的には社会福祉(医療)法人として継続する。どこかの病院の「老人医療ブランチ」
と介護を合体する。特養と老健と病院の合体だ。落ち着いた介護と看護、何時追い出されるか分からない不
安、そんなものを解消して、自分のベットで死ねる。そんな地域に密着した施設を造りたい。


2012.05.02(水)何をしているのだろう

毎日毎日母を見舞いに行き、介護したり看護したり、私は一体何をしているのだろうと思う。母の死を目の前
にして、もっと嘆いたり悲しんだりしないといけないのかと思う。実際に一人になって、若い頃の母の苦労を
思い出したりするとたまらなくなる。毎日、朦朧とした意識の母の前で、「ごめんね、ごめんね」と言い続け
ている。それと同時に冷静に一人の老人の最後をじっと見ている私も居る。98才という長寿は望めないが、
私達も何年か後には迎える自分の「死」を、母を通じてじっと構えて見ている。毎日、午後早く姉が行き、午
後5時過ぎに弟が付きそう、この病院のこの階には、そんな患者はいない。「愛」などというべたべたとした
感情とは違う。会社でも自宅でも何をしていてもいたたまれないのだ。不思議に病院にいるときは、母が何時
いなくなるかなどということは考えない。毎日の小さな変化の一つ一つが、何故か気になる。受付の人も看護
師も呆れていると思う。いい年をした大人が二人、毎日見舞いに来るのか。先は見えているじゃないか。そう
思っているかもしれない。こんな感情は自分でも不思議だ。父の時もそうだった。だが父はもっともっと若か
った。今回は穏やかだがやはり辛い。こんなことなら家に置いておいたらよかったと思う反面、これだけの清
潔な環境や医療を私達が提供できるはずがない。タワーに背を向けて病院に走る時、ふっと悪い夢を見ている
ような気がする。


2012.04.28(土)ぬかるみはまだ続く

昨日、中心静脈栄養に切り替えた。これは私と姉にとって大きな選択だった。昔のように医師が突然施術をす
るということがなくなり、いちいち承諾書を書かされる。「任したんだから好きにやってよ」とまでは言わな
いが、本当に重要なことだけにして欲しい。部屋の移動まで承諾を取りに電話が来る。その度に「何かあった
のか」と緊張する。呼吸が止まりそうになったら連絡をくれればいい。まあ、これは極端だが、母は何もなけ
れば若干の命を得たのだろう。新しいことをすると必ず何かで躓く、そのたびに状態は少しずつ悪くなる。こ
れが今までの経緯だ。これから何かまたある。連休は病院も手薄だ。来週一杯心配は続く。もう心配するのは
止めようと姉と話し合ったばかりだが、そんなに簡単には割り切れない。


2012.04.21(土)ぬかるみは続く

脳梗塞の後、個室から準急性期室という四人部屋に移った。姉は医師から、末梢の点滴ラインが取りにくくな
っているので、次を考えてくださいと言われた。私は中心静脈栄養に決まっていると考えるが、そう考えない
人もいる。胃瘻も鼻瘻も嫌ならそれしかない、さもなければ点滴をやめるという選択だ。確かに胃に直接栄養
を入れる方法は、逆流と誤嚥下の確率が高い。母の場合は中心静脈はカテーテルを入れるときのリスクが高
い。しかし、点滴なしでだんだん衰弱するのを見ていることは私はできない。死ぬためには大変な苦労があ
る。眠るようにというのは最後の最後だ。たまに顔を見に来る人はいい。毎日相当時間顔を見ている者は何と
か手段を取りたい。間違っているだろうか。


2012.04.18(水)危機脱出

4月の15.16日は何度目かの危機だった。熱が40度以上に上がり、脱水症と心不全の両方が起こった。
原因は、胃液の誤嚥による肺炎。はっきり言って油断だ。一月ぶりにゼリーが胃に入れば胃液も頑張る。そこ
が考えが足りなかった。訓練のない土日にも胃液は出ていた。15日(日曜日)には亡くなっていてもおかし
くない状態だった。後から気がつく。しかし、この人は強い。何度も何度も危機を乗り越えている。「まだ死
ねない」という何か確信があるようだ。私達も気がついたことは医療側にせっせと言わなければいけない。可
哀想だとか、苦しそうだなどという表面の変化だけ見ていてはいけない。少しだけ先を予測しないと、危ない
ことが多い。何しろ病院は驚くほど手薄だ。


2012.04.07(土) 自分と他人。

「手術をします」と言われたときの自分の気持ちを思いだしている。妙に頭が冴えて、(もしかしたら死ぬのかな、助かっ
ても長くなるのかな)と、そんなことを考えていた。今母が原因不明の高熱で入院し、入院中に脳梗塞を発症し、毎日毎
日兄弟姉妹が入れ替わり見舞い(介護)しに病院に行っている、そんな状態が3ヶ月続いている。入院してから認知症
が進み(私は「ぼけ」が認知症だと思っていたが、「食事を取りたくない」、というのも認知症だと始めて知った)、点滴で
かろうじて命を繋いでいる。98才という年齢が、胃瘻とか中心静脈栄養といった、「若い人向け」の治療を阻む。毎日
衰弱している終わりの見えない介護訪問は辛い。自分のことは一と月で終わった。結局、人間の生きる気持ちは、「希
望」で裏打ちされて真価を発揮する。先が見えない。いつ死んでもおかしくない。これは癌の末期にならないと出てこな
い。とても異常なことだ。それが原因不明の病気の老人にはあっという間に現れる。毎日が(今は)準危篤状態だ。私
は「自分の死より他人の死の方が怖い」ということを始めて思い知った。自分の病気の場合は、運と二人連れでただ闘
うだけだ。他人の病気は家族には、痛みを和らげることも熱を下げることもできない。同時に「時間」が持つ力も感じて
いる。一気に死んでしまえば、ショックは時間が徐々に薄めてくれる。徐々に悪くなっていく間はその人との生活をじっく
り、これでもかこれでもかと思い知らされる。時間は残酷だ。
今日はベットの入れ替えがあり、昼12時頃、母が移動した先に居たおばあさんの連れ合いと帰りが一緒になった。毎
日夕食の時介護に来ているおじいさんだ。83才だという。誰かに話したいのだろう問わず語りに、「大分股関節の周り
が壊死してきていて、個室に入ったんですよ。昨夜は息子と徹夜しました…いわゆる危篤と言うんですかね」、淡々と話
す。「大変ですね。お大事になさい」としか言いようがない。この病院に通うようになって、「年齢」が非常に気になる。普
通な状態で自分が健康でいられる時間を計算してしまう。私は臓器が半端だ、余計に気になる。それにしても母の98
才という年齢の凄さが分かる。10年前には自分で通院し、買い物をしていたのだから。


2012.03.29(木)

午前3時、胸から首筋に粘っこい汗をかいて目が覚める。夢を見ていた。母を自宅に引き取り、そこに医師が
来ている。母は枯れ木のようにほっそりとして、ふらふらと歩いている。食べ物は食べられない。夢の中の家
は決まって建て替え前の家だ。その茶色い畳の六畳間で話をしている。「このまま餓死をしろというのです
か」、「それはあなた方の選択でしょう。病院ではこれ以上は看られません」。心の中にある葛藤が夢ではス
トレートに出てくる。ここ数日、この時間に寝汗で目が覚める。頭痛が続いている。血圧も上がっている。強
烈で継続的なストレスは私の体にも手を着けたようだ。不思議に悲しさというような感傷的な面ではなく、私
にあるのは、ただ「怒り」である。自分に対する怒り。医療に対する怒り。正体の見えないものに対する怒
り。フライパンでチャーハンかオムライスを作っている。それを見ている母の目、「私は食べられないから
…」という言葉。もう寝られない。


2012.03.24(土)

一週間が一月が早い。母の病状は私達に安心を何時も与えてくれない。熱、胸水、拒食、脳梗塞と何時死んで
もいい状態と、やや安定した状態が山谷状にサインカーブで続いている。後は母が自力で食べたり飲んだりし
ないと先はない。何を考えているのかなあ、と母の顔を見ていて思う。病室にいるときは過去のことなど思い
出さないが、自分一人になると思い出す。もうすぐ丸三ヶ月になる。結局、発端の熱については、幾つかの原
因はあったが、決定的なところは見つかっていない。何もないのに炎症反応はまだある。看護と介護、治療と
介護の境までとうとう頑張ってきた。これは凄いとしか言いようがない。それなのに、脳梗塞以来母が声を発
したのは一度だけだ。認知症なのか、脳梗塞なのか、主たる原因が分からない。医師も上手く説明してくれな
い。昏睡や昏迷やまして植物状態ではない。それなりの反応や感情が顔に出る。救急で運び込んだとき、医師
が、「よくここまで自宅で看ましたね」といった言葉が少しずつ分かってきた。正面のベットに、入院してか
ら母を入れようと下見をした老健施設から入院してきた人がいる。特養から入院してきた人も数人いた。私達
の介護は案外深いところまで行っていたらしい。だから余計に病院の看護と私達の介護との差が目に付く。入
院する状態で受け入れてくれる施設など特殊な病院以外存在しないのだ。


2012.03.22(木)

午前3時半。一度目が覚めたらなかなか眠れない。今日は母の病院の介護担当の人とお話をする予定だ。何を
言ったらいいのだろうか。もう母の反応がだんだん鈍くなっている。医師の言うように、胃瘻をしてこの病院
の運営する特養にでも入れてもらえれば最高である。時間がない。胃瘻をしても自宅で看ることはもう気力体
力が尽きている。そうかと思うとこの母にこれ以上痛い思いをさせていいのだろうか、それで何ヶ月か寿命が
延びるとしても、母は望むだろうか。いやこうなったら最後は自宅で看てやりたい。いろいろな思いが交錯し
て目が冴えてしまう。考えてみれば自分勝手な望みばかりである。できれば10年時間を戻してくれ。


2012.03.16(金)

母の急性期は今日で終わる。あんなに大きな梗塞範囲を保ちながら、よく頑張っている。口を利かないから何
をどう感じているか分からない。言語中枢や運動中枢は被害がないはずだ。記憶は少し危ない。植物状態でも
ない。これから残された短い時間のためにどんなリハビリがあるのか。良く見届けたい。


2012.03.12(月)

医者の言う「急性期」はあと4日だ。乗り切れるのか駄目なのか。毎日見ていると分からない。細かい変化ば
かりに目が行く。この時期が過ぎると、本来の疾患の治療と再発予防の治療が始まる。これは数ヶ月の単位ら
しい。だんだん意識から遠ざけている、「胃瘻」の決断が近づいている。公立の施設で胃瘻と若干の治療をし
てくれるところがあれば、非常に利己的な話だが、是非お願いしたい。話ができなくても母が「生きている」
ということの大切さは身に染みた。これがいざ、自宅介護となると、もう自信がない。胃瘻と点滴管理は自宅
では無理だ。私が仕事を辞めて着き切りで介護しても、今度は私の介護者が必要になるだろう。


2012.03.09(金) 毎日が危篤

何故毎日病院に通うのか、この病気は”神聖な”急性期が二週間ある。この二週間をどう過ごすかで予後が違
う。また、この急性期に亡くなる率も高い。母のような高齢者の場合特に何時亡くなってもおかしくない状態
なのだ。脳梗塞になる前も同じような状態だった。これはどこかで止めてくれないと、私達が参ってしまう。
兆候は出ている。先の見えない車に乗っているようなものだ。一日一日がこんなに大切だとは知らなかった。
父の時も一週間ばかり、「毎日が危篤」の時期があった。このときは特別に病院に泊まり込んだ。今度は似て
はいるが少し違う。どちらが深刻かよく分からないが、何時に電話が来ても15分以内には病室に駆けつけら
れる。そこだけが違う。父の一番最後の一日がずっと続いているような気がする。


2012.03.05(火) 介護日記を閉じます

介護日記が何時の間にか看護日記に変わり、内容も母の個人的なことが多くなりました。私の介護日記は書き
続けますが、詳細につては公表しないことにしました。しかしながら、重要な出来事については今後このペー
ジに書かせて戴くことにしました。長年お読み戴きありがとうございました。


2012.03.05(月) 気疲れなどしていられない

3月2日、入院中の母が脳梗塞になった。どこかの太い血管が詰まった。右の半身不随が予想される。老人は
安心などさせてくれない。次から次へと問題を提示する。48時間で勝負が決まる。絶対安静。浮腫で脳幹が
押しつぶされればそれで終わりだ。兄妹総動員のエンヤコラである。病院に任せておけばいいのだがそうはい
かない。病院が泊まり込みをさせてくれれば、泊まり込みたいところだがそうもいかない。朝9時から夜9時
までの家族看護は必要だった。これは母のためだけでなく、家族の精神衛生のためだ。動けない病人を見てい
るというのはものすごく疲れる仕事だ。48時間を経過して、浮腫は手足には出ているが脳にはないらしい。
これは点滴のせいだ。おまけにまた熱が出始めた。正体不明の熱はまだ退治されていない。モニターを見てい
るだけで心臓が痛くなる。そんな看護だ。


2012.03.01(木) 気疲れ

症状がある程度安定してくると、悪いときは悪いなりに平衡状態が生まれる。今は飲食はできないが、点滴で
ある程度の安定はある、平衡状態だ。これは丁度看護と介護の境目である。今は、「すぐにでも死んでしま
う」という危惧は持っていない。何か事故があればひとたまりもないが、なければしばらくはこのままだろ
う。何故この「境目」を気にするかというと、この境目が退院の時期だからだ。点滴のみならできる特養も老
健もある。特養なら動かないが、老健は一種のリハビリ施設である。三ヶ月毎に追い出される。この平衡状態
は終末治療に区分された方が分かりやすい。でも、今はそうなっていない。
朝5時電話の音で目が覚める。二度三度、起き出して携帯を見るが着信はない。きっと空耳だ。「何時か電話
が来る」という強迫観念が覚醒前に聞かせるのだろう。さあ、今日も長い一日になりそうだ。
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私はしつこく毎日何故母の様子をこう書いているのだろう、といつも自分でも不思議な気になる。「愛」とか
「親孝行」とか、そんな面はゆいものではない。一日一日の小さな変化がやがて悲劇で終わることは目に見え
ているのにどうしてだろう。私は子供に対する親の気持ちは分からないが、きっと同じようなものだろう。本
能的にじっとしていられないのだ。今日がいいといって安心は少しもできない。一日一日が綱渡りだ。落ちる
なよお母さん。


