日々是ネタ也
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第40回 1人暮しの日々 (2001/06/04)

新しい社会へ飛び込み、1人暮しを始めて2ヶ月がすぎた。仕事の方もとりあえずやることだけは覚えてきて、生活のリズムもなんとなく掴めてきた。時々イレギュラーで研修とかが入るので調子が狂うが…。入社して2ヶ月強で会議に3回参加、研修が2回、他店舗見学等も多数。一般的な企業がどうなのかは知らないが、ウチのこれは結構ハイペースで色々やっている方なのではないだろうか。

閑話休題、とにかくまぁ日々の生活のリズムと言うモノをここで紹介。朝は8時30過ぎに目覚ましがなるようになっていて、起きるのは9時前頃。9時20分過ぎに出勤して、帰宅は早ければ23時台、遅ければ2時3時なんて日もある。平均睡眠時間は6時間くらいだろうか。休日は週に1回、休みの前日の夜にだけ風呂に入る。それ以外の日はシャワーだけで済ます。何故に休みの前日だけ風呂に入るかと言うと、風呂の残り湯で洗濯をするためである。つまり洗濯は週に1回。こんな生活になることを見越してパンツと靴下は多めに購入してあるのでそれについては困るコトはない。

休日にすることといえば、まずは睡眠。確実に昼頃までは眠っている。その後は近所のスーパーを巡って1週間分の買出し。チャリで回れる範囲内でスーパーが4軒くらいある。どのスーパーに行くかのルートを決めておいて、どこで何が安いのかを事前調査して最も安かったところで買う。必需品なのはカップラーメン、牛乳、卵。この3品は外せない。イレギュラー的なものとして、野菜ジュースや発泡酒、缶チューハイなども購入する。ただ、これは保存がある程度効くものなので、安いと思ったら一気に大量に購入する。洗剤やトイレットペーパーなどのものもなくなりそうな少し前くらいから価格調査をし、まだなくなっていなくても安いと思えば即購入。ちなみにトイレットペーパーは月に1巻のペースでなくなっている。我ながらかなり経済的だと思う、トイレは可能な限り外ですることを心掛けているし。ちなみにスーパー巡りをするのは夕方17時頃からだ。時間が遅くなってくるとスーパーの惣菜コーナーに「半額」や「100円引き」などのシールが貼られる。それらを購入する為である。そして休日の夜には米を炊く。持っている炊飯器で炊ける最大量の米を炊き、残りは弁当箱大のタッパーに入れて冷凍保存。そして夜に余った時間があればこうしてホームページの更新が出来るというわけだ。

休日はそんな感じで過ぎる。睡眠と次の1週間に備えた買出し。睡眠も考えてみれば次の1週間に備えた体力温存だ。次の一周間の為に休んでいると言う感じで、自分の時間が持てる休みだとは思えない。新社会人にはとりあえず自分の時間なんていらないってか?

 

第39回 危ない食生活 (2001/06/04)

生まれて初めての1人暮しの日々を送り始めて2ヶ月がすぎた。とはいえ、休みは週に1日のペースなので家にいるコトは殆どない。家へは寝に帰るだけ、といった感じだ。朝の9時20分頃に家を出て、0時頃に帰宅。自炊などする気力はない。気が付けば、実家から持って行った本棚は、本棚のはずなのに本は1冊も入っていない。本棚の中には常時カップラーメンが置いてあり、コーヒーや調味料類、オカシなども無造作に置いてある。飯をつくるのは面倒なので必然的にカップラーメンが中心の食生活になっていった。

身体は正直なものである。乱れた食生活を始めて1週間後に口内炎ができ、大便が出なくなった。原因は簡単、野菜不足である。さすがにこれはまずいと思い、慌てて野菜ジュースを購入。4月後半に給料が出てからはカップラーメンのみの食生活を改め、カップ麺はできるだけ1日1食までにしようと心掛けた。1度はスーパーでニンジンを購入してみたのだが、3本パックのニンジンを食べきれず、1本は冷蔵の中でフニャフニャになっていたのでそれ以降野菜は購入していない。野菜を摂取したのと同じ効果があるのかは分からないが、とりあえず朝晩に野菜ジュースを飲むことを心掛けている。また、カップ麺を食うにしても生卵を落としてみたり、ゆで卵を入れてみたりと工夫もしている。

最近では米を購入して、飯を炊くことを覚えた。炊いた飯を冷凍保存ができるタッパーに入れて、それを仕事の休憩中にフリカケをかけて食うのだ。1日の食生活の流れとしては、朝9時ごろ牛乳を飲み、あればバナナを食う。昼12時過ぎには近くの弁当屋かコンビニで買った弁当。夜19時頃の休憩時間にフリカケご飯かコンビニで買っておいたおにぎりで軽食。そして0時頃家に帰ってカップ麺と発泡酒とオカシ、という食生活。それに毎朝晩の野菜ジュースが加わる。改めて自分で書いていてやばい食生活だなって思った。大丈夫かね、身体。とりあえず今のところはなんともないけど。

 

第38回 忙しき新入社員 (2001/04/25)

入社式を終えた翌日、朝のうちに地元を出て仙台へ。午後に仙台に着き、配属先の店舗へ挨拶に。その日は挨拶だけのつもりでいたのだがそのまま働くことになった。社員とはいえ何もわからぬ新入社員、店舗のことはアルバイトの人の方が詳しい。一から全てを教えてもらう。店舗が22時閉店、閉店後は店長と今後の予定などの話をし、その後は仙台にある他店舗へ挨拶に行き、仙台の他店舗の店長と新入社員とファミレスで飯を食ったりして結局帰宅したのはAM3時頃。初日からかなりハードだった。

2日目、朝からの出勤は初だ。9時20分過ぎに店舗へ行き(自宅から店舗までは徒歩30秒)、朝礼から仕事開始。基本的にずっと立っている仕事だが、これまでやっていたアルバイトもそうだったのでそれ自体はそれほど辛くはない。ただ覚えなければならないことがたくさんあるのが大変だ。基本的な仕事はもちろんのこと、それ以外にも売上や経費、目標とか数字の部分でも覚えなければならないことがたくさんある。店長と話をしていてもその辺りの話しはサッパリ理解できない。帰宅は当然0時過ぎ、どうやらこれが当たり前らしい。この日はなんと雪が降り、さらに積もった。3月も終わりというのに雪とは…

4日目、3月最後の日なので決算棚卸しが行なわれた。入って4日で棚卸し、そういえば大学時代に4年以上続けたアルバイトも入って3日後に棚卸しだった。どうやら私は棚卸しに縁があるようだ。22時の閉店後にスタッフ総出で商品の数を数える。3時過ぎにようやくそれを終えて一段落すると、同じ仙台にある他店舗の棚卸し応援に車で駆けつけることになる。その店舗での棚卸しを終えて帰る頃にはもう朝の7時だった。

7日目、ようやく休日を貰う。しかしその休日も区役所へ行き住民票を移したり、免許の住所変更をしたり、今後の生活の買い物をしたりといった雑多な業務に追われた。

13日目、入社して2週間も経過していないのに本社で行なわれる全社員が集まる今期の経営計画発表会に参加することになる。大勢の社員の前でまた新卒新入社員自己紹介。内定式、入社式の時よりも遙かに多い人数の前での自己紹介だ。同じネタで恐縮だがやはりここでも例の詩を言ってやった。大人数の前であの詩を朗読するのはちょっと気持ち良かったけどさすがにその後のダーは出来なかった。その後の懇親会で同じエリアの社員らと顔合わせ。ここでもまた自己紹介と挨拶、どうも1人1人に喋らせるのが好きな会社らしい。

