日々是ネタ也
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第80回 横田基地へ (2005/8/21)

友人から電話があって横田基地へ行くことになった。何でも年に1回だけ横田基地を開放する祭りがあるとやらでそれに誘われた。そういえば名前だけはよく聞く米軍の横田基地だが実際にどこにあるのかなど何も知らなかった。

立川から青梅線に乗って牛浜なる聞いたことない駅へ。どーっと降りた人は殆ど横田基地が目当ての人々らしい。友人曰く牛浜にこんなに人が降りるのは年に1回、この日だけらしい。横田基地までは人の波が出来ていたのでそれに流されて到着。基地内に入るためには金属探知機を使ってのボディチェック。やはり米軍基地、その辺は厳しいな…と思いきや金属探知機がピーピー鳴っているのに殆どノーチェックで通された。大丈夫なのか、9.11も近いって言うのに。もっともあれだけの人がいていちいちチェックしていたら入るだけで大行列になってしまうか。基地内はどーんと出店があり、飲食物や横田基地グッズ(?)などを売り、ステージの上では空手の演舞があったり素人バンドが洋楽を唄ったり色々ごちゃごちゃ。人は日本人も西洋人も家族連れもたくさん。8月、天気は晴れ、風はあったが実に暑い。昼飯を食っていなかったので出店の1つでステーキサンドイッチなるものと炎天下で実に美味いであろう缶ビールを購入(やはりアメリカ、バドワイザー)。飯を食うために気の利いた椅子などはないので地面に直に座って食う。ふと思う、このステーキサンドイッチの肉は米国産牛肉か?基地なので地面はアスファルト、最初の一口は最高だったビールも炎天下でアスファルトに置いたのでアッと言う間にぬるくなった。

この横田基地開放祭りの最大のイベントは米軍の飛行機などの展示だという。たしかに広大な基地内に様々な飛行機やヘリが並べられている。そして一眼レフなどの立派なカメラで写真を撮っている人が多数。男子たるもの小さい頃に一度は戦闘機や戦車に興味を持つことがあるはず。それがそのまま大人になったような人たちがいっぱい。一緒に行った友人の1人がやたら詳しくて「これは三沢から来たものだ」とか「イラクで使われた戦闘機だ」とか「日本でこれを作るのに○●党が猛反対したんだ」とか物凄い知識を披露した。私から見たら似たように見える戦闘機も友人に言わせれば「これは戦闘機で、あっちは攻撃機」なのだそうだ…。その気になれば一部の飛行機の内部に入れたのだが、入るためにはどこも列が出来ていて炎天下の中それらに並ぶ気にはなれなかった。あちらこちらで米軍の軍人と記念写真を取る家族連れがいたり日本人スタッフに戦闘機について質問しているおじさんがいたりなどして全体的にほのぼのした雰囲気。夜には盛大に花火が打ち上げられる予定だったらしいが広大な基地内をひたすら歩いていたので暑さと疲労で夕方には帰ることに。 初めての横田基地、何もせずに家でゴロゴロ過ごす休日よりは良かっただろう。

 

第79回 虚しい再会 (2005/6/12)

学生時代のバイト先の同僚からメールでもたらされた訃報。私もバイト在職中には多大なるお世話になった方が亡くなったという。先月店に行ったときに入院していると言う話は聞いたがまさかこうも突然。その後の電話で通夜と告別式の日取りを聞かされる。通夜の日は幸い休みだったので参列させてもらうことに。

元バイト先の同僚らとの待ち合わせの駅へ行くとバイトを退職して以来会っていない、かなり懐かしいメンツが沢山。開口一番「こんな形で会いたくなかったな」。そして改めて集まったメンバーの顔を見て私が大きな過ちを犯したことに気が付いた。彼(女)らが来ているのならば当然来ていてもおかしくないような人が来ていない。そしてよく考えてみればその連中と最も連絡が取り易い立場にいるのは私だった。ところが私は誰にも連絡していない…。その瞬間まで自分が誰かに連絡をしなければ、という発想すらなかった。何でそんな簡単なことに気が付かなかったのだろう。現在の生活の中では殆ど繋がりが無いゆえに、お世話になった方の死に実感が全く無かったからだろうか。