2012.02.23(木) 忘れないように経過を書いておこう

人、それも世の中で自分以外に何番目かの優先順位を持つ自分の母、この人が死にかけている。こんなことは
考えてもいなかった。何時かはくるものとは知っていたが、こんなに性急にくるものとは想像の範囲を超え
る。父の時は、当時70才の父はきっと病気を克服してこの日常に戻ってくると皆思っていた。それから30
年、母の年齢は98才、後三ヶ月で99才になる。白寿の祝いである。数えでいえば100才になる。そんな
年齢を母が所有しているということを、一緒に暮らしているとつい忘れる。怪我は多いが滅多に病気で寝込ん
だことはなかった。その人が12月末に熱を出し、それも40度の熱だ。呼吸も浅く、(これはもうだめだ)
と思った。熱と呼吸の具合から肺炎だとばかり思っていた。正月三が日も調子が悪い。また熱を出した。解熱
剤がなくなると熱が出る。三回目は明日から入院してみましょうという時だった。そんな時を見計らったよう
に、三度目の三十九度の熱だ。呼吸は浅くヒューヒューと聞くだけで苦しそうだ。(明日まで待てない)とそ
の晩119を回した。この時には訪問看護の看護師さんには世話になった。病院に電話をし、急遽ベットを確
保してもらった。救急車のスピードは考えるほど速くない。10分以上かかっただろうか。病院に到着すると
見覚えのない入り口から運び込まれた。2時間近く経過して、ERの当直女医から説明があった。レントゲンと
CTを撮った。画像を前に医師は驚くようなことを言った。「胃、膵臓、胆石、大腸、腎臓それぞれに怪しい陰
がある。多臓器に癌が転移して、腹水の原因はこれだろう。よくここまで家庭で看病された」。母の下腹が大
きいのは昔から不思議だったが、毎月くる訪問診療の先生も首をかしげていた。レントゲンでは「ガスの塊」
と判断されていた。大部屋の窓際のベットに寝かしつけ、導尿カテーテルと点滴をされて、相変わらず浅い苦
しそうな呼吸をしている母は、もう今晩にも亡くなってしまうのではないか思った。
 翌日か翌々日か母の主治医は、訪問診療をしていた医師だった。「癌がどうかはわからないが、胃には内視
鏡を入れてみましょう。とにかく貧血と炎症を表す数値が高すぎる。この原因を突き止めないと進めない」と
言う。この直後血液の成分輸血が行われた。赤血球の数自体がだいぶ少ない状態だった。胃には癌はなかっ
た。炎症の一つの原因は尿路感染だった。これは抗生剤で治った。しかし熱は出る。この期間に入れ歯を入れ
ないで絶食が続いた。後から食欲がない原因はここにあるのだろう。肺炎はなかった。その代わり胸水が肺を
縮め呼吸を妨げていたことがわかった。胸水をどう減らすか、針を刺して抜く方法と利尿剤を使って抜く方法
のうち後者を選択した。食事が少しずつ減っていく中で、点滴は胸水を増やしたようだ。点滴が抜け、利尿剤
を使い、胸水は徐々に減ったらしい。母の呼吸が一気に楽になった。その代わり食事をしない。今度は脱水症
になっていくようだ。脱水症だと血栓が気になる。綱渡りのような治療が続いた。最後に残ったのは、寝てば
かりいる乾涸らびた母。どこがどうボタンを掛け違えたのか。熱の原因は何だったのか。貧血の原因は何だっ
たのか。最初の胸水は心臓だと思える。足も入院当初は大きくむくんでいた。今はカラカラである。大きく膨
らんでいた腹もぺちゃんこになった。何がどうなっているのか。今度は施設入りの話が出てきた。医者の退院
も…、という言葉から始まった。


2012.02.21(火)

介護が看護になり、また介護に戻りつつある。全部を病院に頼んで、私達は夕食を食べさせるのに汲々として
いる。もう病院も当初の役目は果たしてくれたと考えるべきだろう。何時までも病院に甘えているわけにはい
かない。何時死ぬのかと心配していた母が、今度は受け入れ先の心配になる。拒食症?では普通の施設ではす
ぐに死んでしまうだろう。そうかと言って自宅介護はもう張り詰めた気が折れている。前のようにはできない
だろう。限界は意識しない間に徐々にやってくる。それにしても母は強い。私ならとっくに死んでいるだろ
う。夜ベットで一人考えるだけでも恐ろしい。彼女の顔を見ているとそんなところはもう超越しているよう
だ。何を騒いでいるんだ、もうゆっくり休ませておくれ。と言っているように見える。姉はとっくにだが、私
も朝早く起きられなくなってきた。今日は気がついたら7時少し前だった。会社には間に合うが、余裕がな
い。僅か数時間の毎日の見舞い通院が徐々に体を蝕んでいる。毎日、しかも自分が行かなければ誰も行かない
かもしれない、というプレッシャーは大きい。


2012.02.14(火)

もう今日は仕事が手につかない。昨日の「退院」という言葉が頭の中をぐるぐる回っている。もちろん退院は嬉しいこと
なのだが、素直に喜べない。二階の部屋に今までとおり寝ていられるのか、それよりも流動食しか食べられない状態
で、何を食べさせたらいいのか。毎日アイスクリームとプリンというわけにはいくまい。これが果たして治療の終了なの
だろうか。まだ、何かしてもらわないと社会に適応はできない。出来ないことがわかっているだけに、余計にいらいらす
る。退院はさせたい、自分たちで看たい。しかし、現実的な問題になると、毎日毎日この状態の母を看ていられるか自
信がない。医者を捕まえたら率直に言うつもりだ。医者なら元の状態に近い状態まで治せと。これでは親と子供が共倒
れになることが目に見えている。あれだけタフな姉が十日も風邪が治らない。私も低くなっていた血圧が高い。眠れな
いからだ。一日に2時間か3時間、母に食事を摂らせることだけに専念することは可能だ。ただそれがどんなにくたび
れる仕事か、端で見ている人にはわからない。親孝行、とんでもない。どちらかと言えば60年一緒に暮らして生きた同
士のような気持ちだ。あるいは戦友とでも表現しようか。そんな人の苦境を見ていられないで自分で体調を崩していて
は様がない。胃瘻はこの病院では行わないらしい。先に書いたとおり、「そこまでして…」というのが家族の大半の意見
だ。そこまでしないでどうするのか、それは話し合っていない。ただ衰弱していく母をそばで見ているだけ、これを想像す
るだけで、姉は体を壊した。水も食物も満足に摂取できない。この状態は病気なのか、介護の対象なのか、それともも
う終わりなのか。私は終わりだとは到底思えない。意識があり、しゃべり、動き、まだ母は生きている。この人を見殺し
には出来ない。最後は自分の命と「取り替えっこ」になるかなと思っている。介護は孤独な作業だ。対象者以外誰もわ
かってくれない。「大変だねえ」と言いながら、本当の大変さを知っているのは体験者だけだ。


2012.02.12(日) ふとしたこと

日付が変わって10日になった。母は入院してからひと月を迎える。深夜家の中を歩いていると、母の残した
いろいろな物が目に着く。大きなテレビの横には杖がある。背の低くなった母はこの杖を短くしてくれと言っ
ていた。鉄製のパイプだからそう簡単に縮められない。木の杖を探して切ってやればよかった。ファンヒータ
ーも危なくていじらせなかった。寒い夜に居間に降りてパンをかじるときどんなに寒かっただろう。トイレを
汚すこともひどく叱った。そんな思い出が一杯に詰まっている家だ。親と暮らす者は思い出も持っている。ど
ちらかと言えば傷つけた思い出ばかり残る。病院で動けない母に謝らなければならないことが詰まっている。
何かを見るたびに思い出す。まだ母は亡くなったわけではない。しかし、この椅子に腰掛けて、文句を言いな
がらテレビを見ることはもうないだろう。そう思うと失った時間の尊さが身に染みる。一緒にいるときはうる
さい婆だと思っていても、いざ病気になり死ぬの生きるのとなると、心配で毎日顔が見たい。親を看ている者
は損だとつくづく思う。


2012.02.08(水) 長い夢

12月、1月、2月と仕事上のお知り合いが近所で相次いで亡くなった。何か不思議な気がする。もしかした
ら私は母が亡くなった後の長い夢を見ているのではないか、そんな風に思える。


2012.02.06(月)

母のページを読んで戴いている先輩から幾つかのアドバイスを戴く。経験に裏打ちされた言葉は重い。感謝。
遅かれ早かれこの調子では退院を迫られるだろう。原因がつかめないままの退院になるはずだ。そのためのア
リバイ作りのような検査が多い。結果が出ていれば医師からムンテラを行うと言ってくるはずだ。今日は先週
まで元気だったAさんの訃報が届く。77才。この人は偶然母の里のすぐ近くの生まれだ。月初めにYさんの
葬儀委員長として、訥々とした名演説をしている。改めてこの人より20年以上も長く生きている母はすごい
なと思う。


2012.02.04(土)

介護は癖であり習慣である。その群れ独特の方式を持っている。とここまで書いて、私は一体何を書こうとし
ているのか立ち止まる。母が介護からいきなり看護に移り、そのために「介護」という物の姿がはっきり見え
ようとしている。母親が熱を出した子供を看ているような状態を別にすれば、看護は病院という密室で行われ
るマニュアルによる作業である。それに対し介護は、原則家庭で行う相互扶助の変形である。完全看護の病院
で母に夕食を養っていると、看護師さんから「ありがとうございます」と言われる。長年の介護になれた私達
は、知らずに看護の領域、看護師の仕事に踏む込んでいる。本来の治療からいえば、家族の院内での患者の世
話は、してはいけないことなのかもしれない。別に看護師さんから何か言われたわけではないが、ふとそんな
ことを思った。これはもう少し考えてから書くことにする。


2012.02.03(金)

いくら起こして食べさせようとしても目を開けない母をなだめすかして、食べさせようとしてついに諦めた。
看護師さんと立ち話。「おかげで胸水が少なくなったようでよく寝ていますよ」というと、「そうですねえこ
れで元気になっておうちに帰られるといいですね」との答え、そこで、「はい、お世話になります」と言って
おけば世の中丸く収まるが、「このまま帰ってこられてもねえ…」と言葉を濁すと看護師さんは複雑な顔をし
ていた。子供をいじめちゃいけない。看護師さんだって99%知ってるくせにお世辞を言う、そうするとへそ
曲がりの爺さんは反発する。100%本音でも息が詰まるが、世間話と専門話は一緒にしちゃいけない。母の
行動にも症状にも理由がある。この人は合理的な人だ。自分の親兄妹の問題以外は感情に流されない。いくら
こちらが心配しても、寝たいときには寝る。私は母が泣いたのを見た記憶がない。「みじょうげだのう」とい
うのは方言で「可哀想」にもっと感情の入った意味だ。これは何度も聞いたことがある。9人兄妹の8番目の
5女である。一番下の弟より兄の子供の方が年上だ。当然、年上から亡くなっていく。いいところに嫁いだ
り、子供が頑張って不自由がない場合はこの言葉は使わない。順番が狂ったり、子供が小さかったり、そんな
とき、ふと聞いた言葉だ。数年前からひ弱な5女がとうとう最長老になってしまった。一族に母より年上はい
ない。きっと誰も母のことを、「みじょうげだのう」とは言ってくれないだろう。雪のない東京に立派な(?)
一軒家を持ち、金の不自由もない。母は日頃から兄嫁の記録、100才を目標にしていた。ここまで来ると、
「生きてやる」という本人の気力勝負だと思う。いくら手がかかっても、死んでしまえばいいと思う人などい
ない。母の村はそんな村だ。


2012.01.28(土)

やっと休みが来たのに、5:30AM、には目が覚めてしまう。身体が母の介護の時間に合ってしまってい
る。反対にこの一日を有効に使わなくてはいけない、とも思う。母は腹を空かして目覚めたか、それともまだ
寝ているか、半月の病院生活で彼女にも大きな変化があった。「家に帰りたい」と言わなくなった。自分が病
院にいることをはっきり意識している。昨日は医師の説明(ムンテラ)を聞いた。「LDHの増加」これがす
べての鍵だ。身体の組織が壊れているときに出てくる酵素、だからどこかが侵されている。それがどこか分か
らない。医者も知らないところで試行錯誤していた。一つ一つの可能性を検査で潰していく。黒幕はまだ姿を
現さない。意外なところに癌ができ、栄養状態が悪くて早い成長の癌が自分で壊死することもある。100%
悪いことばかりでもないが…。父の死に様を見て、今度は母の戦いだ。子供は多い方がいい。さもなければ私
のようにいない方がいい。病気ばかりは応援はできるが、それ以上のことはできない。心配ばかりが跳ね返っ
てくる。「もう100才なんだから、何時死んでもしょうがない」とは外向けにはよく言う言葉だが、幾つに
なっても親は親、そんなに簡単に割り切れない。単純なことだが、「生きられるところまでは生きて欲しい」
それが偽らざる心境だ。母は病床で、「お金がかかるだろうねえ」と心配する。金など心配するな、と言って
も金に苦労した人には通じない。もう自宅で限界だと思って入院させたのだが、これが本当は闘病の始まりだ
った。さあ、今日はどうだ。
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久しぶりに自分の時間が持てる。しかし、考えることは病人のことになる。パソコンをいじる楽しみもどこか
に行ってしまった。新車を見に行く気もしない。何度も何度も同じことを考える。元気なとき母は、「病院で
隅から隅まで検査してもらいたい」と言っていたことがある。何か変調を感じていたのだろうか、今になって
はもうどうでもいいことだが気になる。この人は想像力や観察力が豊で鋭いから、こんな日を見通していたの
かもしれない。○○さんが来た。というのはよく言っていた。みんな亡くなった人だ。「様子を見に来たんだ
ろ」と受け流していたが、自分なりに死を受け止めていたのかもしれない。7、8年の介護の時間の記憶は案
外希薄だ。このひと月の看護の時間だけが嫌に明瞭だ。ただの面倒がかかるうるさい婆さんが、一度病気にな
って死ぬかもしれないと思うと急にこちらも一生懸命になる。そんなものなのかもしれない。