20日目、入社して3週間も経過していないのに栃木で行なわれた損益会議に出席。何が何だか判らないままひたすらメモを取る。会議後に懇親会があり(懇親会も好きな会社らしい)、新卒同期や他の店長の色々な話を聞きかなり色々と刺激される。栃木で行なわれた会議なのでホテルで1泊。ホテルでは同期の新卒と集まって色々な話をした。最初は同期だけでワイワイ話していたのだが、途中から先輩社員が入ってきた。どうも先輩社員が来るとなんとなく会話が止まってしまう。先輩社員から「いいよ、続けろよ」って言われても別に愚痴ったり悪口言っていたわけではないのだけれどなんだかなー。

仕事内容自体はまだそれほどきついものではない。同じ時間を働くのであれば恐らく大学時代にやっていたアルバイトの方がきついと思う。もっとも現在の私はまだ仕事を覚えている段階だから本当のきつさを味わうのはこれからだろう。しかし働く時間が長いのと休みがないのはきつい。9時20分過ぎに出社して、帰宅は0時に帰れるかどうかというところ。働き始めてから29日間で純粋に丸1日休みというのは3日間。飯はコンビニ弁当かカップ麺。仕事を終えて帰宅して自炊しようという気にはなれない。なかなかハードなスケジュールだがそれでも自分の身体がなんとかなっているからたいしたもんだ。ぐうたら大学生活から一気に変化したのにまだ拒絶反応は起こしていないな。5月に入るとゴールデンウィーク中に研修が行なわれる。どうやら5月病になる暇もなさそうだ。

 

第37回 入社式 (2001/04/25)

式が続くなー、卒業式の3日後には入社式。スーツを着て本社へ行くと内定式の時に見たことのある顔がいて結構きさくに喋れた。入社式の前に健康診断を受ける。身長体重視力聴力などからX線、尿検査、採血まで。久々の注射はかなり嫌だった、注射なんていつ以来だろう…。

健康診断が終わるとすぐに入社式かと思いきや、たくさんの書類を書かされる。会社が取引している銀行に口座を開設したり、クレジットカードを作ったり、会社が契約している保険会社の保険に入ったり…。色々な書類に名前を書き、住所を書き、ポンポンはんこを押していった。大丈夫かね、こんなにポンポンはんこ押して。

集合時間から数時間後、ようやく入社式。入社式に先立ち、いきなり大声で唱和が行なわれたのでかなり驚いた。まわりの連中は入社前にアルバイトやインターンシップで働いていた経験があるから大声で唱和ができていたけれど、私なんかただ戸惑うばかりだった。偉い人のありがたーいお話を聞いて終わるだけの入社式ではなく、1人1人が自己紹介をする入社式。内定式の時とあまり雰囲気は変らなかったかな。自己紹介っていっても特にネタを考えていなかったので「ご記憶の方もおられるでしょうか、内定式の時にアントニオ猪木の詩を朗読したモノです。」で入って、後は無難にこなした。新入社員自己紹介の時に驚いたのが数人だけど大学を卒業できなかった人もいるということ。大学に通いながら働くというのだ。もし私が大学を卒業出来ていなかったら仙台から大学へ通うことになったのだろうか…

式後は当然懇親会が開かれ、飯が出て酒が出る。飲み食いの途中でも「誰々から一言頂きます。」とマイクを持って話しが始まるのでなんだかチョット食べ飲み辛い雰囲気。飲んで食って喋って同期10人以上の携帯電話番号を聞いた。恐らく最も携帯電話の番号登録数が増えた1日だっただろう。しかし数多く登録したので誰がどれだかさっぱり判らないのが難点だ。少し働き始めた同期から話を聞くと仕事はかなりきついらしい、気を引き締めてかからねば。

入社式を終え、隣駅の実家に帰宅。その翌日には仙台の自宅へ戻り、仕事が始まる。後で判ったのだが某テレビ局のニュース番組の取材が来ていた。帰ってそのニュース番組を見てみるとその日のうちに放送されていた。幸いなことに(?)私は映っていなかった。入社式を終えても社会人としての実感なるものが湧いてこなかった。あんまり角張った式ではなかったし。これからじわじわと感じてくるのかな。

 

第36回 卒業式 (2001/04/25)

引越し完了から僅か2日、大学の卒業式参加の為に早速実家に帰った。そうか、もうこれまで住んでいた家は「実家」になったんだな。ゴミだらけと化した主がいなくなった部屋に布団を敷いて寝る、なんか妙な感じだ。部屋に残っているのはゴミばかりなので部屋にいてもする事がない。祖父母の家へ遊びに行ったときに状況が似ている、何もする事がないので居間でただテレビを眺める。

卒業式当日、最後になるであろう大学へ向かう電車内には一見してそれと判るような連中がいる。男は基本的にスーツだから少々判り辛いが、女は晴れ着なのですぐに判る。学生として最後に来る大学はなんだかお祭り騒ぎ。大学構内の広場でブラスバンドが演奏していたり、卒業に関連した音楽が大音量で鳴らされていたり、何故か大学の校章などが入った大学グッズが売られていたり…。式場となる体育館前で友人と待ち合わせしていたのだが、そこも凄い人。成人式のように局地的に携帯電話が通じにくくなるなんてことがあるのではないかと思えた。

いざ卒業式、恐らく私はそこで初めて大学の校歌を聞いた。入学式の時にも聞いていたかな?覚えがないな。卒業式もどこかの成人式のようにざわざわ騒々しいのかなと思っていたが、さすがは卒業する大学生、式の最中はおもっていたよりも静かだった。それぞれの学科を代表するヤツが恭しく卒業証書を受け取る。我々の学科の代表者も何時の間にか決定されている。お前なんか知らねーよ、いつの間に我々の代表になってんだよ…。卒業式では学部ごとに成績優秀者に対して様々な表彰なども行なわれたが、そこで一際目だったのがシドニーオリンピックで金メダルを取った柔道の某選手。彼も我々と同年に卒業だったのだ。彼の名が呼ばれて彼が壇上に立ったときは体育館内がどよめき、あちこちでフラッシュがたかれた。式後もミーハーな卒業生らに記念写真をせがまれて代わる代わる写真を撮られていた。やはり金メダリストは凄いわ、芸能人みたいだった。

たいして面白くもなかった式はちょうど1時間で終了。ピッタリ1時間っていうのが凄いな、スムーズに進行していたということか。大学の卒業式というのは泣き場がない。中学や高校の卒業式とかだとお世話になった先生の別れの言葉なんかがあって、なんとなくこの辺りが泣くところだろうな、というのを感じることがあった(もっとも私は高校が男子校だったこともあって高校での泣き場はなかった)が大学の卒業式にはまったくそれがなかった。本当にただの「式」という感じがした。式後に学科ごとに教室に集まって1人1人卒業証書ならぬ学位記を受け取る。それを受け取るのも流れ作業で、学籍番号順に前へ行って学位記もらって成績証明書受け取って記念品受け取って…という感じでなんの感慨もなかった。アッサリした卒業式だったなー。最後に教授先生らが1人ずつありがたーい話しをしてくれたのだがそれも何だかアッサリしていて「卒業」という実感が湧かなかった。もっとも大学は小中高と違って行ったり行かなかったりするからあまり大学に対する帰属意識というのがナイのかもしれない。