滞りなく通夜を終え、お清めの食事。続々と懐かしい顔に会う。つくづくこんな形じゃなければなぁ、と思う。葬儀場を出て当時の社員やバイトらと追悼(という名目で)飲みに行った。飲み会の参加者は数年前までは皆同じ店で働いていたのだが、今はそれぞれ別の仕事をしている。必然的に昔話に花が咲く。学生時代と平行してアルバイト時代があった私から見ると同窓会みたいな感じだった。地元に帰ってさらに飲み直し。飲みながら話しながら色々と昔のことを思い出す。お世話になった方が亡くなったのだが、あまりにも実感が無い。現在の生活では休みの日に会いに行く(平日しか出勤していない人だったからそれもなかなか出来なかったが)くらいしか接点が無かったからだろう。私が現役で働いていたらもっと違っただろうが…。翌日の仕事のことも考えて最後はソフトドリンクを飲んでいたのだが店を出たのは2時。翌朝起きると軽度の二日酔い。しかし二日酔い以前にお世話になった方の死に対する実感の無さ、通夜、そこで会った懐かしい顔、当時の記憶、現在の生活…色々な考えが頭をよぎって心に残ったのは虚無感。 それらのことを考えていたら今は暇な時期というのもあって仕事がどうでもよくなった。職場に体調不良のために休む旨を連絡。二日酔いも体調不良に入るだろうし、精神的にも少し体調(?)不良、仮病ではないよな。今の仕事に就いて初めての半分サボり休暇。特に何するでもなくゴロゴロして過ごす、結局普段の休日と変わらない。

翌日、いつものように出勤。地元の駅で電車を待っていると不意に声をかけられた。振り向くと通夜でも会った当時のアルバイトの後輩だった。これまで1度もこんな形で会ったことなど無かったのに、通夜の2日後に偶然出会うなんて…。お互い出勤途中で違う電車待ちだったのであまり話すことは出来なかったが、アルバイトを始めた当時はまだ高校生でポーっとしていた感じのコだったのだが、今や社会人でそれなりにしっかりしているように見えた。当たり前だけど時間は流れているんだな…。次は何か良い機会で会いたいね、そう言って別れた。

 

第78回 女性専用車両導入 (2005/5/15)

忌々しき女性専用車両。何が気に入らないかと言うと完全に個人的な問題なのだが、私が毎朝乗っている1番後ろの車両が女性専用車両に指定されていることだ。そうでなければココまで忌み嫌うことも無いのだが…。私は毎朝の通勤時に中央部と比べればやや空いている最後部の車両に乗るようにしていたのだが、今回の女性専用車両導入のおかげでそれが出来なくなった。それならば後ろから2両目に乗れば良いわけだが、私が乗っている電車は後ろから2両目が弱冷房車に指定されている。これからの時期、暑いのが嫌いな私が弱冷房車などに乗れるわけが無い。そうなると必然的に後ろから3両目の車両になるわけだが、後ろから3両目だともうそれほど空いていると言うわけではない。そんなわけで忌々しき女性専用車両…ということになるのである。

女性専用車両にはどの程度乗っている人がいるのか、ガラガラだったら更にイラつくなと思って初日に女性専用車両を見てみたが結構混雑していたのでまぁ良しといったところか。もっとも最初だから皆物珍しくて乗っているということもあるだろうから、真価は少し経たないと判らないな。そして判らないのが女性専用車両に隣接する車両のもっとも女性専用車両側に乗っている女性。ドア1つしか違わないじゃねーか、オマエはアッチ行けよ、と。この際いっそのこと朝の時間帯は完全性別分乗制にしてくれた方がまだましだ。朝の時間帯に電車使う連中は殆どが通勤・通学で定期券買って乗っているはず。定期券を購入するときには何故か性別の入力もさせるではないか。ということは定期券所持者の男女比のデータは鉄道会社にあるということだ。そのデータをもとにすれば男車両が何割、女車両が何割と正確に割り出せるではないか。そこまでやってくれれば(絶対にありえないだろうが)こちらとしても踏ん切りがつくのだが。

それから個人的に作って欲しい専用車両は「学生専用車両」(うるさいバカ学生は1つにまとめてくれ、これも通学定期購入のデータから比率を割り出せる筈)とか「絶対無言車両」(落ち着いて本が読みたい)。そして女性専用車両よりも前に作るべきではないかと常々思っているのが「携帯電話絶対禁止車両」。「車内での携帯電話のご利用はご遠慮ください」などという誰も守っていない放送を垂れ流すよりは車掌の目の届き易い1番後ろの車両を「携帯電話絶対禁止車両」にしてしまった方が良い。心臓のペースメーカーをつけている人などはそこに乗れば良いのだ。ペースメーカーをつけている人にしても現在の全く有名無実な「携帯禁止」よりも安心して電車に乗れるだろう。

なんというかこの女性専用車両とやらを作ってしまう、出来てしまう世間の風潮に腹が立つ。女性専用車両導入初日のTVのニュースではインタビューを受けた女性は一様に「これで安心です。」みたいに答える。中には「別にどっちでもいいです」と答える女性もいたが、ネガティブな意見のインタビューは放送しない。コメンテーター(♂)みたいなのが「世界的に見て女性専用車両なんてものがあるのは日本だけです。これは日本の男性陣は恥ずかしいと思わなければいけません。」みたいなことを言っているのを見るのも腹が立つ。何をオマエが偉そうに言ってんだよ…って。