2012.01.19(木) はずみ

物事は悪い方に進むと、どんなに努力しても挽回できない。しかし、ちょっとしたことがきっかけでいい方向
に転じると、意図しないところまで効果が出てくる。母が入院して8日目になる。入院前は大小便の匂いをま
き散らし、私達は後始末はするが非難するばかりだった。あの時点で、おかしいと感じ、ケアマネに相談して
いたら、おしめ介護が入り、母は清潔になり違った展開があったと思える。母としては精一杯だったはずだ、
方法も道具も技術も手を伸ばせばそこにあるのに、目の前の現象だけにとらわれて、効果的な対策がとれなか
った。ヘルパーが家に入ったのが一つのきっかけ、入院したのが二つ目のきっかけである。母は今清潔で、熱
も抑えられ、自分の家で自由に動き回る自由と引き替えに、一定の平安を得ている。病状については、私達が
想像して心配するより、医者という専門家がともかく側にいる。これは毎日の寒い中の見舞い通院と引き替え
に、私達が得た平安である。部屋で一人になったときふと考える。(どうなるのかな)、病院にいようが家に
いようが、心配は程度こそ違え結局は同じである。30年前の父の時は、「なんとしても治って欲しい」とい
う気持ちだけだったが、母の場合は、「苦しまずにいて欲しい」とニュアンスが違う。私達も亡くなった父の
年に近づいて考え方が変わってきた。年の割には物事がよく見えていない。(もしかしたら母は復活するので
はないか)という一縷の望みをまだ捨てきれない。


2012.01.06(金)

走り書きのメモを表にまとめた。今のところはまず熱の問題だ。何時に何度あったかと備考欄で事足りる。人
間は忘れやすい。これを作っていて、病気になる前の母への無関心さが痛切に感じられる。「小便臭い」とか
「ウンコ臭いよよくふいてきたのかい」とか、心ない言葉を浴びせていたものだ。それは忘れよう。母は始め
から腰の骨を折り、看護と介護の中間を歩いてきた。本格的に寝たのは、骨折後一月とこの10日間ほどだけ
だ。看護はどこにでもある光景だが、介護はきわめて個人的な事柄だ。看護は闘う相手が病気だからはっきり
している。回復の可能性も高い。介護、特に寝たきりの家庭介護は先が見えない。今は、以前のことは忘れる
ことにした。薄い認知症時代の対応と、寝たきりで何時呼吸が止まるか分からない状態は全く違う。母はここ
で私と姉に反省する機会を作ってくれた。何度も書くが、一歩離れると介護の苦労は見えなくなる。兄妹のこ
とを悪く言うつもりはないが、一緒に暮らしている者でないとこの気持ちは分からない。介護は面倒で辛い。
行動も制約される。どこにもぶつけることのできない不満が強くなっていく。被介護者にあたる訳にもいかな
い。頼りになるのは金と専門家である他人だ。医療との違いは、医療は極端に誤診を恐れる。だから、明るい
希望は一切言わない。それなら状態だけ伝えて意見を言うな、と思うのだが、悲観的な意見を告げる。「お前
は一体何人の98才を看取ったのか」と聞いてみたい。誰もが初体験なのだ。今は原因不明の熱が出ている。
これは医療の分野だ。対処療法なら薬ぐらいさっさと出せ、と言いたい。後の寿命を縮めても、今熱が下がれ
ば、患者は気持ちが良くなる。病院に入れて楽になりたいと思う心と、家で死なせてやりたいという気持ちが
整理できない。病院に入れても、点滴と酸素ぐらいしか手がないはずだ。それなら自分の部屋で自分のベット
で逝かせてやりたい。私がこんな気持ちでいるのに、母は夕食を沢山食べ、気持ちよさそうに寝ている。


2012.01.04(水)

母の様子は一進一退だが欲目で見ると回復していると信じたい。人一人が、自宅で死ぬことはとても大変なこ
とだ。戦前は当たり前だったが、今では珍しい部類に入る。介護保険制度と高齢者医療の制度は、いざ自分が
直面してみると、天下の悪法であることが体感できる。普通の人が「肺炎の疑いがある」となれば、即入院で
ある。介護保険と老人医療はそれを許さない。昔のように大家族で、何とか家庭内で看ることができた時代
は、家庭で死ぬのが一番分かりやすく、医師も気軽に往診してくれた。今は家庭で看ろと言いながら、ご近所
の医師が極端に減っている。病院は訪問診療は行うが、そうそう簡単に来てくれない。動けない病人でも救急
車で病院まで出向かなければならない。呆れてしまう。これが医療大国日本の現状だ。一番困ったときに助け
てくれない。介護保険制度は中間業者を増やして職を増やしたが、結局患者(被介護人)のことは考えていな
い。鉦や太鼓で制度を導入し、その後は業者の競争に任せるから、大手の寡占になる。寡占になればサービス
が低下する。職員の給料が抑えられる。少し経済原理を知っていれば、実行前に十分予想がつく事柄である。
それで消費税をアップする。冗談じゃない。私は自分の死を考える。できれば延命措置は希望しない。可能な
ら適当なところで自殺したい。こんなことを考えさせる国はやはり間違っている。


2012.01.01(日) 懺悔

母が死んでしまうかもしれないという現実に、私ははっとなる。ここ数年、ここ数ヶ月、母を叱ったり注意し
なかった日はあっただろうか。大便や小便でベットやトイレを汚したり、ご飯を食べながらぽろぽろこぼした
り、自分一人の思い出に浸っている時、私はどんな態度を取っただろう。母の気持ちなど少しも考えていなか
った。テレビを付けっぱなしにしたり、水道を閉め忘れたとき、どんなことを言っただろう。自分の口から出
た言葉はもはや訂正できない。母の嫌がることをどれだけしてきたか、私は居ても立ってもいられなくなる。
昏々と眠る母の顔を見ていると後悔で一杯になる。私はどこかで母に甘えていた。この人が死ぬ日が来るなん
て考えてもいなかった。少しおかしなことを言ったり、行動があっても、(年寄りのことだから)と何故見逃
せなかったのだろう。これでこの先もし施設に入れたら、また後悔の念がきっと来る。認知症でも身体の不調
でも施設は患者としては見ない。保険の点数が着物を着ているとしか考えない。そんなところに入れたくな
い。しかし、入れないと私達がつぶれる。入れたら確実に出てこられない。そんなことをぐるぐると考えてい
ると、自分の頭がおかしくなる。兄の家族が来ているときはまともな受け答えをする。彼らが帰った後で、い
きなり、「天井から女の人が降りてきた。見えるだろう」と真顔で言われると、私は否定するしか言葉がな
い。「そうだね、普通は見えないけどよく見えたね」こんなことは言えない。介護人がくたくたになって、も
う駄目だと言うまで与えられる試練なのだろうか。母が寝込んでまだ一週間、私達は大急ぎでヘルパーを頼
み、訪問看護の回数を増やした。しかし、所詮時間単位の介護である。死んでしまえば、私には罪悪感と請求
書だけが残る。どうすればいいんだ。自分の心を痛めない介護などありはしないのだろうか。


2011.10.26(月)

もう何年経過しただろうか。姉も私もくたくたである。体よりも精神に来る。母は少しずつ少しずつ違う世界
に入っている。それに付き合うだけで、ものすごい疲れだ。


2011.09.03(土)

今思えば、母が少しおかしいなと思う頃、夢の話をしきりにしていた。夢とは不思議な現象である。私も、
「プライベートルーム」で、見た夢の話を書いているが、夢を見るのは、多分レム睡眠の時一晩中見ているの
だろう。それが、起床や、起こされて途切れたときに鮮明に残る。一晩に何回夢を見ても、覚えているのは起
床直前の夢である。同じことを考え続けているとき、夢の中で解決策を思いつくこともある。昔、作詞をして
いた頃、いいフレーズが見つかると、メモしたり、テープレコーダーに残したりしたことがある。後で聞いて
みると特別なことはほとんどない。私の夢は二つに分かれる。昼間の視覚や聴覚の経験が基になっているも
の。もう一つは、全く心当たりがない創作のようなもの(これは舞台や映画を見ているように見える)であ
る。この後者はどうして産まれて来るのか不思議でしょうがない。時代も設定も私と関連が全くない、だから
内容も良く覚えていない。10年前、癌の手術でうとうとしていたとき、集中的にそんな夢を見た。胸の上に
置いた大ぶりの本の中で、テレビを見るようにそれは繰り広げられた。今も時々見る。自分が参加者だった
り、傍観者だったり、立場はいろいろである。


2011.08.28(日)

もう限界かな。と毎日思っている。橋幸夫は「母親は宇宙人」と名言を吐いたが、その通り、母の頭の構造は
解析がやや不可能になってきた。明治この方、家族の中でこれだけの人生を生きた人は初めてだ。長生きだと
思った祖母でさえ母より10年も早く亡くなっている。彼女はもはや未知の領域に入り込んでいるのだ。それ
を私ごときが理解しようとしても無理だ。医師にしろ看護師にしろ、100才相手の看護や医療は想定してい
ないはずだ。そう考えると私と姉は毎日、まれな体験をしていることになる。偉そうに介護を口にする人に言
ってやりたい。「できるもんならやってみな」。結局、面倒見がいいから長生きしている。普通の家庭ならと
っくに投げ出して、施設に入れて、あっという間に亡くなっているはずだ。それを、ちっとも特別だと感じて
いない母も母らしい。


2011.03.29(火)

夕方、姉の介護友達(近所に住む同級生)から電話が入った。母上が亡くなって通夜だという。姉はすぐ出か
けて行った。小さな商店を営む彼女は、母から店を受け継いだ。認知症が進行しても母親は店の隅で椅子に座
って外を見ていたという。にこにこと客とも話をし、後で(あれ誰だっけ)という口である。普通そうに見え
るが、大小を教えない。彼女は何度も夜中に起こされたという。姉と二人で、「お父さん早く連れってってく
れないかなあ、私が先になっちゃうよ」という話をしていたという。通夜は近所の葬儀店で行われた。喪主で
ある弟夫婦は神妙な顔をして、彼女と彼女の娘は泣きじゃくっていたという。(そうだろうな)と思う。いく
ら手がかかっても、腹が立っても、同居する者と少しでも離れて暮らす者では、全く違う。姉も○子ちゃんに
先超されちゃったよ、と言っているが、どうしてそうでもあるまい。これは同居者だけが言える言葉だ。


2011.02.23(水)

60を過ぎてから月に一度、学校を卒業して34才まで勤めた会社の仲間と仕事場のあった秋葉原で飲む。今
では月に一度の息抜きだし、酒を飲むのも大体このときだけだ。4人の会に13日(日)は一年後輩のHさん
が参加した。昔の話をしていると・・そう、もう30年も前の話なのだ。人が一人参加すると話が弾む。彼は
両親を見送り、子供も独立して奥さんと二人。奥さんは働いて、毎日自宅にいるという。5者5様の定年後の
過ごし方だ。日曜日の午後4時から飲みはじめて、はっと気がつくと午後9時前に自宅にいた。一軒目を勘定
したのは覚えているがその先は全く記憶がない。こんな酔い方は久しぶりだ。折角秋葉原に行って電気屋も見
ずに帰ってきたらしい。帰ってから介護の先輩の所へ電話をした。この内容もよく覚えていない。(またやっ
ちゃった〜)、酒は心を解き放つ。だから普段思っていることを相手のことも考えずにべらべらと話してしま
う。彼女に対してしゃべったことは大体想像が付く。フォローもできない。ただ、「ごめん」とメールを打つ
のが精々だ。彼女の、参加者4人だけの掲示板に何を書かれるか、ひやひやしていた。しかし、彼女は怒りも
せずに、「発散させないと駄目だよ」と勇気づけてくれた。会社でこの文字をしばらくぼーっと見ていた。
(そうだな、俺一人じゃなかったんだな)、と改めて気がついた。彼女は一人で私の何倍も苦労してきた。そ
の余裕に頭が下がる。反省しながら、またやるだろうな、と思っている。


2011.01.03(月)

新しい年になった。母は今年の誕生日で満98才になる。気の遠くなるような年数だ。認知症の理解が進み、
あれもこれももしかしたら病気の現れだったのか、と合点がいくところもある。よく、「認知症=アルツハイ
マー症」という解説を目にするが、私は少し違うと思う。認知症とは違う方法で少しずつ世の中と離れてい
く、そんな認知症もあると思う。さあ、今年は何をしでかしてくれるか。(施設に入れたい)という気持ちは
あるが、それが全ての解決ではないだろう。薬を与えられ、おしめをされたら、あっという間に母は惚けて、
死んでしまうだろう。第一東京は人口が多すぎて、簡単に入れる施設などない。老健施設というか、何日か預
かってくれる場所があれば一番いい。そんな施設すらない。こんな状態で乏しい母の年金から介護保険を天引
きするなと言いたい。市区町村に任せておく仕事ではない。