卒業に関連した全ての行程を終え、解散。解散後数時間してからパーティー会場みたいな所で謝恩会を予定していたのだが、会費が5000円かかるので仲の良かった内輪の友人だけで居酒屋よりはチョット雰囲気が良さそうな店へ行って卒業お疲れ飲み会。乾杯後の第一声は「終わったなー」。これまでに学期が終わるごと、テストが終わるごと、ゼミ論・卒論が終わるごとに開催した飲み会でも乾杯後の第一声は「終わったなー」だった。しかし今回の「終わったなー」はそれよりももっと深い意味のこもった言葉だ。簡単だがとてもとても深い意味のこもった言葉だった、終わったな。

 

第35回 初めてのお引越し (2001/04/25)

就職に伴い、配属先が仙台に決定したので生まれて初めて家を出ることになった。子供の頃から父親の仕事の都合などで引越は数多く経験している方ではないかと思う。しかし自分の自分による自分のための引越しというのは初めての経験だった。荷物を整理し、ダンボールに詰め、要るものと要らないものとに分別。案外面倒臭い作業だと言うことがわかった。おまけに突然遠方への配属が決まったのであまり心の準備も出来ていなかったし、荷物の整理の前に気持ちの整理をしなきゃならなかった。新生活に向けてワクワクドキドキの引越しではない。どちらかというと「学生終わっちゃうな、ハァ」の気分だったのでますます引越しにかける力は弱くなってしまった。

私の部屋に多いものと言ったら本、CD、ビデオ。この3つで大勢を占める。そいつらをそれぞれダンボール詰め。私はなかなかモノを捨てられない人なのでどうでも良いようなものがたくさん部屋に溜まっていた。それらを一つ一つ眺めていてはいつまで経っても終わらない。引越し前日が休日だったこともあって父が箱詰め作業を手伝いに来てくれた。容赦なく「コレは要るのか、要らないのか?」と次から次へと尋問(?)してくるので面倒くさくなって次第にモノも見ずに「全部要らない」と言ってしまった。多分それらのモノを私が1つ1つ見ていたらなかなか終わらなかっただろう。引越をする際にはあまり自分の荷物を知らない人に手伝ってもらうのも良いかもしれない。心の迷いをすることもなく「要らない」という決断が下せるかもしれない。チョット惜しいような気もするがそうでもしないとなかなか終わらないだろう。ガランとした部屋はやはり寂しげ、ゴミだけが残った。

そして引越し当日、引越し業者が2トントラックで朝からやってきた。机、イス、コタツ、TV、ビデオ、コンポ、本だな、タンス、CDラック、パソコン、布団、洗濯機、自転車、ダンボール等々。次々と運び出して1時間もしないうちに全ての荷物をトラックに詰め終えた。ちなみにダンボールは合計で15個。引越し業者がトラックで引越し先へ向かい、私は電車で引越し先へ向かう。交通費が浮くので引越し業者のトラックに同乗させてくれないかと事前に聞いてみたのだが、「万が一事故が起きた場合に…云々」との理由で同乗は出来ないことになっているらしい。

引越し先の家に到着、まだ引越し業者のトラックは来ていない。何もなく、ガランとした部屋。その場で何をどこに置くかを頭の中でシミュレーション。私が到着してから30分後くらいに引越し業者到着。即座に荷物の運び入れを行なう。わりと早く運び入れ終了、案外時間はかからないものだ。ダンボールだらけの部屋、まずは何よりもテレビの配線をしてテレビをつける。その次にパソコンが正常に動くかどうかを確認、そしてコンポの接続。なんか直接生活には関係のないことばかりをしているような…

こんなもんかな、程度に部屋の整理をしてからチャリを使って家の近所と最寄駅付近を走った。やはり仙台は少し冷える。それほど寒くは感じなかったが東京に比べると空気が冷たかった。なのに帰ってTVをつけてみると地元の天気予報で「今日は暖かい一日でした」なんて言っていた、そうなのか、あれで暖かい一日だったのか…東北の寒さを感じた。事前に連絡をしておいたのでその日から水道と電気は使えた。但しガスだけは立ち会いが義務付けられているらしく、その日のうちにガスを使えるようにはならなかった。だから引越しで結構汗をかいたのにその日は風呂にも入れずに就寝。ベッドもないので床に直に布団を敷いて寝た、結構冷えた。

こうして初めての引越しは大きなトラブルもなく無事に終了。見知らぬ土地に一人で来て居るはずなのになぜかそんなに不安がなかった。それは何故かと考えてみたら少し答えが判ったような気がした。見知らぬ土地で1人だけど、言葉は通じるし、電車にも乗れるし、物価は判るし…そう、ヨーロッパに比べれば随分楽だと判ったのだ。やはりあのヨーロッパ旅行は無駄ではなかったのだ。ま、旅行のように気楽な生活がこれから待っているわけではないが…

 

第34回 アルバイト送別会 (2001/03/19)

4年と1ヶ月に渡って続けたアルバイト先で送別会が開かれた。今期で卒業に伴い辞めるのは私を含めて4人、その4人全員の送別会だ。自分が送られる側になる日が来るとは…

送別会には殆どの社員と多くのアルバイト、さらには現在は社会人となりそれぞれの道を歩んでいる元バイトの面々も参加してくれた。それだけの人数が集まってくれるのは凄く嬉しかったのだが難点が1つだけ。実に懐かしい顔ぶれが揃ったおかげで我々が主役の送別会のはずなのに、久しぶりに会ったその元バイトの面々に美味しい所をもっていかれたという感じだ(苦笑)

最後のバイトでは感極まって涙してしまったが送別会では皆でワイワイ飲んでいたので泣きのポイントがなかった。私にとっては3日後に仙台へ引越すことが決まっていたのであのメンツで飲むのは本当に最後だったかもしれないのに全然感傷に浸ることがなかった。まぁその分久しぶりによく飲んで、久しぶりに2次会のカラオケにも参加して、いつものように記憶がなくなって、翌朝は引越準備をしなければならないにも関わらず二日酔いになった。本当にあのメンツで飲める最後だったかもしれないのに記憶がないのはなんだか勿体無いな。もっと思い出に残しておきたかった。

銀行の預金通帳に残っているこれまでのアルバイト給与振り込み金額を全て足したら387万5710円だった。4年と1ヶ月のアルバイトで387万円。そして現在の通帳残高は約10万円、残りの377万円はどこへ消えたのだろう…。いずれにせよ、我ながらよく働いたものだ。

 

第33回 めっちゃ美味いラーメン? (2001/03/12)

元バイト先の友人から今夜は暇かと電話がかかってきた。暇だと答えると、皆でラーメンを食いに行くから一緒に行かないか、と。2つ返事でOKするとそのラーメン屋が板橋にあるから車を出せたら出してくれと言う。え、板橋?!ラーメン食いにわざわざ車で板橋まで?!半信半疑のままバイトが終わる頃の時間を見計らって車で元バイト先へ。

参加者はなんと7人、車2台に分乗して行くことに。どうも事前の話では「すげー美味いラーメン」なのだという。とんこつ?しょうゆ?何系なのか判らないとにかく美味いスープに、とろとろのチャーシュー。参加者7人中4人が既に1度食べていて、皆が大絶賛していた。ますます半信半疑のまま車で出発。ラーメンを食いに行く為だけに22時30分過ぎ、東名高速道路に乗り、首都高を走り、ラーメン屋に向かう。