 

第77回 vs警察 (2005/3/21)

残業帰りの23時過ぎ、いつものようにチャリで帰路につく。帰りに通っている一方通行の道。自転車なので気にせず通る。すると背後から車の気配、一方通行なのに…。深夜の時間帯になると一方通行を無視するバカが乗ったアホ車も多い。これもバカの一種だろうと何気なく振り返るとパトカーだった。赤色灯を付けているわけでもない。オイオイ、パトカーが完全に一方通行無視かよ…。一方通行だけにあまり広くない道、通れるように道を開けてやっても前に行こうとしない。T字路にさしかかり、直進方向には再び一方通行の標識。私はチャリなのでそのまま直進。当然そのパトカーは曲がるものと思いきや再び一方通行を直進。私の横を徐行で併走し「こんばんはー、チョットすいません。止まってもらえるー?」とパトカーを止めて降りてきた。遅くまでの残業を終えて疲れた帰路。一方通行を逆走するバカ車かと思ったらパトカー。わざわざパトカーで自転車の私を止めての職務質問(?)少しイラッ、とした。おまけに完全に一方通行を無視して私に声をかけてきたので一言言ってやりたかった。 降りてきた警官は身体の大きい、いかにも体育会系です!という感じ。

警・「毎度のことで恐縮なんだけど、自転車見せてもらえるかな?」
私・「それはいいですけど、ココ一方通行ですよ?」
警・「えっ?そうなの??」
私・「知らなかったんですか?」
警・「はぁ、それは気付かなかった。」
全然悪びれないどころかチョット上からものを言う態度が気に入らなかった。
私・「警察がそれじゃまずいでしょ、どーなの?」
警・「はぁ…いやぁ…」
何やら口ごもる警官1、すると運転席からその上役と思われる警官2登場。
私・「何でこの街の警察が一方通行分からないわけ?しかも気が付きませんでしたなんて一般市民が言ってもアンタら切符切るでしょ?完全な道交法違反ですよね?」
上役警官2もやや動揺した様子ながらも精一杯虚勢を張った感じで
警・「こういう場合は緊急車両だから一般の道交法は適用されないの、残念ながら。」
…と「残念ながら」という部分を強調したのがまた癪に障る。しかし後から思えば赤色灯も付けずに緊急車両、ということが通るのだろうか。
私・「ふーん、そうなんですか。…で何で一方通行を逆走してまで私を?」
警・「あなたローソンの前の道から車道出て来て走ってたでしょ」
私・「ハァ?それの何が悪いの?基本的に自転車は車道を走るものでしょ。アンタ道交法知らないの?」
警・「いや、勿論知ってますけど…」
私・「もうイイよ、さっさと自転車調べてよ。」
警・「いや、イイですよ、防犯登録貼ってあるの確認できたんで。」
(何だそりゃ、防犯登録の番号照会すらしない。その為だけに呼び止めたのか…)
私・「はぁ、じゃぁイイや。一方通行気をつけて下さいね。」

と皮肉を投げかけてその場を去った。目の前の点滅している赤信号の前ではこれ見よがしにしっかり道交法に基づいて一時停止左右確認後に進行。我ながらあそこまで警官に絡むとは思わなかった。残業続きのイライラと深夜にそんなことで呼び止められたイライラと警官の態度の悪さがあわさっての結果だ。最近の私の地元のガラの悪さは際立っている。どう見ても仕事帰りの健全なサラリーマンに見える(だろう)私をそんな下らないことで呼び止める前にすることがいっぱいあるだろう。それにしてもあまりにも一般常識・道交法に欠けた連中だった。そういえば以前にも自転車の無灯火で呼び止められたとき。防犯登録その他一式の確認をされた後に「ライトは付けておいた方が良いですよ。」と言われて解放されたことがある。夜間のライトは「付けておいた方が良い」ではなく「付けなければならない」だと思うのだが。この街は大丈夫か?

 

第76回 サッカー、日本-北朝鮮 (2005/2/20)

サッカーワールドカップアジア最終予選初戦、日本対北朝鮮。これ以上ナイ!というくらいの盛り上がるシチュエーションが揃った。100%真剣勝負(な筈)のワールドカップ最終予選の重要な初戦。そして相手が政治的にも歴史的にも因縁ある北朝鮮。サッカー好きでなくとも必然的に注目が集まる一戦となった。事前に殆ど情報が無く、その国家同様に謎に包まれた北朝鮮をマスコミも必要以上に煽る。スポーツニュースは北朝鮮の不気味さばかりをいたずらに強調していて嫌になる。そして結局は「相手に惑わされず日本のサッカーをすれば勝てる」、というお決まりの文句。もっとも情報が無いからそれしか言いようがないか。折しも仕事が今月に入って忙しい日々が続いていた。それでも2月9日だけは絶対定時、を合言葉にそれ以外の日々は残業に費やす。そして2月9日の定時を迎え、サッカー好きの同僚と目を合わせ無言でニヤリと頷きあってお互いに定退。

