オードリーの小部屋(T)

オードリー ヘップバーンの事

1993年1月20日。この日、世界中に悲しいニュースが伝えられました。オードリーヘップバーン急逝。64才。まだまだ早い死でした。映画界に残した彼女の足跡は偉大でした。そして晩年はユニセフの親善大使として世界中を飛び回っていました。
 オードリー ヘップバーン。1929年5月4日、ベルギーの首都、ブリュッセルで生まれました。イギリス人の父、オランダ人の母を持つ。10才の時、両親が離婚し、母とともにオランダに移住しました。そして、第二次世界大戦にまきこまれ、ドイツ軍に叔父を殺されました。幼い彼女はレジスタンスの連絡役として活躍しました。戦後の1948年、ロンドンに移り、バレリーナを目指しバレーを習いはじめました。しかし、身長が高いオードリーにはなかなか役がまわって来ませんでした。1951年「Laughter in Paradise」で初めて映画出演、
「The Lavender Hill Mob」、「Young Waves’Tale」に脇役で出演します。


Laughter in Paradise Young Wives' Tale

その後、ロンドンで「ローマの休日」のオーディションを受けたのですが、ウィリアムワイラーの眼鏡にはかないませんでした。その後、彼女はアメリカに渡り、「われらモンテカルロから」という映画のロケでモナコへ行きました。そこで彼女に運命の出会いがありました。それは、フランスの作家、ガブリエル・コレット女史との出会いです。彼女は一目でオードリーを気に入ってしまい、「ジジ」の主役に抜擢しました。その頃ニューヨークでは「ローマの休日」の主演にジーンシモンズが決定しかけていました。しかし彼女は初のシネマスコープ作品の「聖衣」の出演交渉を受けており、迷った挙げ句、「聖衣」を選びました。「ローマの休日」のアン王女役のキャスティングは振り出しに戻りました。ワイラー監督は迷いました。彼はオードリーのオーディションのビデオを見直しました。カメラはオーディションが終わったあとの生き生きとした彼女の姿を捉えていました。ワイラーは、アン王女役は、オードリーしかいないと確信しました。「ジジ」の公演が終わるまでの8ヶ月間、ワイラー監督は待っていました。そして「ローマの休日」での大成功で彼女は一躍大スターの仲間入りをしました。"Rome! By all means、Rome.I will cherish my visit here in memory、as long as I live"「ローマの休日」の名文句です。いつまでも心に残るシーンでした。


ローマの休日

第2作目は「麗しのサブリナ」でした。衣装を作るために、彼女はパリのジバンシーを訪ねるのですが、ジバンシーは「ヘップバーン」が来るというので、「キャサリンヘップバーン」が来ると思って楽しみにしていました。しかし、ドアをあけて入ってきたのは、オードリーでした。彼は失望しました。当時、一流女優として有名だったのは、キャサリンヘップバーンだったからです。しかし、彼の失望はすぐに驚きと喜びに変わりました。彼のデザインした服を、オードリーは完璧に着こなしていたのです。この、ジバンシーとの出会いがなかったら、オードリーもここまで輝かなかったかもしれません。ジバンシーなしでは彼女の映画は語れないと思います。それ程、ジバンシーの衣装はオードリーを引き立てました。この作品の中で彼女が着ていたトレアドルパンツにフラットシューズは大評判になり、サブリナルックとして日本でも大流行しました。



麗しのサブリナ

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