ラーメン屋に着いたのは既に0時に近い時間だった。立ち食いの汚い店内、チャーシュー麺に卵を入れたのがお勧めというのでそれを注文(900円…奢ってもらったんだけど)。醤油ベースと思われるタレにトンコツかなにかの脂をタップリと。ものすごいコッテリした感じのスープに麺、チャーシュー、味付け卵が…。いざ食す、フム、美味い…たしかに独特のコッテリ感にとろとろチャーシュー。かなり脂っこいスープ、極端に好き嫌いが別れそうだが私は美味いと思った。美味かったけど、大絶賛するほどの美味さではなかった。はぁ、まぁ、美味いわな、ウン確かに美味い。という感じの美味さだった。

食い終えて店を出るとビックリ。以前にも1度食っていた人は「あぁ、やっぱりここのラーメンは美味いわー。」と言い、今日初めて食った人達は「本当に美味かったー。皆の言っていた通りですよ。」「美味かった、感激だ。」などと言う。えっ?そうなの??いや、確かに美味かったけどさ、美味かったけど、そこまでだったかなー。…と思うのだが皆が絶賛しているから何も言い出せないというか、自分の味覚がズレているのかもしれないと一瞬だが本気で思ってしまった。そうかー、そんなに美味いラーメンだったのか、はぁ。ウン、まぁ確かに美味かったけどさ、美味かったと思うけど(←なんかそればっかりだな…)。イヤ、美味かったよ、ウン…

 

第32回 ビール工場見学 (2001/03/12)

友人の企画で某ビール会社の工場へ見学に行くことになった。費用は一切無料で最寄駅からは送迎バスまで出ているという。平日の昼間ということもあって、送迎バスはガラガラ。私と友人の3人と、もう1つのグループがあるだけだった。

送迎バスに揺られること5分ほどでビール工場に到着。受付ロビーには過去に販売されたビールの紹介やCMなどが流されていた。14時30分から見学ツアーの開始。まさに観光地のツアーそのものといった感じで、若い女性のガイドさんがスピーカーを持って工場内を案内する。送迎バスに乗っている人は少なかったのだが、実際のツアーの参加者は全部で20人弱、我々のように若い(?)グループが2組6名、それ以外は全ていわゆる熟年世代。定年そこそこといった感じのおじ(ぃ)さん、おば(ぁ)さん。

始めにスクリーンで麦のイメージビデオのようなものを見させられてから工場見学開始。ビールの主原料である麦とホップの説明を受け、仕込釜や貯蔵タンク、ろ過装置、ベルトコンベヤーでの缶詰作業などを見学。ガイドさんが丁寧に色々説明してくれる。なんだか社会科見学のようだ。一通りの行程を見終え15時10分、見学はおよそ40分間で終了。その後がお待ちかねの試飲タイム。数人の若い女性が生ビールを注いでくれ、皆それぞれに入れたての生ビールを貰う。部屋の中には大きなテーブルがいくつか並んでいて、その上にはご丁寧におつまみまで置いてある。しかもビールはおかわり自由。ガイドさん曰く「ツアーは15時30分に終了なのでそれまではご自由におかわりして頂いて構いません。」とのことだ。コップを持っていくと新たにビールを注いでくれる。ビールと発泡酒、そしてソフトドリンクもあった。実質およそ15分ほどの間にがんばって(?)4,5杯飲んだ。飲んでいる間にもガイドさんがビールに関する様々な質問を受けたり、ビールの美味しい注ぎ方などを教えてくれた。すっかり気分が良くなってビール工場見学終了。帰りもバスが駅まで送ってくれる。とりあえず4,5杯飲んだから電車代の元は充分に取れたな。

それにしても無料であそこまでやって…。企業イメージを良くするためのPR、どうも判らない。無料で送迎バスにビール飲み放題、おつまみ付き、まさに至れり尽せりだった。そこまでやるもんなのかなー。

 

第31回 最後のアルバイト (2001/02/26)

1997年2月、まだ高校生だった時に始めたアルバイト、その最後の日が訪れた。大学卒業・就職に伴う定年(?)退職。丸4年と1ヶ月、我ながらよく続いたものだ。前日に、会うのはその日で最後となる仲の良かった後輩から「こういう日が来る事は分かっていましたが、本当に来るとは思わなかったですよ。」と言われた。私もまさにその思いだった。大学生活と平行して4年間、確実に生活の一部と化していたアルバイト。卒業に伴って辞める日が来るなんて…確実に時は流れていた。

開店から閉店まで、給料日後の日曜日ということもあってそれなりに忙しい。その忙しさも今日限り。昼休憩時には社員さんが弁当を奢ってくれ、夕方の休憩時にはバイトの後輩にジュースを奢ってもらう。今日ばかりは一銭も持っていかなくても良かったようだ。昼休憩時には売り場も違ってあまり話すことも無かった社員さんから餞別を頂く、その気持ちがとても嬉しい。

営業時間も終わりに近づいた時、レジに入っていて思った。"レジから売り場の風景を見るのは今日で最後なんだな"。明日以降店に来ても売り場を見ることは出来るが、レジから売り場を見ることはもうないだろう。いつも通りの忙しい日曜が終わり、とうとう閉店作業。この閉店作業を終えると私のアルバイトが全てが終わる。閉店作業の最後の仕事、それは4階の倉庫にある荷物を地下1階へ降ろすこと。地下1階に荷物を降ろす、その仕事を終えた瞬間にフロアーから拍手が…。その時地下にいた一部の社員さんと今日入っていたアルバイト全員が皆で「お疲れ様でした」と拍手をしてくれたのだ。こんな形で迎えられるとは。とっても嬉しいが同時にめちゃくちゃ照れ臭い。「地下フロアーの皆からです。」と餞別を渡される。驚きと同時に嬉しさ、ここまでしてくれるとは…。地下から1階へ上がり、1階にいた社員さんに挨拶。そこでもお世話になった社員さんに「就職祝だ。」と餞別を頂く。地下の時点でかなり感極まっていたが、他のアルバイトや社員さんも結構いたので頑張って耐えていた。着替えをする為にエレベーターで4階の休憩所へ向かう。そのエレベータ内で1人になったときに思わずこみ上げてきそうだったモノを必死に耐えた。

着替えてを済ませてロッカー内を整理。いつも汚かったロッカー内に何もなくなった、改めて終わりを実感。最後に1階に戻り、店長やお世話になった社員さんらに改めて挨拶。殆ど同じ時期に入った同じ歳の社員の女の子に挨拶。笑顔で終われると思ったら彼女が涙を流してしまった(よく泣く子なんだけど…)。それを見て私もためていた涙が抑えきれずに溢れ出して止まらなくなってしまった。シラフで泣いたのなんて実に久しぶりだ。小中高の卒業式等では勿論泣いたことなど無かったのに、アルバイトの卒業式(?)で涙してしまった。寂しかったのもあるが、嬉しかったというのもある。最後の仕事を終えた時の皆からの拍手や餞別、暖かい言葉や涙。そして自分も涙していることに気がつき、改めて自分はこのバイト先が好きだったんだなというのを実感して、それを実感したがために辞めることが寂しくなる…というような循環により涙が止まらなかったのかな。こんな感情は初めてではないだろうか。

涙を流すというのは結構気持ちが良い。家に帰って部屋で1人自主送別会を開催。この時ばかりは携帯の電源を切り、一人の時間に浸った。4年間の思い出を肴に酒を飲み、静かにまた涙した…。

 

第30回 お一人様○点限り (2001/02/20)