2010.11.21(日)

今年から毎日遅刻ぎりぎりの出勤をしているので、休みの日だけはゆっくり寝ていようと思うのだがそれがで
きない。毎日朝が忙しいのは、食事、入浴、手足の手入れ、この「手足の手入れ」が増えたためです。腫れて
いる所にはステロイドを塗って、皮の剥けているところには乾皮症の薬と塗り分けるというか、重ね塗りをし
ます。この10分ほどが朝の時間に食い込んできて忙しくなったのです。週末になると母は、「明日は休みか
ね」と確認します(すぐ忘れますが)。「ああ休みならゆっくりできるね」といいながら、6時半には手ぐす
ね引いて待っています。腹が空いて寝ていられないのでしょう。そんな訳で、時間があるようでない。時間の
使い方がもの凄く下手になりました。まあ、他人のペースで動くからでしょうが。でも懐かしいな。ゆっくり
寝ていると、「○○ー、ごはんたべないのかい」と大声を上げられていたのがつい最近のことのように思え
る。でも、もう7、8年以上も前のことなんですね。


2010.06.06(日)

私が捨てようとしていた下着を、母は元気な頃いつの間にか自分の部屋に持って行ってしまう。下着は毎日洗
うからだんだん薄くなり、あるところで入れ替えをする。それをゴミ袋に貯めておいて捨てるのだ。何年も経
過して母は自分お部屋でそれを見つけ、「お前、私の部屋に入れておいたのか、これはまだ着られるだろう」
と持ってくる。確かに子供の頃の貧乏な時代なら充分着られる。それでなくてもけちな私が捨てる決心をした
のだから、もう着られない。日曜日の夕食後のひととき、ゆっくりテレビを見ている時間中、くどくどと同じ
ことを言い続ける。大きな声を出したり、まして手を出したりはしないが、我慢の限界がある。私は机を叩い
て立ち去る。母は何故そうなるのか理解できない。97才と62才、もうこんな生活は嫌だ。一事が万事であ
る。私と姉は食事に不自由だけはさせたくないので、母の食卓には一番良いものを少しずつ並べる。食事をし
ながら、私たちの食卓をちらちら見る。その視線が疑いが勘に障ってくる。もう限界が近い。


2010.03.25

長い介護が終わった人に絶対に言えない言葉がある。どんなに事情がわかっていても、どんなに親しくても、
どんなに言いたくても言ってはいけない言葉がある。これを言ったら、自分の人間性が崩れてしまうぎりぎり
の言葉だ。人と人の関係、特にそれが他人の肉親であった場合は、けして口にしてはいけない。別に、もった
いぶっているのではない。介護をする者はみんな分かっている。そんな状況に、ここ数年何度も出会ってい
る。肉親や夫婦だったら、冗談にいつも言っている言葉。しかし、これを他人に対して口にしては絶対にいけ
ない。こんな種類の言葉が幾つかある。


2010.01.09(土)

土曜の朝、いつもより早く起きて、掲示板のチェックをした。思いもかけない訃報。名前とHNと一度お会いし
たきりだけれど、いつも励まし合ってきた介護仲間。彼女のお母さんが亡くなったという知らせだ。こんな時
は困る。何をどうすればいいのか、結局何も出来ない。彼女に来たことは遅かれ早かれ私にも来る。そんな時
何をして貰いたいか、私は考えた。普通の「親の死」と異なり、介護の末の死には(彼女の気持ちが少しは解
るために)、どんな声をかけてあげたらいいか迷う。お母さんも好きこのんで介護されたのではない。結局こ
の悲しみは、いい思い出・嫌な思い出とともに本人自身が自分で納得しなければならない。悲しさと、自己嫌
悪、何か違う方法があったのではないかという後悔。それは他人が背負ってあげられない。今はただ、彼女の
お母様のご冥福を祈るしかない。



2009.09.25(金)

母との会話がだんだん成り立ちにくくなっている。じっくりとした会話などもうできない。自分の位置(時
間)と立場が分からないのだ。延々と子供の時代の話や、私たちの知らない親戚の人の消息など聞かれても返
事のしようがない。第三者と見ると私たちに対する愚痴と、かかった病院の悪口を言い続ける。私たちに聞こ
えているかどうかなど眼中にない。思いこんだら命がけ、だ。案外理路整然と話すから、初めて聞く人は、
(それは何時のこと?)という疑問を挟み忘れる。実は5年前だったり3年前のことだったりする。本人も私
たちも一番辛かった「ペイン治療」の半年が、「痛い注射をされた」という形でしか記憶されていない。ペイ
ンの効果がなかったら母はもうこの世にいないかもしれない。そんな危ない橋を渡ってきたことをほとんど忘
れている。それでもまだ私たちの面倒を見ていると思っている。朝7時を過ぎて私が起きないと、狭い廊下を
通って私を迎えに来る。「今日は休みだよ」というと「そうかい」と言って帰っていく。


2009.07.26(日)

長い間、アドバイスを戴き、お互いに元気を交換してきた「介護仲間」がいる。その母上が病院に入院され
た。意識がない状態だという。母上も心配だが、その方も心配である。こんな時Web上の友人は困ってしま
う。顔が見えないだけ、心をさらけ出してお付き合いしてきた。この蓄積も現実の前にはあまり力がない。た
だ心配するだけである。かといって人の生死に関わることには迂闊なことは言えない。あくまで第三者でいる
しかない。
母もあらゆることに心配をする。「そんなこと心配しても何も出来ないだろう」と私はよく言う。○は何時に
寝て睡眠時間が少なくて体をこわさないか、○はまだ帰ってこないが、大丈夫か、○は仕事にちゃんと行って
いるのか、と身内の心配。テレビを見ながら豪雨や地滑りの報道を見る度に心配する。政治のことまで心配す
る。母の心の中では、遠いものも近いものも皆一緒だ。平気な顔をしていろとは言わないが、余計な心配は自
分の中だけにして欲しい。一番心配されているのは自分だという自覚がない。頭に浮かんだことがすぐ言葉に
なり、口げんかの基になる。「母さんはもう何も心配しなくていいんだよ」と何度言っただろう。しかし、母
は世の中、全てのことに心配することを生き甲斐にしている。


2009.06.07(日)

母は今日は一日温和しかった。部屋で縫い物をしている。祖母は和裁の先生だった。何人もお弟子さんがいた
らしい。死ぬ前に孫達の着物を一通り揃えていった。端切れは「おしめ」として丹念に縫ってしまってあっ
た。祖母は88才のお祝いをした次の年の春、一週間入院しただけであっけなく亡くなった。母は浴衣や簡単
な着物は縫うが、洋裁の方が得意であった。貧乏のどん底時代、無理をして月賦で足踏みミシンを買った。家
族中の洋服は母が縫っていた。このミシンは私の部屋の隅にまだある。捨てられない。当時から私の役目は革
のベルトを買ってきたり、調節することだった。丸い革紐は針金で止めてあり、一定期間使うと延びる。それ
を切り縮めてフィットさせるのだ。この頃の母は40代、夜遅くまで裸電球の下で縫い物をしていた姿を思い
出す。何しろ現金がないから、私は小学校の高学年から体育で使うトレパンが買えなかった。買ってくれとも
言えなかった。母はどこからかテント生地(今で言えば白いジーパンの生地)を捜してきて、ズボンを縫って
くれた。そんなトレパンをはいている子供はいない。何年間もはいた記憶がある。その後私はいつでも学生服
の時代が続く。兄は背広を年に何着か作って貰っていた。「主婦と生活」という本が大好きで隅から隅まで読
んでいた。兄がこれを作ってくれ、とチェンジポケットの付いた背広の写真を見せると、「これでいいのかね
え」といいながら紺の背広を器用に作った。イメージと型紙があれば、背広でもコートでも作った。私は学生
時代から就職して数年、母の作ったコートを着ていた。ダッフルコートの目立たない形である(母は海軍コー
トと呼んでいた)。左の襟を広げて右の襟の下の大きなスナップに止めると、風の入らない暖かい服だった。
姉と兄が働き出して、生地だけは良いもの選んだ。裏地にも凝る。私は長野のバーでコートを預ける時、「東
京の人は、さすがに良いものを着てらっしゃいますね」と言われたことがある。シンプルでしっかりして、明
らかに手縫いである。兄は何着も背広を作って貰ったが、私の時はもう老眼が始まり、大学生の時コールテン
(コーデュロイ)の上着を作って貰ったのが最後である。背広はいろいろと面倒らしい。その後私は車で移動
する生活になり、真冬でもコートは着なくなった。若い時は真冬でも背広で寒さは感じなかった。こんな事を
何かのきっかけでふっと思い出すと、4人の子供を育て上げた母の事を違う目で見る。母の実家は旧家であ
る。しかし子供が多すぎた。早くから奉公に出て、これまた旧家のこの家に嫁に来た。父も養子である。旧家
というのは、しきたり(冠婚葬祭の序列など)や田舎では顔が利くが、肝心のお金がない。そんな中で何とか
してくれた。これが「恩」というものだろうか。


2009.05.25(月)

母の心はいつまで経っても安寧を得られない。心配事が多すぎる。「部屋を片づけねば」、「大事な書類をど
こかに置いてしまった」、「役所に提出するものが有ったはずだ」、「○○が見つからない」。母を見ている
といつも何かの不安が正気を失わせている。私の性格とそっくりだ。全てを任せて、(あたしゃ知らないよ、
後は上手くやっておくれ)と、どうしても言えないのだろう。被害妄想というか、焦燥というか、何かに自信
がないのだろうか。特に『大切な書類やものをなくした』という心配(強迫観念)が多い。血液型が性格に影
響するとは信じられないが、母はAB型である。父はA型。父が亡くなった後、自分の物をきちんと整理して
あるのに驚いたとともに、それを見て改めて大切な人を失った寂しさを感じたものだ。ところで私も姉もB型
である。何事もとことんやるタイプではない。いい加減のところで手を抜きたくなる。社会的な訓練が辛うじ
てそれを抑えている。母は違う、何時までも覚えている。惚け方もいろいろあるんだ。と、自分のことを考え
てしまう。いろいろ心配して子供に怒られている母が可哀相になる。そんなに心配しなくてもいいのに。そう
言うと今度は怒る。攻撃的になる。こんな年寄りは初めてだ。祖母とも父とも違う。


2009.04.22(水)

介護介護と私は二言目には介護を持ち出す。しかし、現実は介護の90パーセントは姉が行っている。私は仕
事に逃げている。今日、元テレビタレントの清水由○子さんが、父親の墓の前で車椅子の母を残したまま自殺
したというニュースが走った。介護者には悩ましい日だっただろう。一人で一人を、あるいは一人で二人を看
ることは大変な仕事だ。10パーセントの介護でもこれだけ煩わしいのだから。「二人いたから良かったね」
と、これは今日の姉との会話である。母はせん妄状態や前認知症様の傾向はあるが、排泄も食事も風呂も自分
で出来る。私たちの仕事は、準備とその後始末が主だ。初期のように車で病院への送り迎えもほとんどない。
私は仕事が忙しくなって、あまり母の動静に注意を払わなくなった。それだけ日常化したとも言える。


2009.04.04(土)

介護が日常になってもう何年経つだろう。私が術後7年だから丸5年かな。母は来月96才になる。今家族の
中で一番沢山食べる。食欲中枢と睡眠中枢が壊れているのかもしれない。それでいて特に太りもしない。正常
な会話は長く続かない。いつの間にか自己中心の話になる。昔を懐かしがっている間は良かったが、最近は、
昨夜は寝られなかった、ウンコがどうしたと、この話が大きな二つの話題である。彼女にとっては、最大の関
心事なのだろう。テレビはよく見ているので、政治向きの話題は好きだが、最近はあまり興味を示さなくなっ
た。だんだん期待されなくなって、邪魔にされて、最後はいなくなっていく。その方が介護してきた方にダメ
ージは少ない。天はそんなふうに「心の仕組み」を作っているのかもしれない。私もそうなるのか。看る人が
いなくて自分で何とかするのか。自分の最後は考えたくない。


2009.03.23(月)

「介護」と「癌」は似ている。当事者とすぐ隣にいる人以外、気持ちは分け合えない。うちの介護の主役は姉
だ。私はすぐ隣にいるが、姉の心境が今ひとつ理解できていない。二人で看ているといっても、主役は姉だ。
その姉が参っている。「外部のプロの力を借りたら」とアドバイスをくださる方もいるが、介護者も被介護者
も初体験である、なかなか歯車がかみ合わない。認知症は人間の「情緒」の部分を打ち砕く。しかし、その程
度はなかなか分かり難い。気が付くのは側にいる者だけである。病名のつけにくい病気のようだ。少し離れて
いると肉親でも分からない。そんなわけでもうくたくたである。


2009.02.20(金)生きる寂しさ

母の要介護3を受けて、ケアマネさんも看護師さんも、家庭介護の先行きを心配し始めた。母は多少認知症が
見えるとはいえ、まだまだ元気でいけそうな気もするが、専門家から言わせると、少しずつヘルパーを入れた
り、施設の準備もしておいていた方がいいらしい。人間は保守的だから、現在の状態内で何とかならないかと
考えて、行動を起こさないうちに、次の段階はすぐくる。やっぱりそうなのかなあと思う。
母が一度二度ショートに行って、二度と行かないと言っているのは、よく聞くと、話し相手がいないのが寂し
いらしい。そうそう95才の話が合う人はいない。親戚もどんどん代が代わっていく。長生きがいいことなの
かどうか、こんな時には考えてしまう。