キックオフ直前からビールを飲んで徐々にテンションを上げていく。キックオフ直後の開始早々、いきなり小笠原のフリーキックが直接決まり日本が先制。ここで私は早くも2本目のビールを投入して来たるべく日本の波状攻撃と追加点に備える。しかしそこからは…。北朝鮮が巧いというよりも日本の精度の低さや凡ミスが目立って押される展開で流れが悪いまま前半終了。3本目のビールを投入するタイミングが全く無かった。後半も悪い流れを引きずったまま、まさかの同点ゴールを許す。ここでようやくジーコ監督は高原・中村のヨーロッパ組を立て続けに投入。欧州組の投入によって目に見えて流れが変わったが点はなかなか入らない。そしてロスタイム、引き分けの諦めムードが漂う中、後半残り10分程の場面で交代で投入された大黒が劇的な決勝ゴール。あの瞬間、日本は一瞬揺れたのではないかと思う。ロスタイムも残りは1分、ここでようやく落ち着いて3本目のビールを投入することが出来た。ジーコの選手交代とそのタイミングの是非はともかく、結果に繋がった選手交代であった。その後は各局のスポーツニュースをはしごしながら4本目のビールを投入。 ジーコの采配同様に私のビール投入のタイミングも狂ったが、とりあえずは結果オーライだろう。

ワールドカップ最終予選は残り5試合。少なくとも5日は絶対定時の日がある、ということか。5試合ではなく、もっと早く出場を決めてくれれば良いが、同組の中では最も格下と見られていた北朝鮮相手に2-1の辛勝。これはまた見る側にとっても実に緊張感のある試合が続きそうだ。

 

第75回 北海道の祖父の死 (2005/1/29)

朝一、突然父から聞かされた「爺ちゃん亡くなったって。」一瞬で目が覚めた。脳梗塞で入院したとは聞いていたがそれほど酷い状況だとは聞いていなかった。老体なので日頃から入退院を繰り返していたようなので今回も似たようなものだとばかり思っていた。葬儀に参列するために父はすぐに実家の北海道へ。私もその日は仕事へ行ったが職場で事態を説明して休みを貰う。祖父の死に加えて真冬の北海道へ行く、というだけで同情率が大幅にアップ、休み易かった。仕事はチョット忙しい時期なのでこういうことでも無いと休みにくい。早速航空券の手配、ネット予約はAIR DOで。道民割引というのがあって、住所や本籍地が北海道ならば安くなる。私の本籍地は父の実家の北海道に設定されていたので道民割引を使用。それほど混雑している時期ではなく、席はすぐに取れた。もう少し遅かったら大学生が休みに入ってスキーやスノボ、さらに札幌雪祭りも始まるので混雑していたような気がする。

新しく出来たばかりの羽田空港第2ターミナルからAIR DO機に乗り込む。ANAがほぼ占有している第2ターミナル。AIR DOは新興企業なだけにカウンターも隅っこの方にポツン、搭乗口も一番遠い所に設置されていた。何だか巨大勢力に必死に挑む新興勢力の図、という感じ。飛行機に乗ってしまえば羽田から北海道新千歳空港までは1時間30分弱。しかし千歳空港から祖父宅のある倶知安町まで行くのが長い。札幌・小樽を経由して向かうのだが、小樽からは1両編成の汽車(電車ではないらしい)で豪雪地帯をゆっくりゆっくり走る(スピードが出せないのだろう)。合計3時間弱ではあるのだが、実時間以上に長く感じる時間。当たり前だが車窓から見えるのは全て雪景色。地上なのにDoCoMoの電波が入らないような一面雪景色を汽車は進む。自然界に存在する真の白色というのは雪の色だな、と思った。昨夏以来の祖父母宅、祖父は静かに眠っていた。聞けば逝去前日までは何とも無く、未明に気がつくと心臓が止まっていたらしく、眠ったまま逝ったのだろうとのことで死顔も実に穏やかだった。

