追悼・ジャンボ鶴田
最強伝説を残してリングを去った男…

 

2000年5月13日、偉大なレスラーがこの世を去った、ジャンボ鶴田(本名・鶴田友美)。この男は天性の格闘技センスを持っていたらしい。高校時代はバスケットボール部に所属していたにも関わらず、中央大学に入ってから始めたアマチュアレスリングでミュンヘンオリンピックに出場。身長は190cmを越える。馬場さんの旗揚げした全日本プロレスの最初の入団生。全日本プロレス入団の際に鶴田が言った言葉、「尊敬する馬場さんのいる全日本プロレスに就職したいと思います。」プロレスに就職するというなんとも珍妙な言葉。この言葉が後に鶴田をしてサラリーマンレスラーと呼ぶ所以にもなる。

鶴田は1度も本気になったことがないと言われている。それでいて圧倒的な強さ。初代三冠王者、初代世界タッグ王者、日本人初のAWA王者…。全日本プロレスのリングに他団体の長州力が上がってきたことがある。鶴田とシングルマッチが行なわれた。結果は60分フルタイム引き分け。その試合後にクタクタの長州に対して「もう一丁」と言ったとか言わなかったとか…。名勝負を繰り広げた天龍源一郎との対戦後、試合は天龍が勝利したもののコーナーで立てずにうずくまっている天龍に対して鶴田は平然と立って天龍に握手を求めに行く。戦う相手のレベルによって得意技であるバックドロップの落とす角度を変える。鶴田にはこのような様々な逸話が残されている。それがいつしか鶴田が本気になったら凄いのではないか…という鶴田最強説が生まれた。

私はぎりぎりで鶴田の全盛期を見ることが出来た。私がプロレスを見始めた頃、鶴田は全日本プロレスのリングにおいて三沢・川田・小橋らの超世代軍と激しいプロレスを繰り広げていた。鶴田が三沢らの前に大きな壁として立ちはだかったことによって三沢らは大きく成長したのだ。確かに別格の強さを誇っていた。しかし、鶴田は1992年に病気により戦線離脱を余儀なくされる。それ鶴田は大きな大会のゲスト的位置付けで年間数試合にしか出場しなくなってしまった。その鶴田も残念ながら以前の鶴田ではなかった。リングを半引退してから鶴田は大学院でスポーツ理論を学んだりと勉学の道に励んでいた。そして1999年3月、アメリカのポートランド大学客員教授に招かれたことにより渡米。3月の武道館大会で引退式を行なった。その日から1年2ヶ月後の訃報…。

結局鶴田はリングの上で1度も本気を出さない(出せない?)まま、リングを去った。鶴田が半引退したのが1992年、その翌年1993年にグレイシー柔術を始めとする何でもありの総合格闘技ブームが生まれたことに対してこのような意見もある、もしも鶴田が健在ならばそのようなブームは生まれなかったのでは…。規格外の強さを誇る彼ならば何でもありのルールでも簡単に勝ってしまっただろう。190cm以上の大きな体、バスケットボールで鍛えた跳躍力、アマレスでオリンピックにまで行った格闘技センス。どれをとっても超一流だった。彼は最強説を残し、それを証明することも崩すこともなくこの世を去ってしまった。だからこそ彼の強さは我々の心の中に生き、伝説化されていくのだ。

(2000/07/29)

 

 

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