2009.01.03(土)何時鬱病になっても。

私は何時鬱病になってもおかしくない状況だと思っている。先の見えない仕事、変則的な人間関係、先の見え
ない介護、自由にならない肉体の一部。一つは生まれつきの性格のためだろう。私は案外孤独に強い。他人に
頼ろうなんて気持ちは最初からない。頼れたら楽だろうな、と思わないでもないが、自分のことは全部自分で
始末をつけたい。
私が鬱病にならないのは、53才の時の腎細胞癌のおかげだと思う。あの時50数年の人生の中で初めて「生
きたい」と心底思った。「生きられそうだ」と思ったときの安堵感。これは一生忘れないだろう。その強烈な
生存本能が細胞に焼き付いてしまっている。幸いにしてどんな厳しい状況でも、あれと比べれば大したことは
ないと思えるようになった。仕事も介護も命までよこせとは言わない。
この正月は、姉と交互にずっと台所に立っていた。普段と同じ生活だ。世の中の主婦なら当たり前の仕事だ。
料理するのは苦にならないが、この義務感が堪らない。この家の生活費を私がすべて稼いでいるわけではない
から、「俺は外で働いているんだから」といういいわけが利かない。年寄りの共同生活だ。先細りの人生とい
うのは、何ともやりきれない。
今、何とか自分が認知症の仲間入りをする前にしておきたいことがある。その計画が私を救っている。


2008.12.23(火)天皇誕生日

天皇誕生日の今日、K区で44才の無職の息子が、看病していた75才の父親を殺した、という報道があっ
た。何故44才で無職なのか、75才で瀕死の状態で自宅介護なのか、ニュースはそこまで言わない。母親は
その時何をしていたのか。疑問が幾つも残る。しかし、案外簡単なことかもしれない。看護や介護の現場で、
虐待や殺人が増えている。統計的なことは知らないが、目につくニュースが多い。

自分の介護以前は、「とんでもないことだ」と思っていたが、今は加害者に同情してしまう。親が元気で丈夫
で、ある日ころっと亡くなったり、病院や施設で手を尽くしての最後だったら、こんなことは起きない。社会
の制度がぐるっと逆回りして、50年以上前の状態になっている。地盤が急激に回転している状態に、私たち
の生活や意識がついて行かない。私たちが子供だった頃、自宅で出産したり、亡くなったりすることは、珍し
いことではなかった。家の奥に寝たきりの人や知恵遅れの子供がいる光景は、特殊なことではなかった。今の
貧乏生活は、賃貸マンションやアパートに住みながら、一応普通の服装をして、コンビニで物を買う金がない
のが代表的な貧乏だ。生活が無駄に「嵩上げ」されている。家賃が払えなくなると、いきなりホームレスにな
ってしまう。昭和20年代の貧乏は、今の段ボールハウスとたいした差がない。隙間風が吹き込み、雨漏りが
するのは普通の状態だった。母が質屋に通ったり、隣の借地人に500円を借りたり、そんなことは当たり前
だった。暖房は泥あんかと火鉢だった。今と違って長期入院の制限ではなく、金がないから病院に入れられな
かっただけだ。
母の頭にうっすらと霞がかかって、私もいい介護人でばかりはいられない。叩いたり蹴ったりはしないが、大
きな声を出すことは増えた。母は何故息子が怒鳴るのか分からない。・・・・こんなことは乗り越えてきたは
ずなのに、何かの瞬間に私も彼と同じことをしないとは断言できない。


2008.10.18(土)

記述が少ないのは、あまり手がかからずトピックスがないからだ。毎日の生活は続いている。ふと、「いつま
で続くのかな」と考えてしまう。60になる前はまだまだ時間があると思っていた。いざ60になると自分の
終わりがもう秒読みだ。先の生活の不安もある。これから母を看取って、姉も看取るのかと思うと気分が重く
なる。その前に私の癌が転移して、お先に失礼するかもしれない。母が亡くなったら私も姉も大きなショック
を感じるはずだ。それが分かっていても、自分の人生を邪魔されている感覚はまた別だ。私は母のために結婚
できなかった。そして大切な60代をまた縛り付けられる。もう逃げ出したい。普通の家庭では、早くに子供
が独立して、別々に暮らす。親は夫婦で暮らし、やがてどちらかが残る。しばらく一人暮らしをし、最終的に
は誰かが看取る。大家族で田舎風の暮らしをした者はそうはいかない。何時までも自分の生まれた家が「実
家」なのだ。何もしなくても「実家」は、いつでもあって、いつでも帰れる場所だ。私と姉はそこの番人にな
ってしまった。


2008.07.27(日)

私や私の身内の話ではない。お知り合いの父上の話である。この方は40才で一人の子供を得た。だから子供
の年齢からすると今は77、8才だろうか。5年ほど前に胃がんが発見され、胃、胆嚢、膵臓、そのあたりを
大きく切除された。それから5年、ガンはいろいろなところに転移して、最終的には脳転移が見つかった。肺
にも転移があるという。γナイフの治療を受けたが、決定的ではない。その方が日に何時間か意識が明瞭にな
る時があり、「家に帰りたい、おいていくな」と言われるそうである。体の状態が悪くて意識が正常に近い、
私が一番なりたくない状態だ。本物の死の恐怖の真ん中にいる。でも、看てくれる人が二人もいる。二人はも
うへとへとで、悲しむ気力も失せている。こんな人のためにホスピスがあるはずだが、ベット待ちで容易には
入れない。「希望」とは何だろうか。日常的な生活の中では滅多に表に出てこない。こんな時こそ希望が欲し
い。介護と看護の差があるとすれば、「時間」だろう。介護は先が読めない。時間制限がない。看護はある時
ぴたりと終わる。今日も朝から病院に詰めていると思う。天から与えられた時間を七転八倒しながら全うする
のが人生なのか。自分で決意してこめかみに銃を当てるか。すべての治療を拒んで静かに待つのか。私は自分
の最後を想像してみる。


2008.07.05(土)

「私は介護が嫌いだ」。こう言い切れるまで何年かかっただろう。流しで朝食の食器を洗っているとき、風
呂に入れる準備をしているとき、粗相の後始末をしているとき、「なんでこんな事をしているんだろう。そし
て、もうイヤだ」この二つの感情と戦っている。私はいい子供でも何でもない。普通のオジサンだ。日曜の朝
はゆっくり寝たい。趣味にも没頭したい。こんな時間を奪っていく、ひいては私の残り時間を奪っていく。介
護は嫌いだ。大嫌いだ。最近の報道では、被介護者を介護者が殺す事件が増えている(今までもあったことだ
がこんなに多くはなかったのか、報道されなかったのか)。犯人はほとんどが男性だ。「4○才、無職」、こ
の記述にみんなは気づいているだろうか。「いい年をして仕事もしないで・・・」そうではないはずだ。これ
は安楽死の問題と非常に近い関係にある。違うのは精神的な疲れと肉体的な疲れだ。「無職」は怠け者で職を
持たないのではない。職を持ったら、ある程度以上の介護はできない。特に単身者にとって、親(子)の介護
は職を賭する意味があると最初は思う。仕事を辞めなければ介護できないような状態は、政治が悪い。社会の
仕組みが悪い。仕事を辞めて介護に専念すれば、そこに希望はない。老々介護の問題も今後増えるだろう。い
ろいろな理由をつけてきた。自分の心にやましい点を残さないためだ、とか愛しているからだ、とか。しかし
それは言い訳だ。本当は誰も介護などしたくない。機会があれば誰かに交代してほしいと思っている。どこに
も逃げ道がなく、社会の援護もないとき、精神を病むか、一遍に解決しようと思う。私は介護は嫌いだ。叫び
出したい気持ちを、瀬戸際で抑えている。みんながそうなのか、それは分からない。ただ私の場合はそうだ。


2008.06.22(日)

前に一度書いた。その時とは状況が少し異なる。母はある程度自由に歩き回れるようになって、昔と同じこと
をするようになった。出勤の時、私が庭でオートバイに手をかけ、フェンスの鍵を開けていると、サンテラス
の揺り椅子に、白髪頭をベッカム風にして腰掛けている。鍵をかけてキックを踏むとき、「気をつけてね」と
手を振る。周囲より暗いテラスの下で手を振る。私は義務的に手を挙げる。これは本当にやめて欲しい。母が
亡くなってしまっても、この瞬間は家を出る時きっと思い出す。車を出すとき、バイクを出す時、出かけると
きに、薄暗いサンテラスにきっと母の姿を思い出す。嬉しいが迷惑だ。「同居している」と言うことはその人
の毎日の生活の癖も一緒に記憶する。祖母の時、父の時、も同様だった。気持ちは分かるがこちらのことも考
えて欲しい。


2008.06.05(木)

あるときふっと気がついた。このホームページを始めてから二度目だ。私はここ数年腹からおかしくて笑った
ことがない。ひっくひっくと止めても止まらない笑いを笑ったことがない。母にしてもそうだ。粗相をして怒
鳴られ、ご飯をこぼして怒られ、楽しいことなどないのではないだろうか。テレビや映画の笑いは、目の前の
人間の笑いとは違う、ベールのかかった笑いだ。子供や小動物はいつも笑顔の中心にいる。私の家にはそれが
ない。私が母の心からの笑いを覚えているのは、苦しいペイン治療の結果、杖を頼りに歩けるようになり、ト
イレのドアを開けて出てきたところを写真に撮った時だ。本当に嬉しそうな顔で笑っている。今は感動の幅が
みんな狭くなっている。風呂に入って「極楽極楽」と言っていても、本当に母が喜んでいるのかどうかは分か
らない。気性の違いだろうが、父は観察力が鋭く、瀕死の病室でも同室者や私達を笑わせていた。私達はどち
らかと言えば母に似てしまった。


2008.05.24(土)

このページで弱音は吐かないつもりだった。でも、もういいでしょう。うんざりです。私は親孝行でも、何で
もありません。一日も早くこんな状態から解放されて、残り少ない自分の時間を自分のために使いたい。「葬
式を笑顔で迎えたい」、これは別に非情なことじゃあありません。やるだけのことをやったらそんな心境にな
れるかもしれない。そう思います。


2008.02.24(日)

迂闊だった。認識が誤っていた。皆さんは、医師や看護師やマッサージ師等の専門家を含めて、「94歳にし
てはしっかりしてますね」、「元気ですね」と口々に言って下さった。それを真に受けて、(母は元気でしっ
かりしている・・・少し違うと思うけどな)と思っていた。今回ある番組で「認知症」とはどんな病気かとい
うのをじっくり見た。唖然とした。母はしっかりしているどころか、認知症そのものである。それもかなり進
んでいる。ある程度は予知していたが、専門家がいう言葉の定冠詞「この年齢にしては」を意識的にマスクし
て聞いていたのだ。60でも70でも80でも90でも、認知症は認知症である。私の印象としては「発症が
遅くて、比較的ゆっくり進行している」。というのが正解なのだろう。何時発症したかは分からないが、そん
なに最近でないことは確かである。80歳代に一人でバスに乗り医者に行っていた時、たまに「まちが綺麗に
なると、どこにいるか分からなくなって、人にいろいろ聞いた」と言っていたことが何度かある。それまでは
時々鍋を焦がすほかは現役だから、80歳代の後半が発症だったのだろうか。


2008.02.16(土)

最近、一度ならず母から聞く言葉がある。「どうしてこうなっちゃたんだろうね」ぼそっと言われると、ずし
んと響く。その後、「この足は何時になったら動くんだろうね」という言葉も悲しい。惚けたようなことを言
いながら心の内部には行く末に対する不安は確実にあるのだ。子供達も医者もはっきり言わない、何だろうこ
の状態は。という疑問があるに違いない。私たちにしてみれば、「母さんそれはもう治らないんだよ」とは、
とても言えない。医者にしても対処療法が精一杯で、根本的な治療やリハビリは到底できないことを知ってい
る。母の質問にはっきり答えられないのは道理だ。私も言えない、希望を奪うようなことは命を奪うのと同じ
だ。惚けというのは、神が人間に与えた最大の「処方」なのかもしれない。癌のような病気でも、精神力と治
ろうとする希望は確実に効果をもたらす。気力が萎えたら良い方には向かわない。自分のすぐ先にある「死」
に対する恐怖を和らげるために、人は惚けるのかもしれない。


2008.02.09(土)

余裕がなくなっている。姉も私も切れ方が早くなっている。母はそんな子供の心を知っているのか知らないの
か。風呂に入らず、おしめパンツをもったいながって取り替えないので、またがかぶれる。薬を付ける。私も
母親のそんな場所を何時も見たくはない。せっかく温水トイレがあるのだから、きれいに洗ってくれれば酷く
はならないのだが。ボケ方を観察する余裕などだんだんなくなってくる。


2008.01.08(火)

母のボケ方を見ていると、(この人本当にぼけてるのかな)と思うことがある。マッサージの人や看護婦さん
とのやりとりは、余計な言葉が多いだけでほぼ正常だ。普段は話が通じる。少し薬が入ると途端におかしくな
る。無理に起こした時もそうだ。夢と現実が一時混ざるようだ。そんなことは私にもある。正常と異常は簡単
に線を引けない。一つの傾向に気が付いた。何かポカをやらかした後は必ず変なことを言う。大お漏らしの時
も、転んだ時も、何か自由変幻に「自己封鎖」をしているようだ。自分を守るために悪い記憶は、残さない。
何か他の記憶と入れ替える。そんな気がする。「かあちゃん、頭大丈夫かよ」とそっと頭をなでると、「精神
病院にでもどこでも入れておくれ」と切り返す。いやはや食えないばあさんである。小さい変化には気を遣わ
ないようにしよう。そうしないとこちらが参ってしまう。


2008.01.03(木)