通夜、見知らぬ親戚が大量集合。父でさえ判らない人も多数という。従兄弟との会話、「名前と故人との関係を示した名札をつけて欲しいよね。」それこそ爺ちゃんを起こして聞かないと誰が誰やら判らない。葬儀列席者の挨拶などで初めて知る在りし日の祖父の姿も。天皇陛下から勲章を頂いていたり、倶知安町で町議を3期も務めていたり、様々な団体の役員やっていたり…。やたら挨拶が長い人はいたものの式は基本的に滞りなく終了。通夜後はそのまま寺の本堂に泊まるという。そして必然的に出てくる酒・酒・酒。久しぶりに従兄弟と会ったのでこれを機に飲む。お互い東京近郊に居るはずなのに全然会ったことがない従兄弟…。見知らぬ親戚多数(しかもその殆どが50代以上と思われる)の中で一緒に飲んで話せる相手といったら同年代の従兄弟くらいしかいない。関西から飛行機で向かっていた弟は雪の影響で千歳空港に着陸できず関西に戻ってしまったという。真冬の北海道、そんなこともある。

翌日の告別式からの一連の行事(出棺、火葬、収骨)も滞りなく終了。慌しく、しかし終わってみればアッサリとした感もあった葬儀一連の流れ。明治44年生まれ90歳超の穏やかな死。いわゆる大往生と呼べるであろう死のために悲しみにくれるようなシーンは殆ど無かった。基本的に葬儀は悲しいものではあるが、順番通りだとある程度は諦めに似た気持ちがあることは確かだろう。葬儀の順番が狂う、若い者から先に逝くことで葬儀の悲しさは倍増していくのだろう。一昨年の母方の祖父に続いて、今回の父方の祖父の死。これで祖父はどちらも逝ってしまった。祖父母宅へ遊びに行く動機がそれぞれ半分になってしまったが、今は残り半分を100%としてそれが少しでも長く続くことを願うばかりだ。

 

第74回 新PC購入 (2004/11/23)

以前からずっと考えていた計画、新しいパソコンの購入。DVDが作れて動画が加工できるようなパソコン。その気になれば買える状況ではあった。しかしPCなどのデジタル家電商品は数ヶ月前に出たものが今は古くなるような市場。買うタイミングがよく分からなかったので11〜12月頃に購入、ということを最初に決めた。そしてそれまでに新聞広告や折込みチラシ、ネット、時々覗く家電屋などで様々な情報を集めておいた。およそ半年に渡る調査期間の結果、11月のある日をXデーと定めた。その日に秋葉原へ行って現地最終価格調査かつ交渉をして決める。思えば私の初号機である現PCも秋葉原で交渉の末に購入したものだった。いまや半分はヲタ○の街に成り下がっているらしいが、やはり大きな家電を買うとなると秋葉原には特別なものを感じてしまう。

半年間の情報収集は大きいもので、自分の中ではコレというスペックと価格が殆ど固まっていた。ネットで見て良いと思ったBTO(Built To Order)製品。自分でカスタマイズして好きな性能のパソコンを作ることが出来る。秋葉原にはそのBTOの直販店があった。最後にはそこで注文する予定で行動。色々な店を一通り見てから本命店を1回覗いて現物を見てから再び他店を回った。その末にやはり当初の計画通りにBTO直販店で直に注文した。秋葉原を回って色々見て気が付いたことがある。秋葉原で欲しいと思うものを探すのではなく、秋葉原で他の商品を見ることによって自分が欲しいと思ったものが完璧かどうかを確認している、ということ。結果的に私の今回の秋葉原行きの目的はそれだった。自分が欲しいと思っていたものよりも良いものが見つけられなければOK。最初から買うべきものは殆ど決まっていたのだ。色々見て回った末に結局自分が最初から決めていたヤツが1番良かったのだという(自己)満足感と、大金を卸して気が大きくなっていたのも含めて当初の予定よりやや派手にカスタマイズして注文した。私の主義として現金一括決済、卸したての1万円だったので全てが新札のピン札。 そういえば新1万円札を見たのはこれが初めてだった。現在までの私の生涯買物の中で車に次ぐ2位に踊り出た。

気になる構成だが現PCと比べて
価格…約1.3倍
CPU…Pentiam○の数字が2倍
メモリ…10倍以上
HDD…100倍以上
ディスプレイ…1倍(しかし奥行きは約1/5倍)
メモリとHDDに関してはエイッ!って感じでかなり奮発した。現在使っている私の初号機に当たるPCは有名メーカー物。そして今回購入した新PCはBTOカスタマイズ物。初心者からレベルアップしているのが自己満足。すると次は自作PC…なんかになっていくのかな。

旅の醍醐味は計画を立てることである。どういうルートでどこへ行って、行ったら何をしようか考える。今回PCを購入するための情報収集も似たようなものだった。情報収集をしている間は毎週末の家電屋の折込みチラシが楽しみだったし、家電屋のPCコーナー眺めるのも、ネットで好きなスペック組んで見積もりを出すのも楽しかった。そうした末に納得の行く新PCを買えたことは大満足だけど、その楽しみの半分は消化してしまったのかも。あとは実際に家に届く日がピークであとは緩やかな下り坂…。そう考えるとチョット複雑な気分だ。