日替わりの特価商品などに掲載されるこの言葉、「お一人様○点限り」。私のバイト先でも先日、その日限りということで原価を完全に割った大幅値引きをして店頭でシャンプーや石鹸、洗顔フォーム、歯磨き粉などの日用消耗品を売り出した。売れば売るほど赤字になるくらい安く売り出したのだ。それを「お一人様2点まで」とした。私のバイト先は結構いい加減な所があって、本日限りの特価を何日も続けてやったり、何日間もタイムサービス特価をやったりしていた。これまでもお一人様○点までというのをやったことはあったと思うがそれも別に便宜上書いているというだけだった。しかし今回は社員さんから1人2点というのは徹底してくれ、と言われた。お客さんが1人2点というのを無視してレジに持ってきたら「申し訳ありませんがお一人様2点までとなっております」と言ってしまって良いというのだ。そこまで徹底してお一人様○点限りと言うのをやったのは初めてだったので少し楽しかった。

そして実際にその特価商品をお一人様2点までとして店頭に出した。予想通り文字通り飛ぶ様に売れた。大方のお客さんは2点までの表示を守って2つしか持って行かない。だけどやはりいた。夫婦で買い物に来ていて4つの商品を持ってくる人。小さな子供を連れたお母さん、4つの商品を持って「この子の分ね?イイ?」と言う。子供にお金を渡して並ばせる親。別にそれは構わないことになっていたのだが、そこまでするのかという感じだ。他のドラッグストアーのチラシに「一家族様○点限り」というものを見た。これはつまり夫婦での買い物や「この子の分ね?イイ?」というお母さん対策だろう。ところがやはりこれもややこしい。例えば20代後半くらいの男女2人連れ。果たして夫婦だろうか恋人同士だろうか。夫婦だったらこれは「一家族」だが、カップルだったら家族とは言わないし、微妙だ。「一グループ様○点限り」というのでもグループの基準が曖昧になるし…。理想的かつ徹底した「○点限り」というのはどんなのだろうか。

もっとも今回のバイト先の場合は同業者が特価商品をケース単位で大量に買っていって、それを他で転売されるのを防ぐ為の「お一人様○点限り」だったのだが。

 

第29回 卒論口頭試問 (2001/01/18)

私の学科では卒業論文を提出して終わりではない。卒論の内容についての口頭試問があるのだ。口頭試問の担当教諭は、卒論指導教諭とは違う。つまりまったくの第3者的立場の教授先生によって行なわれるのだ。口頭試問が通らなければ卒業論文も通らない。そのハードルをもクリアーしなければならないのだ。

新年・新世紀初の大学登校日が、卒論口頭試問の予行演習日となった。しかし12月の2週間以上にも及ぶ卒論ウィーク。それから開放されて以来、卒業論文には見向きもしていなかった。口頭試問があることは当然分かっていながらも、手を出しかねていたのだ。卒論口頭試問予行の当日になって久々に卒論のファイルを開く。あぁ、思い出してきちゃった…あの卒論ウィークを。自ら2週間ちょっと前に書き上げた卒論なのに、なんだか遠いもののように思える。そういえばこんなことも書いてたわー。そんな感じでなんとなくまとめて卒論口頭試問予行。案の定と言うか、指導教授センセイにあれやこれやと指摘されてアッサリ撃沈。結局もう1度まとめなおしてくることとなった。

2度目の口頭試問予行演習日は本番の前日。さすがに前日ともなると、指導教授センセイも鋭いツッコミを入れてくるわけではなく、アドバイスや巧い逃げ道(?)を指導してくれる。センセイの話を聞いているとただただ恐れ入るばかりだ。結局「こういう流れで言えば、本文の内容とも矛盾しないし、大きく突っ込まれることはないだろう。」という妥協案が成立。さらに「いざとなれば俺がその方向に誘導していくからそのつもりで。」という心強いお言葉も頂き、いざ口頭試問本番当日を迎えた。

私は口頭試問午後の部。予定時刻に行くと待合室と化したゼミ室にはゼミ仲間がいっぱい。既に口頭試問を終えた人とこれから行なう人。既に終えた人の話を聞くと思ったほどは突っ込まれない、と言う。ところがところが、同席していると思ったセンセイがいないと言う。ナニー!?どうやら午前中は少しいたらしいが、会議が入って途中からいなくなったと言う。"誘導してくれるんじゃなかったんですかー、センセー"多少の焦りを感じながらも、口頭試問用の原稿と睨めっこ。内心かなりいっぱいいっぱい。

さぁいざ私の番。口頭試問担当教授が細かいことは良いから問題意識と結論だけ言ってくれ、と。結局用意していた原稿の半分くらいしか言えなかった。とりあえず重要だと私が位置付けたところだけを簡潔に伝えた。そして来ました、口頭試問担当教授からの攻撃が…。論文の内容についてのツッコミというよりは、アドバイス的要素が強いと感じた。私が使ったテクニック(?)として、先生が何かを言う、それをフンフンと聞きながら「それはコレコレこういうことですよね?」と表現を少し変えて相槌を打つのである。そうすることによって調べてきてるぞってコトをアピールしたつもりなんだけど…伝わったかな?

それほど手応えもダメージもないまま口頭試問終了。他のゼミ仲間の話を聞くと皆その程度っぽいからどうにかなったかな。これにて卒論関係の行事は遂に全て終了。人事を尽くして(尽くしたかな?)天命を待つ。あとは結果が出るのを待つだけだ。いよいよ大学も終わりだな。

 

第28回 初雪の気持ち (2001/01/07)

初雪が降った。バイト先でかなり冷えると思っていたら雪が降ってきたのだ。それまでは寒くてたまらなかったのに、雪が降り出すとなんだかワクワクしてテンションが上がり、寒さも少しだけ紛れる。心の中で"雪が降るほど寒いんだ"と覚悟を決められるのかもしれないが…。

雪が降るとなぜかワクワクする。そして皆に教えたくなる「雪降ってるぞー」って。それをバイト先で年配の人に言ったら嫌な顔をして「帰るのが大変だなー」と、言った。ワクワクする気持ちよりも、大変だと言う気持ちの方が強かったのだ。私と年齢が近いバイトや社員は「雪はやはりワクワクする」と言う。しかしそれは雪が少しは珍しい東京近郊の人にとってだけなのかもしれない。では雪国で育った人は初雪に対してどう思うのだろうか。バイト先にいる雪国出身の人たちに聞いてみた。「雪国でもやっぱり初雪ってなんだかワクワクしました?」と聞くと、全員が「初雪はやっぱりワクワクした」と答えた。そして「では今日もワクワクしたか?」と聞くと、皆年齢が近かったこともあってか今日の初雪でもワクワクした、と答えたのである。やはりそうなのである。雪を見慣れている雪国の人でも初雪はワクワクするのだ。

バイト後、家に帰って私の一番身近にいる雪国出身の人である父にも同じ質問をしてみた。するとやはり「雪国でも初雪はワクワクした」と答えた。「じゃぁ今日もワクワクしたか?」と尋ねると「いや、もう煩わしいとしか思わない」と答えた。初雪に対してワクワクできるというのは若い証拠なのかもしれない。どの年齢辺りから、その気持ちが変わっていくのだろうか。バイト先での簡単な調査では30代前後くらいではないかと推測したが…。初雪に対してネガティブな感情しか持てなくなったとしたらそれは寂しいな。

 

第27回 寒いよ、馬鹿ヤロー!! (2000/12/27)