何とも言えず腹が立つ。どこにもぶつけられない怒りだ。母が悪い訳じゃない。私が悪い訳でもない。だから
余計腹が立つ。何でオレが夜の夜中に自分の睡眠を削って母の下の世話をしなければならないのだ。かみ合わ
ない会話をしなければならないのだ。何故、被介護者に対する虐待がニュースにならないのだろう。私でさえ
腹が立つのだから、実際の虐待は数知れずあるに違いない。怒鳴る、殴る、蹴る、放置する。子供に対する虐
待は大きなニュースになるのに、被介護者に対する虐待はニュースにならない。これも恐いことだ。私は動作
が少し乱暴になるところで我慢している。大きな声でないと、聞こえない。知らない人が見ると虐待に見える
かな、とひやっとする。


2007.12.21(金)

私は普通のおじさんだ。付け加えればお酒好きのスケベなどこにでもいるおじさんだ。ことさら「母親の介
護」などという題名が着くと、とっても人格者で優しくていい人と勘違いされる。特に否定はしないが、そん
な一面もあるが違う一面もある。第一は「介護なんて大嫌い」だということ。こんなことを全て「在宅」とい
う形で同居家族に押しつけている政治と兄妹を恨む。第二には介護が始まった時点でもう母の死を考えてい
る。感情と事実は違う。「一日でも長く楽に生きて貰いたい」、と思う気持ちと反対に、「早く死んでくれな
いと私の人生が台無しになってしまう」という気持ちがある。正反対の気持ちを持って接しなければならな
い。これは拷問だ。第三に財産の問題がある。母が亡くなった後の財産問題は頭が痛い。兄が生きていれば何
とかなるが、嫁や婿が入ってくると面倒なことになる。そんなことは仕事上幾つも見ている。戦前の長子相続
は面倒がなかった。長男の総取りである。反面長男にはそれだけの義務があった。
私はただのいい人ではない。これだけは知って欲しい。介護も好きでやっている訳ではない。


2007.12.09(日)

日曜の夜は何となく憂鬱だ。
これはいつものことだけど、何か面白いことがなくなっていく。「政治」なんてものを気にしないで生きてい
た時の幸せ、もう取り戻せないのかなあ。消費税は細川内閣の時に3%が5%になったのか、作られたのか忘
れてしまったが、ともかく「福祉目的税」という言葉は覚えている。(それじゃあ、しゃあないか)と思わせ
ておいて一般財源に繰り入れてしまう。ガソリン税も車の重量税も、厚生年金を始めとする社会保険”税”も
私たちの知らないところで、一般財源の穴埋めに使われる。郵便貯金も簡易保険も、国の一時借り入れに使わ
れてしまう。何でもありの何でもなしだ。いろいろな控除も徐々に外していく、一つは取るべき所から確実に
所得税を取っていない。もう一つは無意味な外国へのばらまき。外国でばらまいて感謝もされない、こんな政
治を誰が行っているのか。小さな穴は塞げても大きな穴は開けっ放し。これじゃ駄目だ。介護保険だって、医
療費の膨大さに音を上げて、家庭で”患者様”を見なさいよ。と言う主旨で始まったはずだ。それが今ぐずぐ
ずになっている。日本人全体が金の亡者になっている。少しでもビジネスチャンスがあればわっとそこに群が
る。「いい制度ができた」と喜ぶのは最初だけ、だんだん正体を現す。
夫婦が子供を産んで安心して子育てができる。将来の心配なしに適当にお金が使える。人生を楽しめる。生き
ていて良かったと思える。政治家は最低そんな社会を作らなくてはいけない。政治家が官僚の予算配分の手先
になっている。その予算の先には沢山の業者がいる。一番いけないのは常識のない官僚制、それに乗っている
不勉強の政治家。補助金を待ちかまえている業者。親は身を削って子供を良い大学に入れ、役人にする。いい
会社に入れる。そんな明治時代のような立身出世の貧乏根性がこの国を駄目にする。立身出世は競争社会だ。
この国の国民はそんなシビアな社会構成に慣れていない。


2007.10.13(土)

コンサルタントの先生は、ちまちまとした東京の下町で、人が人らしく生活していくために、面白い表現をし
た。一つは、「まちに風が通る」これは実質的な環境の問題と、コミュニティの必要さを言っていると思う。
東京の下町は、昔ながらの五人組意識のあるところと、戦後60年の間に近隣関係がずたずたになったところ
とがある。五人組は相互監視システムだが、ゴミ出しルールや煩いところがあっても、防犯上のメリットは高
い。もう一つは、「まちが機能を持つ」という話だ。ドイツはルール重視で不自由な国だが、環境問題も福祉
の問題も、地方自治体より小さな組織が機能している。自給自足への意欲も高い。何も珍しいことではない。
戦前の日本にあった暮らしの方法が、現代的に改良されているだけだ。今の日本人は求めすぎる。自分で何が
できるかを行ってから、援助を求めるべきだ。援助を効果的に使うアドバイスを行う職業まである。その業者
が大工まで連れてきて、保険が使えるからと不要不急の工事までする。これは本末転倒だと思う。介護保険制
度ができる前はどうだったか考えてみよう。サービスを金に換算する仕組みはなかった。民生委員が行政の代
理として活躍していた。評判は悪くても、家族が面倒を見られない状態になった人を収容する「病院」があっ
た。「あそこの病院に入ると亡くならないと出てこられない」、そんな評判の病院はそこここにあった。技術
が下手だから、亡くなるのではなくて、亡くなる時期が近い人が入るから亡くなるのだ。しかも70才以上は
医療費は無料、差額ベット代だけ。最後の最後は病院に入れられるから、それを頼りに自宅介護をしていた。
「まちの機能」はもっと複雑なものだが、これはその一端である。近隣の人は介護や療養をしている人がいる
家庭を知っている。民生委員はこまめに一人暮らしの老人を見て回る。交番も定期的に住民調査をする(これ
はちょっと目的が違うが)、非常時の連絡先は交番に聞けば分かった。今はあまりに「個」を大切にして、監
視社会のいいところまで否定してしまった。寺も神社も病院も気軽に往診してくれる町医者も、適当にばらま
かれて、それぞれが連携して機能していた。ケアマネージャーが近隣の介護者同士の連絡や情報交換を阻害し
ている。誰もが「自分だけが良ければいい」と思い始めている。制度を作れば、それがビジネスチャンスとな
り、多くの業者が参入した。もう「おいしい業界」でないと見切れば、さっさと業種替えをしてしまう。そん
な社会だ。



2007.09.17(月)

母が何度目かのピンチである。今まで何度もピンチを乗り超えてきた。その度に私たちははらはらする。「こ
れが最後ではないのか」と思ってしまう。最後に手を抜いて、そのまま死なれたらダメージはこちらに残る。
いくら親子でも最善のことをするのが人間としての義務だ。知識がなかったり、運が悪いのは諦めがつく。出
来ることをしなかったら、何時までも悔いが残る。どんな姿になっても生きていてもらいたいのが心情。しか
し、もういいだろう、と言うのも本音。しかしやることは一緒。介護者はみんな真面目だ。どうしてこんなに
真摯に介護できるのだろう。それは医師や看護師と違って、大きな範囲でものを見られないからだと思う。第
一看ている相手が肉親である。一日の小さな一挙手一投足の動きに神経をとがらす、これは仕方のないこと
だ。介護のピンチは病気の危篤とは全然違う。


2007.08.03(金) 介護をしている者の不安

毎日家庭内介護をしている人の不安はいかばかりか、自分もその立場にありながら、気になる。「介護は親育
てだ」、と「子育て」をもじって発言するが、根本的な違いがある。その違いが不安の基になっている。子供
はいつの間にか大きくなって、自分一人で大人になったような顔をして、巣立っていく。ところが親はそうは
いかない。親育ての先に待っているのは、紛れもない「親との別れ」である。介護をしながら常に被介護者
の 「死」は介護者の頭の中にある。今日は笑った。今日はたくさん食べて機嫌が良かった。一時の変化に一
喜一 憂するが、心の底から喜べるものとは違う。介護者はもっと先を考える、被介護者が亡くなった後の自
分である。どこまで続くかわからない介護の不安、そしてその先、介護者の気持ちは休まらない。真面目な人
であればあるほど、被介護者に愛情を持っていればいるほど、介護者の神経はずたずたにされる。介護者の
「鬱傾向」が出やすいのも道理である。

介護者と被介護者の関係は千差万別である。ウエットな関係もあれば、ドライな関係もある。憎しみあってい
る場合だってある。いくらドライでも家庭内介護は、肉親かそれに準ずる人の介護である。心配がつきまとう
ことに変わりはない。介護者の不安も同様に千差万別である。周囲の無理解、自分の年齢、体の状態、金銭問
題、その中でも特に単身者(あるいは小さな家族単位)で介護している場合は、介護が終わったらすぐ自分が
介護される状態が近い、介護してくれる人がいない、経済的な問題。介護者が自立できにくい場合等々、精神
的、経済的な不安がある。このように介護者と被介護者の関係は複雑である。介護者が若くて家庭があり、あ
る程度子育ても終わっているとき、この時期の介護は、大変なことには変わりがないが、被介護者にとっては
運がいい。しかし生命のサイクルはいろいろだ。老々介護もあれば、孫が行う介護もある。

しかし、不安の中のいくつかは、国の施策一つで解決可能なものもある。一つは介護が看護に変わっていく最
後の段階を引き受けるベットが身の回りにたくさん用意されていること。介護者がどうにもならなくなった場
合の預かり施設が近くにあること。それらを利用する料金が安いことなど。家庭内介護の問題は24時間、休
みなく介護が続くことにある。ヘルパーさんやいろいろな制度的助けを借りても限度がある。介護者自身がリ
フレッシュできるまで、安心してギブアップできること、これが一番の望みだ。当然、受忍できる早い段階で
手を挙げる不心得者も出てくることは想像できるが。

精神的なものでは、「自分の親だから、祖母だから」というような肉親を介護する独特の部分がある。同じお
しめを取り替えるにしても、他人だったらもっと気楽にできる。当初、グループホームの発想はそんなところ
にあった。被介護者をお互いに取り替えるのである。その場所として、家庭の延長としてのグループホームが
考えられた。しかし、この発想は国にとっても都合のいい制度として利用される。土地も建物も人も用意せず
に、民間の発想(形のできている施設)に補助をすることで、施設不足をすり替えようとした。当初は被介護
者の「家」がホームとして利用された。これが本来のグループホームだと今でも思う。次に大きな事業者が補
助金目当てに次々参入し、事業者の施設を増やすことが目的になってしまった。

グループホームというのはリバースモゲージの発想に似ている。信託制度が根付いていないこの国で、亡くな
っていく人が残していく、土地、建物、現金等をしっかり管理してそれを担保(元手)に施設を建設し管理し
利用する(これは逆リバースモゲージかな)。当初は極めてクローズドなグループでいいと思う。利用者が一
回りしたところで、現在だったらNPO化が望ましい。詳しい人がいれば小さな会社にしてもいい。条件が整
えば社会福祉法人への道も考えられる。当初から補助金をあてにしたり、目的を見失うことがなければそう簡
単に潰れないはずだ。福祉は金がかかる、人手もいる。家庭内介護は一見安上がりに見えるが、労力が分散さ
れている。その数を考えれば福祉財源と社会資源を大きく食い荒らしている。

私がもう少し裕福だったら、数億の紐の付かない金があったら、動きのいいスタッフが何人かいたら、老後に
向かう一人として、何人か十何人かのために考えてみたいテーマだ。


2007.07.23(月)

いろいろなところで「私は要介護○の母(父、祖母等)を、○年介護しています」という自己紹介を目にす
る。「あれ、私のところは何年になるかな」と2003年の7月25日が「転倒記念日」である。あさってで、丸4
年になる。2001年の暮れに手術をした私が、手術後丸5年経っている。今年は6年目に入る。
この人は私が手術して2年目(1年半)、姉が引退して1年後に、転倒している。姉が「私の第2の人生を返
して」と言いたがるのが分かる。まことに運が良いといえる。私が転移や再発を抱えていたり、近場の速場で
なかったら、母の面倒など見られなかった。私が入退院の繰り返しになっただろうし、姉が65才まで働く決
心をしていたら、これまたひどいことになるところだった。やはり一番の被害者は姉かな。
HDの片隅から、転倒からペインにたどり着くまでとその後の、一番最初の日記が見つかった。私も姉も泣き
言など一切言っていない。若かったんだろうな。


2007.07.22(日)

今朝、母はまた自分の意志で歩き始めた。階段を自力で下り、茶の間の定位置に座ってテレビを見る。食事と
排泄、風呂を独立した場所で、自分でできる。これが母の自立と要介護の境だ。しかし、もう一つ思考回路の
問題がある。母は寝たきりと、自立を繰り返している。興味深く観察すると、体が自由に動かないでベッドに
縛り付けられている時は、思考回路も変調を起こす。見えないものが見えたり、医師が言わないことを言った
と主張したり、生活時間が狂ったり、想像と希望と現実との区別が付かなくなる。ところが自分の意志で移動
や排泄が可能になると、それは消える。ただの「耳の遠いばあさん」に戻る。これは何だろう。私の家系は父
側にも母側にも、いずれも長命だが認知症になった人はいない(もちろん認知症が遺伝によるという証拠はな
い)。私は、「薬」を疑っている。寝たきりで基礎代謝が最も落ちた時には、薬が効き過ぎるのではないか。
薬はある程度の代謝を計算に入れて、配合されているのではないかと思う。あるいは、危機的な状況や体位に
より、エンドルフィンが出てきて不安を押さえるのか、脳の問題は難しい。しかも、そこに作用する薬を毎日
飲んでいることも、ある意味で怖い。


2007.07.04(水)