 

第73回 初サッカー観戦 (2004/09/26)

ひょんなことから初めてのサッカー観戦の機会を得た。同じ職場ながら殆ど話したこともない人から突然「サッカー好きって聞いたんですけど」(前の職場の人からの情報だろう)、と。翌日のJリーグのチケットがあるのだが、行く人がいないという。どうせタダ券だし今のままだと誰も行く人がいないので…ということでありがたく2枚頂戴した。国立競技場で横浜Fマリノス対ヴィッセル神戸。券を貰ったのが試合前日の夕方、これから一緒に行けそうなヤツを探さなければいけない。サッカー好きでマリノスファンっていう適任者がいたが、仕事で行けないという。試合当日は高校時代の友人と飲む予定もあったので最も無難にその友人と行く事にした。

試合開始の14時とほぼ同時にスタジアムへ。国立競技場、思ったより狭い、古い。1番安い招待券自由席は左右どちらかのゴール裏。とりあえず近い入口から入ったらそこはAWAYのヴィッセル神戸側のサポーター席だった。横浜FマリノスがHOMEの試合で向かい側のサポーター席はマリノスのチームカラーの青1色で人の量も歌声も選手へのコールも凄い。一方我々が座った神戸側はユニフォーム着て一生懸命唄ったり選手の名前をコールしているのはごく1部だけ(数十人)でそれ以外の(我々も含めた)お客はゆっくりマイペースで観戦している。両チームの力関係だが、横浜Fマリノスは前期まで3連続優勝を果たしている日本屈指の強豪で日本代表・韓国代表など有名選手が沢山。一方ヴィッセル神戸は基本的に下位のチーム。戦前の予想通り前半から横浜がガンガン攻める。前半我々が観ていた席は神戸のゴール裏、つまり横浜の選手はコチラに向かって攻めてくるので実に観易かった。そして試合は横浜Fマリノスが坂田と安貞桓(アンジョンファン・韓国代表)の得点により2-0で前半終了(後のニュースで見ると安のゴールはJリーグが開幕してから通算9500ゴール目だったらしい、よく記録残ってたな)。普通に両者の力関係を考えると勝負は決まったようなものだった。

ハーフタイム中に向こうの方が面白そうだ、ということでサポーターがいっぱいの横浜側の席へ移動した。神戸側で観ていた時はゆっくり足を伸ばしながら観られたが、横浜側はぎゅうぎゅうではないにしろ結構混雑していた。しかしその分大歓声がすぐそこで盛り上りは全然違った。後半に入って試合は一変。反則か何かがあって選手が集まってなんか揉めてるなぁ…と思ったら審判がレッドカードを出して横浜側は1人退場に。我々の席から遠い所で起こった出来事だったので何が起きたのかよく見えず、こちらのサポーターも騒然。その後、神戸が幡戸のゴールで1点を返すと横浜は久保(日本代表)を投入。そしてその後、再び反則か何かがあって選手が集まってなんか揉めてるなぁ…と思ったら審判がレッドカードを出した。えぇ?!また?…と思ったら退場したのは久保。出てきてから10分くらいしか経っていない…ナニしに出てきたんだよ。レッドカードは1発で出た。しかしゴール裏からは遠くてどういう経緯で1発レッドが出たのかが分からない。横浜サポーターは大ブーイング。横浜側に座っていたので大きな声では言えなかったが友人と「これで面白くなってきたな」と囁きあった。そしてその後は神戸がPKのチャンス。決まれば同点になるPKをキーパーが止めた。その時の横浜側サポーターは点を取ったかのような大騒ぎだった。2人退場して9人対11人、横浜もよく耐えて守っていたがかなり豪快な和多田のミドルシュートで2点目を決められて同点にされた。その2点目が遠くから見ていても「オォッ!凄ぇっ!」というようなシュートだったのだが、横浜側にいたためにあまり派手に驚けなかった。結局試合は2-2の同点で終了。試合終了後はレッドカードを2枚出した審判に対するものと思われる大ブーイング。しかしその後に横浜の選手が客席前へ挨拶に来ると9人でまぁ良くやった、と思われる大歓声。なかなか暖かいな。後で調べると1発レッドカード退場はいずれも暴力行為だった。それじゃぁ仕方ないかな、やはり1発退場になるにはそれなりの理由がある。結局我々が神戸側で見ていた前半は横浜が2点を入れ、我々が横浜側へ移った後半は神戸が2点を入れた。横浜ファンの方、ゴメンナサイ。

初サッカー観戦にして国立競技場、3期連続優勝チーム、日韓代表選手、2-2というスコア、PK・PK阻止、レッドカード2枚…。0-0や1-0で終わる試合も珍しくないサッカーでこれは充分楽しめた。今後も適当な土曜の午後なんかに気軽に観に行くのも良いなと思った。1人で来ている人も結構いたし。帰りに正規の値段を見てみると最安の自由席が2000円だった。まぁ気軽に観に行くにはギリギリの値段かな。