賢明な(?)読者諸君は覚えているだろうか。「日々是ネタ也」の20回目。アルバイト、真夏のクソ暑い日に1人でクーラーも効かない店頭で仕事をしていてそのことに対して社員に対して怒りをぶつけたネタを…。今回も危なかった、危うく同じ過ち(?)を犯していたかもしれない。その20回目のネタの反響では「切れちゃえよ」という意見もあったが、今回は辛うじて我慢した。

コトの顛末は前回と全く同じ。ただそれが暑いか寒いかというシチュエーションの違いだけである。空は晴れていたが冷たい北風が吹きつけて体感温度はかなり低かった。気が付けば暖房の効かない(届かない)店頭にいるのは私だけ。このままこの状況が続けばやばいなー(気分的にかなりイライラしてきそうだった)、と思っていたがようやく1人の社員さんが気を利かせて(?)店頭に出てきてくれて一緒に仕事をしてくれた。それで気分的にはかなり楽になったがしかしそれでも腹の立つことは尽きない。

まず、店頭の寒い所から見ていると店内に暖房が効いているのが一目でよく分かる。温風で空気がモヤモヤしているのがハッキリと確認できるのだ。それは外と中の気温差が激しいほどハッキリ見えるからたちが悪い。それに加えてチョロっと店頭に出てきた社員の無責任な発言、「寒くない?大丈夫?」などと言う。「めちゃくちゃ寒いよ、全然大丈夫じゃねーよ」、と思うのだが言えない。それを言って「じゃぁ中で暖まりなよ」という言葉や「休憩行っていいよ」という言葉に従うのが嫌だ。なんか負けを認めているというか、それで納得しちゃダメだなって思ってしまう。ひねくれてるかな?ひねくれてるな。それよりも何よりも腹の立つのが1階以外にいて外気の影響を全く受けないフロアーの輩がたまぁーに店頭に来て洩らす「うわぁー、寒ーい。」という無責任な言葉。そして急々と自分の暖かーいフロアーに戻って行くコト。「こっちは寒い中でずっとやってんだー!冷やかしなら来るなー!冷やかされなくてもこっちは充分冷えてんだー(意味不明)!考えてモノ喋れこのやろー!」

しかし夏の暑さに比べて冬の寒さの方が怒りづらい。暑いとイライラが募ってドーン!と切れる(この言葉はあまり使いたくないのだが…)ことが出来る。しかし寒いとどうもそれをやる気力すら寒さで萎えてしまうのだ。腹が立つことよりも寒い、ということが勝ってしまう。まったくいつまでこのような状況が続くバイト先なのだろうか…。

 

第26回 卒論ウィーク (2000/12/19)

大学生活の集大成、卒業論文。いよいよそれを書かなければならない時期がきた。卒業論文A4、1200字20枚。漠然と書こうと思っていたテーマはあった。しかし先生とその話をするたびに、先生に色々とテーマについて突っ込まれるたびに軌道修正していった。

卒論提出日が12月の半ば。12月は前半の2日間だけバイトをして、それ以降はひたすら卒論に徹する卒論ウィークとすることを決めた。卒論提出の11日前から本稿を書き始める。1日2枚書いて提出日前日に仕上げる目算だった。1日2枚だからたいしたことのないように思えた。しかしそうではなかった。ただ書けば良いっていうものではない。あとのコトを考えて書かなければならない。なかなか思うように書けないものだ。パソコンの前に向かいながら思うように書けない苛立ちが募っていった。

やる気にも相当波があって、「なんとななりそうだなー」って楽観的に思っていてもいざパソコンに向かうと「もう無理だー、書けん」って思ってしまう。とりあえずその日のノルマである2枚を書き上げて布団に入っても頭の中は卒論のことばかり。あぁでもない、こぉでもない…形にならない考えが頭の中で堂々巡り。スンナリと眠りにつけた日は殆どなかった。朝も「起きたら卒論やらなきゃいけない」と思うとなかなか布団から出ることができずにダラダラと時間の浪費。だんだん自分で何を書いているのか分からなくなってくる。ただ漠然とパソコンに向かい、目はディスプレイではなく本を見ていてひらすらブラインドタッチでキーボードを叩き続ける。当初のうちはどうやって20枚分ページを埋めようかとそればかり考えていた。そして改めて書いたものを見直してみると、前後の文と巧くつながらなかったり、論旨がずれていたりした。

卒論提出日の2日前に先生に見せに行くがあまり手応えがない、ここへ来てまた若干の軌道修正をせざるを得なくなった。図書館へ向かい、新聞の縮刷版を見てめぼしいところを片っ端からコピー。どうにかこうにか書き上げて卒論提出日に間に合わせた。しかし、提出日にもかかわらず最後のOKが出ない。私だけではなく、まだOKが出ない人はたくさんいたが…。とりあえず卒論を先生に預けて、様子を見てみるという。その日の夜はかなり憂鬱だった。OKがまだ出ない、そして卒論を先生に預けたのですることがなくなってしまった。どうなるんだろう、という不安だらけだった。その翌日、先生に会いに行くと4年生は誰もいなかったのでゆっくりと卒論の話をすることができた。とりあえず内容は良いが構成を変えてみよう、と。なんとか適切なアドバイスを貰い、ようやく終わりが見えてきた。しかし既に卒論が終わっているものだと思ってアルバイトの予定を入れてしまっていたのが痛かった。10時間ほどバイトしたあとで家に帰って卒論をやるのだ。バイトの休憩中にも卒論を持っていって誤字脱字等のチェック。思ったよりも出てくる。毎晩遅くまでかかってどうにか仕上がった。毎朝の新聞配達のバイク音が聞こえる時間まで起きていた。

そして2度目の最終提出。これが思ったよりもアッサリと通ってしまった、ちょっと拍子抜け。1度先生に卒論を預けて内容はだいたい見られて分かっているからスンナリOKだったのだろうか…。何にせよ、終わったのだ。卒論を提出する際には卒論提出書みたいなものを書いて先生に割印を押してもらう。ちゃんと学部学科のハンコも押してあり、「確かに卒論を提出しました」みたいな証明書である。その証明書を書いているときに終わったんだなーという達成感に浸れた。

卒論ウィークとしながらも結局2週間かかってしまった。この2週間は毎日パソコンがついていたし、毎日頭の中に卒論がはびこっていたし、何冊もの本を読んだし、まさに大学生活の集大成だったと言える。卒論本稿を書き始めるだいぶ前から借りていた図書館の本は返したその場でもう1回借りるというのを何回繰り返したことか。ようやく図書館の本も返せる。卒論を書いたワープロソフト、WORDにはこれまでの総編集時間を知ることができる機能が付いている。
総改訂数56回、総編集時間1581分

 

第25回 これが日本社会なのか… (2000/11/27)

バイト先の社員の人と飲みに行った。社員の他にもう1人、バイト先の店舗が入っている建物で働いているオジさん(同じ建物で働いているので少し親しい)が飲みに行こう、と誘ったので行くことになったのだ。以前にも社員さんだけとは飲みに行ったことがあったが今回のようなケースは初めてだった。