この「面倒くさくて、手が掛かって、腹が立つ、しかも自分が与えた見返りが絶対に帰って来ない」、これは
何だ。介護とは一体なんだ。何でオレなんだ。怒り、大きな声を上げ、次の瞬間にはもう反省している、私の
心をもてあそぶ「心配」、これは何だ。私は別に「マザコン」じゃないはずだ。親に可愛がられた子供はほか
にもいる。母は表面上は兄弟姉妹を平等に慈しんだ。それが何でオレと姉なんだ。・・・・介護って面白い。
人の隠れた性格が、表面にいぶり出されてくる。「ある程度の距離をもった介護」、そんなきれい事はありは
しない。自宅介護は戦いだ。糞まみれの戦いだ。みんなが自分が潰れないための手段を少しずつ身につける。
被介護者も傷つけず、自分も傷つかない。そんな介護を目指すが、何時になっても見つからない。子供の時の
取っ組み合いの兄弟ゲンカを思い出す。愛しいけど憎らしい。これって人間の本質かな。


2007.07.03(火)

今日からサイドメニューをメインメニューに格上げいたします。

ある人の言葉から感じたこと。
「介護の後」そこには何があるのだろうか。真剣な介護であればあるほど、その後には「強烈な孤独」があ
る。とその方は書いておられる。これは「癌」の時にもさんざん体験したことである。父の時は看護者であ
り、20年近く経って私が患者になった。肉親、特に親を失った気持ちは癒えることがない。記憶が刻みつけ
られ、なくなることがないのだ。「時が解決する」とよく言う。確かにそうだが、病室の匂い、汚物の匂い、
だんだん痩せていく力持ちだった父の腕の感覚。こんなものは忘れようがない。普段記憶の下に沈んでいるだ
けだ。何かのきっかけですぐ、思い出してしまう。
私は考える。(忘れようとするから苦しむのだ。忘れなければいい。一緒に暮らした家の中にあった、その人
の気配はだんだんと薄れていく)。それでいいのだ。それ以上無理に忘れる必要はない。

私も、この手のかかる母が、いなくなったその後を考えないことはない。強烈な寂しさと開放感。きっとその
二つがあるはずだ。(もう介護しなくていい。病院に行かなくていい)という開放感と、介護(看護)すべき
対象が消えてしまった、埋めようのない喪失感。こればかりは慰める言葉がない。あるとすれば共に泣くだけ
だ。どうしようもなくなった時、私は仏壇の前に座る。体調が良ければ田舎の墓に行くだろう。墓に行けない
私は、仏壇の中で笑顔を見せている父や祖母の写真を見る。それだけで心が落ち着く。(もうすぐ行きますか
らね)と嘘ばかりついている。父や祖母はそんなことは百も承知だ。(大変なことがある時だけ頼みに来て)
と思っているに違いない。

人間は孤独ではない。生きている人のことばかり考えるから、孤独を感じる。亡くなった人もしっかり心の中
に生きている。見たい時、会いたい時に自由に顔が見えないだけだ。


2007.307.01(日)

ずっと快調だった母が、夜中の尻餅一つでいきなり「要介護4」になってしまった(これは個人的な介護
度)。背伸びしながら朝のみそ汁(私は飲まないよ。と言っているのだが、どうしてもみそ汁は欠かせないら
しい。といって自分でもたくさん飲む訳でもない)づくりをしていたのはつい何日か前までだ。
人生とはそんなものだろう。そしてやがてお別れが来る。母が先か私が先か。こんなパニックの最中、私は思
っている、「何のために人間は生きているんだろう。私は、母は何のために生きてきたのだろうか」、母の薄
くなった記憶は、苦労したことと、隠していた恨みと、病気に関わる医師たちの理不尽な振る舞いとで一杯で
ある。感謝とか悲しいとか嬉しいとか、ものすごく楽しかったとか、そんな思い出からだんだん薄くなってい
く。でも消えてしまった訳ではない。何かの拍子にふっと蘇る。今更、信仰を持ちたいとは思わないが、母が
もし信仰を持っていたら、少しは違った展開になるのか考えてみる。同じだろう。彼女はもう自分の死への恐
怖をも乗り越えている。私はどうだろう。「神様、この状態をどうにかしてください」と祈るだろうか。きっ
とそんなことはしない。何かが超人的な力で何かをしてくれる。そんなことを信じるには、あまりにも現実的
すぎる。せめて仏壇に手を合わせて、祖先に報告するだけだろう。自分の心の安寧を祈るだけだ。「介護って
嫌だな」と考えるとすべてが嫌になる。面倒くさいと考えるとすべてが面倒だ。与えられた環境に、最大でも
最小でもなく、普通に対処していくだけだ。それしかない。


2007.06.10(日)

社会保険庁とコムスンの話題で日曜のワイドショウは持ちきりだ。スポットライトが当たっているのは二つだ
けだが、ODAも消費税も税金の遣い方の問題で同根である。「役人」という階級(彼らは自分たちの負託さ
れら業務を行うための社会的保護を未だに「身分」という。)を監視し、きちんと目的に沿った業務をやらせ
てこなかった国民の責任である。私も子供だったからよくは知らないが、年金の最初は「恩給」という制度が
あった。これは軍人や、教員や役人のためだけの年金制度で、あなた達は国(個人がもしれない)のために尽
くしたのだから、国が下し賜るという性質のものだった。役人や三公社五現業の共済制度をまねして戦後、国
民年金や厚生年金ができてきたのだろう。(この辺りの経緯は憶測で言っている。調べたわけではないから不
正確かもしれない)。恩給と農業保護が戦後の大きな票田だったはずだ。少しずつ農業国から工業国へ転換が
なされ、工員や事務員が増えると、薄く浅く抵抗の少ない「税金」としての年金が考えられた。この着想は優
れていると思うが、配分や人口構成の先行きを見誤ってしまった。国民年金や厚生年金は、「積み立て年金」
ではない「税金」なのだとはっきり自覚しないといけなかったのだ。1000分のいくつという掛け金で、現職時
代の60%も50%もの配当を受けられるはずがない。国の会計は一年限りの自転車操業である。入ってきた
税金を次の年に使う。今年入った年金はいろいろ天引きをして、次の年に使う。私たちの納付した掛け金が安
全に運用されて、30年後40年後に戻ってくるわけではない。「あなた達が受け取る年金は、4人の若者た
ちが支出しているのですよ」そんな宣伝がさんざんされた。なんだこれは、私たち団塊の世代がせっせと納め
た年金はもう残っていない、ということなのだ。掛け金をしない人にまでさんざんばらまきをして、もう米倉
はからですよ。とんでもない政治だ。こんなことは、昭和20年代終盤には予測されたことだ。外交も国内政
治もだめ、こんな人たちを頂点にいただいている国民はいい迷惑だ。

国は最低限の政策を採ればいい。働けない人、身よりのない人、病気の人、そういう人が安心して人生を全う
できる仕組みを作ればいい。そのほかは介入して欲しくない。健康保険も年金も個人が責任を持って管理する
より仕方がない。介護保険など大きなお世話だ。土曜日曜になると、近くの老健施設の前に高級車がずらりと
止まる。自分たちで面倒看るのが当たり前だ。看られなくなったら、手を伸ばせばいい。自分たちの生活は生
活で守り、親の面倒は公的に看てくれなんぞ虫が良すぎる。

介護保険制度ができる時、私は感心がなかったが、「これは天下の悪法だよ」と言う人が多かった。私は景気
の悪い時期に、雇用拡大の方策だと思っていた。とんでもない、にわか大工から老人病院までこぞって制度を
食い散らかしてしまった。困るのはいつも国民である。


2007.05.05(土)

「ぼける」と言うことが少し分かってきた。「ぼけ」にもいろいろな種類がある。病気に分類されるものと、病気ではないが
少しずつ判断力や、感情が鈍磨していくこと。もともと記憶力が悪いこと。こんなことを総称しているから、なかなか実態
がつかめない。
私の会社は、実質的に65歳定年制に移行しつつある。50才が体力の一つの区切りなら、60才は頭の労働の区切り
である。会社は経験ある60才以上の人を安い賃金で働かせようとしている。組織能力としては、20才代人が集まるよ
り能力は断然高い。一人一人が長い経験を積み上げているのだから当然である。しかし、60才を超えるといろいろな
ぼけが出てくる。人間の生理の問題で別に非難すべきことではない。日頃から刻苦勉励、言葉の一語一語まで気を配
っている政治家はなかなかその意味ではぼけない。普通のサラリーマンで、一仕事終えた人にそれを当てはめるのは
酷である。研究職や普段からいろいろなことを考えている人、創意工夫を楽しんでいる人は、ぼけが遅い。遅いだけで
確実に若い時とは違ってきている。そんなことを包含して65才定年制は実行しなければならない。年金の支給が遅れ
るという政府の失策を繕う形で、新たな低賃金労働者を生んでいく方法は良くない。
「私?」、もちろん自分のぼけは自覚している。結論がだんだん速くなりつつある。後から修正するのが面倒になる。
「俺が出した結論や、積み上げ課程に文句があるか、お前にそんなことが言えるのか」と、私も経験に頼りすぎている。


2007.03.16(金)

脳障害の70数才になる母を介護していた40才前後の息子が、「委託殺人(法律的用語でないかもしれない)」で、執
行猶予付きの判決を受けた。母親は脳出血で認知症とは異なり、「殺してくれ」という意志があったという。12年間の介
護生活は彼にとって何だったのだろう。しかも彼は心を病んでいたという。何とも悲劇的な結末だ。彼はこれからの長
い人生をどんな気持ちで生きていくのだろう。「死刑にしてくれ!」という叫びが解る。家族がある中で、たまたま当時彼
が無職だったので介護をしたのが始まりだという。事実関係が間違っている可能性もあるが、(私はこの記事を直接読
んでいない)責めるなら見ていた家族だろう。


2007.03.04(日)

「介護していて感じたこと」が長くならないうちに、上下を入れ替えた。最新が一番前にある方が読む方には親切だろ
う。母の介護2の判定がでてから、ケアマネは大張り切りである。最近は制度改正がどんどん進み、大盤振る舞いの介
護保険も予想されたとおり破綻の道を進んでいるようだ。儲からない軽い認定者は、どんどん保険を使える範囲が狭
められている。かといって、病院は絶対に受け取らない制度に変えてしまった。苦労するのは家族である。これから、家
庭介護や家庭看護が当たり前になると、正直私などはお先真っ暗である。唯一の希望の光だった「介護付き老人ホー
ム」もだんだんメッキがはげている。どっちに転んでも楽しい老後はありそうもない。

母は元気である。本当は「自立」だ。おだてれば医者にも自分で通う。しかし、もう一度転倒したら、何もかもお終いにな
る危険性をはらんでいる。対外的には「頭ははっきりしている」と言っているが、私の言葉に抜けているのは「93才にし
ては・・・・」という部分である。病識がない。いったん決めたことは変更できない。ウンコが我慢できない。昼夜が逆転し
ている。耳が遠くなってきた。云々。私の症状と重なる部分も多い。毎日うんざりすることが多い。長距離ランナーは孤
独だ。最初は気が張っているが、それが日常になると、細かいところまでやりたくてもできない、しない。
「この人が死んだら」と思わない介護者はいないだろう。それは愛情とは別の心が思わせる幻影だ。日本人は「愛」とか
「愛している」という言葉を日常的には使わない。そんなこと分かり切ったことなのだ。私にしても、姉にしても、母を愛し
て、ある意味頼りにしている。大好きな人だ。それと介護が絡んだ日常生活はまた別の話だ。
母がとんでもない婆に変身して、亡くなった時に「あーあほっとした」と思わせてくれれば、こちらの精神も傷つかなくてす
む。しかし、そうはいくまい。


2006.02.04(日)

母はますます元気に、私たちは少しずつ介護に飽きている。(これが何年続くのか)と思うと、ぞっとすることがある。と、
言っても母の死を望んでいるわけではない。私の人生で、旅行をしたり、競馬や映画を見に行ったり、時には小さな恋
をしたり、速い車を飛ばしたり、そんな時間は限られている。それが皆母の介護に吸い込まれていくのを呆然と見てい
るしかない。これが悔しい。そうかといって放置して遊びに行っても気になるばかりだろう。介護は子育てと正対する位
置にある。計り知れない未来と、終焉しかない未来、しかも私はそれを、只見ていることしかできない。大きな生け簀に
放り込まれたような義務感。ここ数年私は日曜日が嫌いだ。


2006.10.28(土)

「お元気ですね〜」と母のことを他人が評してくれる。「こんな93才はいらっしゃいませんよ」と、お世辞を言ってくれる。
私は(このヤロー、ひっぱたいてやろうか)と思ってしまう。賞賛や誉め言葉が、こちらの苦労を知っての上なら、あるい
は介護経験を通じての話なら、ニュアンスで分かる。知りもしないで重みのない言葉には心底腹が立つ。私は特に優し
くもないし、親孝行でもない、といって親の遺産を狙っている訳ではない(親の財産は大半私と姉が与えたものだ)。私
達はお金の苦労を知っている。母親は貧乏の中私達を体を張って育ててくれた。だから、年老いて金の苦労はさせたく
ない。買いたいものも、孫への小遣いや成人式の祝い、結婚祝い、祝儀不祝儀に心配はさせたくない。出来るだけ元
気でいて欲しい。そんな、一般的な考えと、毎日一緒に暮らしている鬱陶しさは別物だ。
お婆ちゃんにと高価な菓子や果物を持ってくる。そんなものはいらないから、年に一度でいい、「土、日泊まりにいらっし
ゃいよ」と、言ってくれた方がどんなに嬉しいかしれない。


2006.09.14(木)母の検診日

昨日Y掲示板介護の常連さんからある常連さんに連絡を取りたいので、アドレスを教えてというリクエストがこのHPの
掲示板にあった。しかし、このフリーの掲示板は管理者でもアドレスは分からない仕組みになっている。インターネット
黎明期は平気でアドレスを掲示板でやりとりしていた気がするが、今はそんなことをしたらバルクメールが山ほど来る。
HPのトップページの自分のアドレス(フリー)もハイパーリンクを貼ると大変なことになるので、今は文字だけにしてい
る。そんな訳で、私のHPの掲示板が少しでも人様の役に立った、ということはとても嬉しいことだった。