 

第72回 倒産 (2004/09/20)

仕事を終えて家に帰ると母が私の元バイト先が倒産したと駅売店の夕刊紙一面に載っていたけど本当か?と聞いてきた。まさか、と思った。倒産するにしてもスポーツ新聞一面に載るほどの企業じゃねーだろ、と。しかし気になったのですぐにインターネットで検索すると…本当だった。民事再生法の適用を申請して受理され、事実上の倒産。大学卒業を機にバイトも卒業したが、当時のバイト仲間との付き合いは今も微妙に続いていて年に数回は飲みに行く。今も働いている後輩に会うたびに「店ヤバイですよ」という話はネタのように聞いていたがまさか本当に潰れるとは。

私が働いていた店は地元ではかなり古くからある店(調べたら20年以上の歴史があった)で私が小学校の頃から利用していた。そこでバイトを始めた理由の1つは昔からよく利用していた身近な店だったというのもある。今やすっかり賑やかになってしまった地元ではヨ○バシカメラ、ド○キホーテ、マ○モトキヨシ、ル○ネ、1○9…などの錚々足る顔ぶれの店舗が進出してくるはるか以前から営業していたのに…。特に前の3つは取扱商品が重なっていることもあったし、地元では完全に潰された形だろうな。倒産がニュースになって初めて知る事もたくさんあった。倒産のニュースが夕刊○ジの一面を飾るほどの会社だったということ、社員が400人近くいたこと、50年近くの歴史があったこと。情報によると平成13年1月期決算を境に売上減が続いていったという。私がバイト先を卒業したのが平成13年の2月…。そうか売上減の原因はソレだったか。

倒産のニュースを知ってからまだ付き合いのある当時のバイト仲間にメールしてみた。驚きもあったけど「あぁヤッパリねー」的な反応も結構あった。皆働いている時からそれなりに内情は知っていたから後付けの理由でならいくらでも倒産原因を語れる。それでもメールの最後には「倒産したことだし久々に飲み会でもやりますか」、となるのはやはり気楽なバイトだったからだろうな。残っている社員はどうするのだろうか、知っている人や世話になった何人かの顔が浮かんだ。アノ人なら大丈夫だろう、アノ人はどうすんだか…。民事再生法適用イコール即閉店、ではないだろうけど今後どうなることやら。なんらかの形で店は残っていて欲しいなと思う。何より大学4年間ずーっと続けてきたアルバイト。バイトではあったが私が初めて自ら選んで踏み出した社会への入り口だった所だし。

 

第71回 夏休み・北海道 (2004/08/22)

朝、夜も明けていない4時前に車で出発。東名高速から首都高に入り東北道へ。早めに出たのが幸いしたか1km程度の事故渋滞が数回あっただけでそれ以外は実にスムーズに進んだ。順調に進んだので途中で20年以上前に住んでいた岩手県花巻市へ。私が2歳の頃に初めて1人前のソバを食ったというソバ屋で昼飯。その他に父の希望で岩手県紫波郡にある「野村胡堂記念館」なる所へも行った。それ以降も道は順調で夕方16時には八戸に到着。途中で寄り道して所要時間約12時間、夏休みの時期にこうまで順調に東北道が流れるとは思わなかった。

八戸で1泊して8:45発のフェリーで苫小牧を目指す。大広間雑魚寝の2等船室では読書するかウトウトするかで過ごして15:45に苫小牧着。そこから祖父母宅のある倶知安へ。祖父母宅へ行く、という夏休み・北海道旅行のクライマックスはなんといっても祖父母と再会するシーン。祖母は元より、明治生まれで90歳を越えている祖父も2年前と変わらず元気そうで何よりだった。

北海道2日目は弟と2人で倶知安から車で1時間強の所にある小樽へ。小樽駅に着くと弟とは現地解散、個人で自由行動へ。平日とはいえ夏休み、有名な観光地だけあって観光客は多い。有名な小樽運河だが、もはや運河としての機能は果たしていないらしく水はかなり汚かったし観光地としての役割を果たすためだけの運河という感じだ。昼飯は海の幸を食べようと思ったがそうしたものは基本的に高価だったのでサッポロビール苑でジンギスカン定食。生ラムをその場で焼いて食う定食にコーヒーもついて780円と安価。帰りの車は私が運転することになるだろうと思ったが、それまで3時間以上時間があったので生中も一杯。生中も380円と安価、もっと飲みたかったが我慢我慢。今夏の記録的猛暑は北海道にも及んでいるらしく、思っていたよりも陽射しが強くかなり暑い。東京と違うのはそれほど湿気が無いということ。それでも数分歩くだけでかなり汗をかく。生中1杯はすぐに汗に変わって出たことだろう。レンガの建築物や街並み、ガラス館、オルゴール館…基本的に若い女性が好みそうな所だし観光客もそれが大半だった。