ショックだった。話すこと話すことが私の常識から外れている。私は来年は社会人になる、「お前よー、社会人になればなー、こんなこと普通なんだよ。」「上司からアレコレ言われ、部下からもアレコレ言われ、色々大変なんだ。」「上役に言われればそれが絶対なんだ。」「俺のこんな愚痴なんかましな方だよ、社会に出たらなー云々」。なんというか典型的な"酔っ払いオヤジの愚痴"ってやつだ。「俺の頃はこうだったよー」と上機嫌で話す。私は笑顔でフンフン適当に頷いていると「お前は今、笑って聞いているけどよ。笑って聞いているなんざー真面目に聞いてない証拠だからなー、俺の頃だったらぶっ飛ばされてるよ。」などと言う(まぁ真面目に聞いていないというところは当たっているが…)。

古い、旧体質の考え方だ(…と少なくとも私は思う)。実際にそうなのかもしれない、しかしそれを敢えて口に出して言うところがいかにも古いしそれで現実を味わわせてやろうという腹づもりかもしれないが、不愉快でしかない。しかしそんな愚痴話よりもショックだったのは一緒に飲んでいたバイト先の社員の反応だ。私と年齢がそう離れていない社員なのにその人の話しを聞いて相槌を打ち、「いやぁ、さすがですね」などと言っている。それは本音なのだろうか。本音だったら救い様がない。"こんなもんなのか…"これが日本社会なのか。本当に言いたいことを言えない、思っていることを口に出せない、腹の中で押し殺しているだけ…。その小さな飲みの席で現実の社会を垣間見たような気がしてしまった。そして気が付けば自分もそうだった。自分の父親ほどの年齢の男の時代遅れとも思える愚痴を聞いて腹の中では「違う」と否定しながらも何も言えずにフンフン聞いている。飲み会のあの場にいて、「違うよ、そんな考えはおかしい。私はこう思う。」そう思える場面が何度も何度もあった。しかしその飲みの場、一緒に飲んでいた人たち、雰囲気、色々な要素が絡み合ってそれを言うべきではないと自ら判断してしまっていたのだ。そのコトに気がついた瞬間、「あぁ結局自分もこの日本社会の立派な一員になってしまっている。」と痛切に感じた。いや、そういうことに疑問や反感を覚えるだけまだましかもしれない。

その帰り道、自分に対してやり場のない憤り、悔しさ、寂しさを感じた。なんなんだ、この気持ちは…。しかしいずれそういうことに対してなんの疑問も持たずに自分もそうなってしまっている日が来るのかもしれない。限りなく近い将来、もうレールは敷かれた、私も社会人になる。この気持ちを大切に持っているべきなのかどうか…。今の私は持っていたいと思う、それが社会人としてマイナスであれども。

 

第24回 異物混入! (2000/11/27)

某大手乳製品メーカーの不祥事に始まり、とたんに全国で溢れ出した食品にカビや異物が混入していたというクレーム。ポテトチップスの中にトカゲの死骸だとかパンの中に虫だとか。異常だとも思えるほど日々新聞の社会面の欄にそうしたニュースが取り上げられていた。一気にこんなにも異物混入のクレームが増えるものかと不思議に思った。これまでにも若干そういう事例があったのだけれどもいちいち消費者が騒ぎ立てしていなかったのが、今回の一連の騒動をきっかけに表に出ただけだと思っていた。

ところがなんと異物混入ブームが過ぎ去ったと思われた先日、我が家でも発生したのである、異物混入。我が家での平和な夕食後の一時。母がお茶を入れたからと、お茶菓子に栗蒸し羊かんが出された。私は新聞を読んでいてお茶は飲んだが栗蒸し羊かんにはまだ手をつけていなかった。すると何やら弟が騒ぎ出した「ゲッ、何だこれ。」母も呼応する「いやだ、ナニ?」。私も何事かと思い新聞から目を上げてソレを見てみた。なんとソレは蛾だったのだ。弟が羊かんを食おうとフォークで切ったその間から蛾の死骸が現れたのだ。羽を含めて2〜3cmはあるかという見事な成虫の蛾だったのである。しっかりと蛾の羽などに羊かんのアンコが付いていて確実に羊かん内にいたと思われる痕跡が残っていた。

あまりの出来事にしばし呆然、しかし次にとった行動は勿論クレームの電話である。羊かんのパッケージに製造元の電話番号が記載されていたので即座に電話。20時前だったのでもう誰も出ないかと思ったが相手はすぐに電話に出た。
私・「言いにくいのですが、お宅の栗蒸し羊かんに蛾が入っていましてですね…」
と切り出すと担当者に変わる、と。すぐに出た担当者に蛾が入っていた経緯を説明すると即座に
「それは申し訳ございませんでした。ただちに回収に伺いますので。」
とのことで家の住所を教えて翌日回収に来ることになった。

ほぼ時間通りに家に現れたのは初老のおじさん。この度は誠に申し訳ございませんでしたー、と玄関を開けると同時に謝りだした。名刺を渡されるとそこには「専務取締役」の文字。専務?!ひたすら謝るそのオジさんはとても専務には見えなかった。蛾入り羊かんを見せると「工場では虫など入らないように万全の注意を払っているのですが…」と多少の言い訳はしたもののハッキリと蛾の羽に羊かんのアンコが付いているのだから言い逃れは出来ようもない。羊かんの代金とお詫びの品(煎餅の詰め合わせセット)を置いて行った。ずーっと謝り通して嵐のように去って行ったという印象を受けた。

私がこれまで生きてきて食べ物にこのような異物混入があったのは初めてだと思う。異物混入ブーム(?)はただ消費者が敏感になっているというだけではないのだろうか。それにしてもその羊かんの製造元の食品会社はどうするつもりだろう?しっかり調査するのだろうか。もしも私が電話をかけたときにその食品会社に誰もいなければ、その羊かんを売った小売店へ電話をするつもりだった。そうなればもっとコトが大きくなってその食品会社は危なかったかもしれない。それをしなかっただけでもその食品会社はありがたく思ってもらわねば。友人にその話をしたら、それは巧くやれば金になったな、と言われた。確かに巧くやれば金になったが下手したら犯罪だ。それにしても、これじゃ栗蒸し羊かんじゃなくて栗虫羊かんだな…。

 

第23回 大学の近くの入浴施設 (2000/11/27)

先日、私の行っている大学の近くに入浴施設が完成した。温泉を引いているらしく銭湯というよりはだいぶお洒落な感じでクアハウスと言った方がしっくりくる。大学の最寄駅から大学まで歩いて行く道の途中に完成。開店日前には大学の最寄駅から30分ぐらい離れている私の家にもオープンを知らせる折込チラシが入っていたから結構力を入れているようである。その施設の前にはそこそこ大きな厚生病院があり、そしてそのすぐ近くには老人ホームもある。そして大学、である。

いったいその入浴施設に来る客層はどんなんだろう?部活が終わって汗を流しに来る体育会系の学生、大学の近くで1人暮しをしている学生、そして近くの老人ホームの老人、目の前の厚生病院に入院(通院)する病人…。なんか妙な客層になるような気がしてならない、違和感あるだろうな。1度行ってみたいような気もするが、風呂上りの着替えを持って大学へ行くのもなんか嫌だし、風呂上りに電車に乗って帰るのもなんだかなー。かといって車でわざわざ行くのも馬鹿らしい。結局行かずに卒業してしまいそうだ。

 

第22回 内定式 (2000/10/23)

遂に来てしまった内定式。内定式前日から体調が悪くなり、内定式当日の朝には熱まで出てきた。登校拒否児が学校へ行こうとするとお腹が痛くなったりするのと同じ症状かな。就活を終えて4ヶ月以上、実質の活動を終えておよそ5ヶ月。久しぶりにスーツを着ることになった。外は雨が降っていてさらに内定式へ行く気を失せさせてくれる。