2006.07.07(金)

七夕だ。出勤前の慌ただしい時間、朝食の準備だ。母は先に起きて、「大根おろし」を作ろうとして途中で投げ出してあ
った。皮もむかず、「もう、大根おろしも作れなくなった」と嘆く。かにの缶詰も混ぜたいという。「そんな余計なことしない
でくれよ」と、つい言葉がきつくなる。(あれ)と私は気がついた。この家の中で、怒鳴り声や、しかり声を私は育ってくる
過程で聞いたことがない。それが今、一番弱い母を相手に毎日のように大きな声を出している。(これはいけない、母
のためにも私のためにも)。短時間にこんにゃくのきんぴらと、麻婆豆腐をつくる。母は柔らかいものが好きなのだ。一
人分のみそ汁も卵を沈めてつくる。自分が育てられたように母も育てよう。


2006.06.22(木)

何故、母にもっと優しく接してやれないのか、ついつい言葉が乱暴になる。子供を叱り続ける若い親のようだ。「トイレの
戸は閉めろ」、「水道はちゃんと止めろ」、「ご飯をこぼすな」、「そんなもの取って置いても邪魔になるだけだ」、「同じ話
を何度もするな」云々。私は母親に口やかましく育てられた記憶がない。少し時間が経つと、言わなくてもいい小言を言
いすぎたような気がする。(明日はもっと優しく接しよう)毎晩そう思う。しかし、それが出来ない。
もう、一週間になる、生き残った母の唯一の姉が亡くなってしまってから。その前は弟だ。このときの悲嘆にくれる様子
は、端で見ていても本当に悲しそうだった。今回は何時亡くなってもしょうがない状態が1年以上続いた後の死である。
でも、悲しくない訳がない。同じ親から生まれた9人の兄弟がとうとう自分一人になってしまったのだから。長生きする辛
さは慰めようがない。自分がもし、4人の兄弟の中で一人生き残ったらどう思うだろう。毎日思い出の中で暮らすのだろ
うか、それとも身の回りの出来事に積極的に発言していく方法を選ぶだろうか。


2006.03.12(日)

母は、私がこんなに細かく母の「病状」を書いて、コメントも付け、第三者の方々に公開していることを知らない。他の家
族にもHPアドレスは教えていない。
結構書いてはいけないことも書いているのかもしれない。母が亡くなった後(私の方が早いかもしれないが)、後悔する
かもしれないし、その頃にはこんなことは当たり前のことになっているのかもしれない。
毎日、痛い痛いと言っている。(私もかなり痛いのだが)。その割には、最近は6時頃起きて、茶碗や皿を並べたり、時
にはみそ汁を作っている。洗濯物をたたむことを自分の仕事にしている。とめなければ近所の商店には出かけたいら
しい。時には姉の目を盗んで出かけているらしい。とても良いことなのだが、私達には彼女の転倒が心配である。静脈
が弱くなっているので、時々痣を作っている。白状しないが、ベットにぶつけたり、畳の上で転んだりはしているらしい。
彼女の骨は脆い。若い時の食事のせいで、人並みはずれた骨密度を誇っていたが、やはり80才の中盤からは人様
並に脆くなっている。
背骨の骨折とその後の辛い時間は、彼女にとって以前の交通事故と同じで、また元に戻ると確信している。本当に回
復している様にも思える。毎日の生活や言動を見ていると、絶対に彼女は自分が介護が必要な状態だとは感じていな
い。息子が小さなガンで死ぬ死ぬと不安を心にためているのに、その母は日々の生活に、草花の生長に集中し、表面
上は「自分がそのうち死ぬ」などとは考えていないように思える。あるいはマイナスの考えを一切外に出さないようにし
ているのか、それとももうそんなことは乗り越えてしまったのか。不思議だ。


2005年11月09日(水)

今日は腰が痛くて会社を休んだ。脊椎の潰れた母は、この何十倍もの痛みに耐えて整形外科を何軒も回ったのかと思
うと充分同情に値するし、不憫になる。歩くこともできず、子供達は不機嫌だし、体は自由にならないし、痛い注射を膝
に何本も打たれても痛みは少しも取れない。どんな気持ちだっただろう。だが、私は母が弱音を吐いたのを一度しか知
らない。「痛い痛い」は毎度のことだが、「こんなに痛いなら入院したい」と言ったのは一度きりだ。母の姑の祖母は、
「死にたい。早くお迎えが来ないか」とよく言っていたように思うが、この母はそんなことは一切言わない。驚くほど生き
るということに対しては前向きである。いまだに「健康のため、老後のため」と言っている。特に思考能力が低下してい
るとは思えないし、どんな気持ちでいるのか。「ぼける」と「とぼける」はちょっと違う。母は何もかも知った上でとぼけて
いるように思える。叔父(弟)が脳梗塞になり、入院したとき何度か見舞いに連れて行ったが、いつも手を取って励まし
続けていた。あまり熱心で当の家族に疎まれることもあった。ところが亡くなった途端に、叔父のことを言わなくなった。
早くに亡くなった伯父や伯母のことはもう心の中で整理されているのだろうか、懐かしそうに話す。だが、叔父のことは
私たちも記憶に新しいが、母の心の中ではまだ昔の記憶にはなっていないようだ。他人の家が年寄りの面倒を充分に
看られないことを非難する気にもならない。そのように子供を育ててしまったのだから、しょうがないと思う。しかし、母は
叔母を許していない。多分一生許さないだろう。

自分が死ぬことや、痛みのこと、だんだん衰えていくこと、これは私だっていつも考える。母が考えないはずはないと思
うが、一切後ろ向きのことは言わない。いつからこんなに強くなったのだろう。


2005年10月28日(金)

20年ほど前に、こんな事態を想定したわけではなく、自分の未来がどうなるのかということと、当時のバブル状態を重
ね合わせて小論文を書いたことがある。

主旨は「私たちの世代は、私たちが親を看たように看てもらえる筈がない」という考え方が元になっている。『「リバース
モゲージ」に近い考えからで、特に「養老院」という言葉を使わず、高齢者になった時の選択肢の一つとして、年をとると
段階的に弱っていくのだから、いきなり風光明媚なところに造られた施設に入るのには元気な年寄りは抵抗がある。元
気な時、多少病気を抱えた時、そして介護や看護が必要になった時に応じて、施設を移動し最終的には病院(ホスピ
ス)に入る。そのためには、都会型、地方都市型、リゾート型というような複数の施設と病院の連携が必要になる。その
ための資金は「信託した財産」か、「生存保険」が使えるだろう』というものだった。
これを考えた時点では、地価は永遠に上がり続ける。土地さえ持っていれば、時間が経てば経つほど資産価値が上が
るという、今は幻となった「錯覚」が基にあった。
その後バブルは崩壊し、信託銀行も「信託」という信用がなくなってしまった。生存保険も然りである。加えて政策的な
ゼロ金利が続いている。地価は下落し続けた。
政治はここで新しい「介護保険」という仕組みを手に入れた。しかし、この保険(税)はどうも「使い切り」の制度で、その
うち支払いが追いつかず破綻するのが目に見えている欠陥制度である。年金と同じ路線を歩いている。歴史を振り返
って見た時「介護保険の事業者がほんの数十年間潤った」という記憶だけしか残らないだろう。介護保険は目端の利く
業者に金儲けのチャンスを短期間与えて消えていく制度にきっとなる。
私たちは、また保険料を取られて恩恵を受けられないことを再度繰り返される。
そんな見通しの上に、環境に阿(おもね)らない、政治に頼らない方法として、最終的に残るのは、基本に戻って「自分
の金」と「相互扶助の精神」である。
今後土地や建物の価格は、極端に分化していく。都心への集中はますます進み、大きな都市では都市の中でも空洞
化が進むだろう。今度の空洞化は中心部ではなくて、ちょっと都心まで時間のかかる郊外や交通の便の悪い地区の取
り残しである。私たちの親の世代が営々と築いた衛星都市は消えていく運命にある。逆に言えば多少の不便さを我慢
すれば土地も建物も手に入りやすくなると言える。何しろ人口の絶対数が減っていくのだから。
そんな場所に「コミューン(集落)」を作っていく老人パワーが、相互扶助のバックボーンになる。団塊の世代は長生きは
できないかも知れないが、何しろ競争を生き抜いてきた世代である。そんな世代をいじめ続けるとどんなことになるか、
若い世代に思い知らせたい。財産がある者は財産を、技術がある者は技術を、優しさだけが取り柄の人はその優しさ
を出し合い、それぞれの個性を発揮する場所はあるはずだ。「子供に面倒を見てもらう、そんなことふーんだ」といえる
世代だ。私はそんな世代の先駆けになりたい。


2005年7月30日(土) 悪魔の囁き

ここの自分の記述を第三者として見ていると、私は親孝行で感心な息子のように思える。しかし、本当はこんな生活が
嫌で嫌でしょうがない。介護なんて大嫌いだ。年寄りも鬱陶しくてしょうがない。自分の体を面倒見るので精一杯なの
に、いくら親とはいえ私の生活をこんなに縛る権利があるのか。しかも私自身はこのような世話を受けられる可能性が
ないことを時代が教えているし、自分でも気づいている。
兄妹のうちで何故私なんだ。自分たちは自分の生活をきちんと守り、時々様子を見に来て優しい声をかけるだけで喜
ばれ、私は母の落としたウンコを拭いて回り、仕事のスケジュールお構いなしの通院に付き添う。付きそうといっても、
予約から、医師との連絡、車の運転、駐車場の確保、車いすを押しての受診、長時間の時間待ち、医師との話、然る
べき手の打ち方の相談、処方箋の提出、薬を受け取り帰宅、すぐ食事の支度。その間もぐだぐたという年寄りの愚痴
を聞かなければならない。これが付き添いの現実だ。単に一緒に病院に行くわけではない。兄妹も一度だけはついてく
るが、定年を過ぎて時間が自由になるくせに、自分の仕事ではないと思っている。
私の車は高速道路が得意だ。時には病院通いではなくて、東名や中央道をすっ飛ばしてやりたい。自分の体がまだ自
由に動くうちにしたいことが沢山ある。外国にも行きたい。土日は女の子ともつき合いたい。やっと拾った自分の時間を
自由に使わせてくれ。
たまには、こんなことも書きたい。反省したら削除します。

どうやら反省していない模様です(2005.10.28)


2005年7月26日(火)

台風が接近して大雨が降ったりやんだり、今、朝食を食べさせ終えて、出かける前のつかの間の時間。
突然、50年も前のことを思い出す。小学校の低学年。道徳の時間が導入される前のことだ。朝礼の後、各教室では学
級会が行われる。子供達は声を合わせて、「お年寄りを大切にしよう!」、「お友達と仲良くしよう!」と標語のいくつか
を唱和させられていた。当時、この「お年寄り」は、腰の曲がった年寄りで、父母や祖母が標語の中のお年寄りだとは
思ってもいなかった。
この、当たり前の言葉を毎日実践することが難しいんです。ほんとに、頭では分かっているしんですが。


2005年7月12日(火)

お盆が来る。オガラと花と供物と団子は欠かせない。特に信心深いとも思えないが、お盆セットを用意してお盆の入り
を待つ。子供の頃父親と迎え火をたいて、「この煙を目当てに、おじいさんやおばあちゃんが田舎から来るんだよ」と聞
かされていた。その時母は何をしていたか記憶にない。しかし、父が亡くなり迎え火は私の仕事になった。私の帰りが
遅いと母が自分で火をたき、それで蝋燭に火をつけ仏壇に運んでいたらしい。そんな習慣がまだ続いている。案外無
関心な姉が将来、お盆やお彼岸の主人公になるかもしれない。母にせかされながらも、お盆セットは姉が用意するよう
になった。


2005年7月8日(金)

最近母と話しをする時、大きな声で怒鳴るような口調になることがある。母には特に認知症の症状はないが、年相応に
説明が省かれて、意味がすぐとれないことがある。また、テレビが好きでいつも大きな音でつけているので、それに負
けずに母の耳に届くように大きな声になる。それが何か家族から乱暴に扱われているようで不満らしい。


2005年5月29日(日)

母は、昨日92才の誕生日を迎えた。現在は、好きな時寝て好きな時間に起きて、果てしなく自分の6畳の部屋を「整
理」している。頭は至って良好、加齢による勘違いはあるが、記憶力鮮明、言語明瞭、睡眠薬の量を間違えて時々不
明瞭。食欲旺盛。大便小便は自分で行う。短時間なら立っていられる。歩ける距離は、2〜30mか。食事の後かたづ
け、洗濯物の取り込み、を「しようと」する。(できないことはしなくていいよ)と言っても聞かない。耳はやや遠い、聞こえ
ない部分は悪口を言われていると取る傾向がある。
昨年(2004年)の春、腰椎のペインを中止してから、大きな症状は出ていない(「痛い痛い」は口癖である。私もあちこち
痛い)。私の「介護」は、朝食をつくること。時々病院に連れて行くこと。今、一番負担なのは、くどくど続く話を聞くこと、
これが一番しんどい。ここのところ「痛い」、「眠れない」の愁訴が少ない。
当初、呆け(今は認知症と言うらしい)たかな、と思ったのは結局は睡眠薬の影響だった。便の排泄が間に合わないの
は、足が痛くてすぐ移動できなかったからだ、その辺が改善されると、単なるうるさいばババアになってしまった。
足のむくみもとれて、心臓は快調らしい。「何でむくむんだろうね」と聞かれて、「歩けないのと、心臓機能が落ちてるか
らだよ」などとは言えない。人間の体は不思議だ。全体が弱ると、ちょっとしたことがすぐ症状になって出てくる。




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