北海道3,4日目は弟と富良野へ行って1泊の予定。9:30に倶知安を出て小樽から高速に乗ってまずは旭川を目指す。渋滞などあるはずもなくノンストップで13時前に旭川着。旭川ラーメン村という有名ラーメン店が10件ほどが集まった観光地へ。昼飯時ということもあって殆どのラーメン屋に入店待ちの列が出来ていた。どの店で食うかを適当に判断してまぁ無難に美味いラーメンを食す。旭川を出て237号線を南下、美瑛経由で富良野を目指す。一面大自然的風景のなか車を走らせる。北海道は青空が綺麗な青をしているし遮るものが無いので東京の空よりも広く感じられる。なんというか空のスケールが違う。富良野の観光スポットの1つであるファーム冨田なる農場へ行ってみる。様々な花畑が整然と広がる農場。もっとも有名なラベンダーの季節は終わっているにも関わらず観光客はいっぱい。小樽でも思ったがここも若い女性が好みそうな所。綺麗な花にさほど興味が無い私としてはそれほど惹かれるところは無かった。夕方に富良野市へ。事前に予約しておいた駅の目の前にあるホテルへ。ホテルで小休止して富良野の駅前を歩いてみるが、ドラマ「北の国から」やラベンダーなどで北海道で最も人気のある観光地だという富良野の駅前とは思えないほど普通のさびれた田舎町といった印象。晩は弟と焼肉屋と居酒屋で飯食って飲んで終了。

北海道4日目、午前のうちに富良野を出て「北の国から」ロケ地として有名な麓郷へ。富良野駅前から車で思っていたより遠かった。かの国民的ドラマを1度も見ていない私は特に思い入れもなかったが、あんな田舎のあんな所にあれだけの観光客を集めるのだからたいしたものだ。小樽や農場では結構見かけた外国人観光客(韓国っぽいのが多かった)もさすがに北の国からスポットでは殆どいなかった。弟はドラマをビデオで借りて全て見たらしいのでそれなりに面白かった…のかな?既にドラマは終わっていてあと何年くらい北の国から効果で観光客を集められるだろうか。北の国からスポットを回ったことで予定は全て消化、帰路についた。行きと同じ道を通ったら面白くないので富良野を南下して占冠、日高、夕張を経由して札幌へ。日高という地名、あのチェーン店のラーメン屋と関係あるのかと思ってとりあえず日高でラーメンを食ったが、後で調べたらどうも関係ないらしい。職場への土産も買わなきゃいけなかったので札幌へ行ったが、街へ近づくと渋滞。やはり北海道の中でも札幌だけは格が違う、ここだけ都会だ。駅も最近改装したのかかなり立派な駅ビルがくっついていた。結局全体の2/3くらいは弟に運転を任せて、中北海道を巡るドライブは無事終了。

北海道5日目、倶知安から離れず高校野球を眺めたりしながら基本的にゴロゴロ。まぁ祖父母宅にいる時は何かをするというより、そこにいるというだけで意味があると思うから良しとしよう。

北海道6日目、当夜のフェリーで帰ることになっている。午前中に先祖の墓参りを済ませる。盆休みで帰省してきた従兄弟と数年ぶりに会う、お互い東京にいるはずなのだが…。帰り際、祖父はしきりに「今回が最後か…」と言っていたが大丈夫でしょう。2年前も同じこと言っていたし、その2年前と変わって無いように思えたし。酒も飲んでいたし揚げ物も食っていたし耳も遠くないし頭もハッキリしていたし90オーバーとはとても思えない。また来年、再来年でも良い、次に会うときまでお元気で。苫小牧を21時すぎに出るフェリー、ビール飲んで早々に就寝。今回は2等寝台、大広間雑魚寝の煩わしさがなくて良い。

早朝4時過ぎに八戸到着。トイレ休憩以外は止まらず適度に運転を弟と交代でしながら東北道を飛ばす。東北道は最後まで渋滞無しでスムーズ。首都高では多少滞ったがそれでも14時30分頃には到着。やはりこっちは暑い、この暑さが現実だ。非現実の約1週間、非現実にいたから社会復帰(?)はそう苦労しないかな。夜、TVのUターンラッシュが始まったとのニュースを酒飲みながら他人事として見る。我々はギリギリでそれに全く巻き込まれずに帰ってこられたらしい。行きも帰りも殆ど渋滞には悩まされずに済んだ。ちなみに総走行距離は2400km程だった。

 

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