さて、内定式。自分の名前と大学名が書いた名札を受け取り、会議室のように四角く並んだテーブルの好きなところへ座る。テーブル上に資料が置いてあり、内定者一覧がある。今期はかなりの人数を取ったようで同期となる人達は全部で80人ほど。内定者一覧にはインターンを経験している人やアルバイトをしている人なども掲載されている。それを見ると半数以上の人が何らかの経験を積んでいる。何もやっていない私はなんか窮屈だなー。テーブル上の資料には内定式式次第も置いてあった。それを見ると"内定者自己紹介(各1分)"なるものがある。自己紹介!聞いてないぞ、そんなの…と思いながら内定式が始まった。

歓迎の言葉に続いて社長のお話、そして内定者自己紹介だ。内定者自己紹介(各1分)となっていてもどうせ皆それほど喋らないだろうと思ってたかをくくっていた。そしたら最初の人からなんだか結構喋る。どこどこでバイトしていますだとか、なんのスポーツやってますだとか、趣味はなになにですだとか…。思ったより真面目に皆がやっているのを見て焦った。やばい、何か考えないと…。ぶっつけ本番で思いついたことを適当に言おうかなと思っていたのだがそうもいかなそうだ、それだと間が持たなそうだということで他人の自己紹介中に何を喋るか考えていた。
"今日が雨だったこと・スーツを久々に着たということ・同期となる内定者の多さに驚いたこと・内定者一覧を見てインターンやバイトをしている人の多さに驚いたこと・その中で自分は何もしていないこと…ネタはこれくらいかなぁ、あっ!肝心なことを忘れていた、プロレスファンだ。これをアピールしない手はない"
色々と頭の中でシミュレーションしながら遂に私の自己紹介、マイクを受け取った。

「某T大学の紘之です。5月頃に就職活動を終えてしまっていたので今日は実に5ヶ月ぶりくらいにスーツを押入れから出しまして、そしたらスーツが埃だらけで、久々なのでネクタイがなかなか巧く結べなかったりして苦労しました。そしていざ外を見ると雨が降っている、と。これが私の前途多難な未来を暗示していなければよいなと思い、家を出ました。
ここにいる皆さんを見て同期となるべき人が多いことに驚き、内定者一覧を見ると既にインターンやバイトの経験者も多いことに多少の焦りを感じております。私などはなかなか踏ん切りがつかずに何も出来ないでいましたが、そこである1節を思い出しました。
私はプロレスファンなのですが、アントニオ猪木が引退試合のときに残した詩があります。ご存知の方もいらっしゃるでしょうがここで1つ…"この道を行けばどうなるものかと 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 踏み出せばその1歩が道となりその1歩が道となる 迷わず行けよ 行けば分かるさ"…という詩でございます。私も迷わずその1歩を踏み出してみようかなと思う次第であります。これから宜しくお願い致します。」

だいたいこんな感じで喋った。思ったよりも反応が薄かったのが残念(あまり周囲の反応を見る余裕もなかったのだが…)、笑いでも起きてくれれば良かったのに。あの自己紹介をまとめるまではだいぶ葛藤があった。マイクを渡されるなり「元気ですかー!!」とかますのも良かった。猪木の詩を言った後で「ありがとー!!えー、それでは皆様ご唱和下さい、1・2・3・ダーッ!!!」とかましても良かった。しかしさすがに誰も知っている人がいない内定式の席上でそれをやるには抵抗があった、私もまだまだだな…。それでもただプロレスファンです、と言うよりも猪木の詩を朗読したというインパクトは残っただろうから良しとした。

滞りなく終了した内定式、80人がそれぞれ1分間の自己紹介をするわけだからそれだけでも80分かかるわけだ。終了後は焼肉やで食事会。酒も入ったコトによってだいぶ同期となる人らとも話せた。その席で「先ほど猪木の詩を朗読した紘之です」というと大抵の人が覚えていてくれた。効果あり、といったところか。どうやらプロレスファンもいたようで「どうせならダー!!もやってくれるかと思ったのに」との意見も(笑)。気が付くと2次会にも参加していて結構たくさんの人と喋った。グループ面接が一緒だった人もいた(こっちは覚えていなかったのだが言われて思い出した)。ただ同期となる内定者は全部で80人、色んな人と喋ったが殆ど名前を覚えられなかった。最初に名前を聞くタイミングを逃すとあとあとまで聞き辛い。顔は思い出せるのに名前が出てこない。次に会うのは入社式か…

風邪引いて熱あったのに2次会にまで参加して雨の中帰宅。気が付くと結構体がダルイ。翌日はずっと寝込んでいたのだが二日酔いだったのか体調が悪いだけだったのかはよくわからなかった。

 

第21回 シドニー五輪雑感 (2000/10/02)

20世紀最後のオリンピック、シドニー五輪が10月1日閉会した。やはりオリンピックと言うのは凄い祭典だと改めて実感。TV中継や特別番組の多さ、翌日の新聞紙面。広告効果なども絶大だろう、ものの見事にIOCの思惑通りといったところか。それでも興奮して見てしまう、オリンピックに勝つことが何よりのステータスになる。それを作り上げたというのも大したものだ。

メダルを取った人が時々やる「取ったメダルを噛んでおどける」というポーズ。あれはなんだか嫌いだ。なんで噛むの?という率直な感想。メダルの味を噛み締めるという意味だろうが、あまり美しくない。メダルにキスをした田村亮子などは良かった、キスの方がまだ自然だと思う。もう1つ好きになれないのがシンクロナイズドスイミング、あれ良いか?あの蝋人形のような固まった笑顔が気持ち悪い。新体操などもそうだがどちらの笑顔もいかにも作りました、という笑顔で不自然極まりない。良い笑顔はやはりメダルを取った人の笑顔。感極まって泣くのも良いが、笑顔の方がやはり良いな。笑顔で涙がひとすじ、なんてのも良い。メダルを取った人はだいたい皆良い顔をしている。しかしそのメダルを取りながらも良い顔が出来なかった人…

日本人柔道100kg超級の篠原信一。世紀の大誤審、内股透かしで明らかな一本と見られたが主審と副審の1人が相手方の有効と判定。誰もが篠原の一本勝ちと思っていたがその判定で流れが狂い、ポイントによる相手方の優勢勝ち。日本選手団らの猛烈な講義も実らず篠原は銀メダルに終わった。それに対して篠原は「弱いから負けた、判定に不満はない。」と一言。酷な言い方をするとその通りである。相手に有効を取られてもそれで負けになったわけではない。有効を取られた後で誰にも文句をつけられない完璧な一本を取れば良かったのだ。それが出来なかったのだから「弱いから負けた」のだ。それは相手に負けたというのではなく、誤審で調子を狂わせた自分に負けた、といった方が良いだろう。篠原の一言は潔くて良かった。世紀の大誤審には後日談があってあの試合の主審をしていたニュージーランド人に対して日本から抗議メールが殺到。その主審はノイローゼ気味になってしまったという。これはいただけない、もういいじゃないか。篠原が素直に負けを認めているのだからそっとしておいてあげれば…。

商業五輪と言われて久しいがやはり一番大きな国際的スポーツイベントであることは間違いない。4年に1度しか行なわないという希少性や、国の代表として出場するトップ選手の競技模様。色々な要素が絡み合って面白い。次は4年後にオリンピック発祥の地、ギリシアのアテネで。それを見る頃には社会人になってしまっているはずだ。ゆっくりTVで見る事が出来るのかなー。

  

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