WELCAME TO KUNTEKI JINJA


薫的神社

(高知市洞ヶ島)
(jinja honcho)

「土佐のイゴッソウ」の元祖のような「薫的和尚」が御祭神。
藩主山内忠義の戒名に文字の間違いを指摘し、冤罪を受け投獄
されるが、信念を屈せず、食を断ちて抗議。絶命後、藩主、
子女に怪異が生じる。怨霊鎮魂の社。日々参詣者が参道を埋める。


「薫的神社の由緒」へようこそ!

薫的神社(くんてきじんじゃ)

(高知市洞ヶ島)

「土佐のイゴッソウ」の元祖のような「薫的和尚」が御祭神。
藩主山内忠義の戒名に文字の間違いを指摘し、冤罪を受け投獄
されるがが、信念を屈せず、食を断ちて抗議。絶命後、藩主、
子女に怪異が生じる。怨霊鎮魂の社。日々参詣者が参道を埋める。


祭神=薫的大和尚

神事

例祭7月29日,11月29日

ご 命 日 祭   旧正月10日

月祭(おつや) 旧毎月 9日

建物

本殿・幣殿・拝殿・通夜殿

祭神の墓所・祭神入牢の牢舎

=崇敬者数=

150万人

由緒

「祭神は長曾我部家の菩提寺曹洞宗祥鳳山瑞応寺第17世の住職。

希世の聖僧であったが、たまたま土佐藩主山内忠義公の戒名問題から、

藩の重役より冤罪を受け、寛文11年正月10日牢内で遷化した。初

め小高坂に埋葬したが、山内家光善院の夢告で、享保12年瑞応寺の

裏山に改葬。明治3年瑞応寺廃寺に際し、洞ヶ島神社として奉斎した。

のち昭和24年薫的神社と改称。当時の牢舎が保存されている。」

所在地=〒780 高知市洞ヶ島5ー7

JR土讃線高知駅の西、約1キロメートル。

宮 司=中地丈夫
電 話=0888ー72ー2651
FAX=0888−73−7765


「薫的和尚記」


 かつて洞ヶ島神社と呼ばれた薫的(くんてき)神社は、第二次大戦後、

多くの神社がその維持に苦しんでいたのに、この神社は世人の信仰に支えら

れていささかの揺るぎもなく、現在でも参詣者が絶えない。これは神徳とい

うか、霊験というか、不可思議な力が人びとの心を強くとらえているからだ

と考えられる。

  御祭神は、禪宗曹洞宗祥鳳山瑞應寺の僧侶・薫的和尚。祥鳳(しょうほう)

は長曽我部元親の母の号、瑞應(ずいおう)は元親の父の号。天正十八年(一

五九〇)に両親の菩提を弔うためにこの地に建てられた寺院である。佛門の人

が神として祀られるということが、すでに異例であるが、その論議はいずれに

せよ、薫的和尚はどんな人物だったのか。これについては前宮司中地棟造(昭

和五十四年<一九七九>歿)の『薫的大神御一代記』に詳述されているし、昔

からいろいろの記録や伝説も残されている。こんにち的には「壮烈なレジスタ

ント」と評されているが、宗門の権威と伝統の寺格を守るために生命をかけて

烈しく山内政権に抵抗した、そのきびしい精神力が神格化されて後世の人びと

に祀られた、ということになるのであろうか。

  伝説によれば、寛永二年(一六二五)土佐の国司一條家の姻戚にして隨臣

(ずいしん)・池田中納言薫友(しげとも)を父とし(一説に祖父とも)高知

県幡多郡中村市の崩岸(くえぎし)の住人康松安兵衛の娘於萬(おまん)の方

(かた)との間に生まれた。十五歳で出家得度(とくど)し、二十二歳まで御

修業、香美郡土佐山田町楠目の豫岳寺の住職となり、早くも秀才の誉れが高か

った。

  詩歌・俳句(俳号を實常)・絵画彫刻にすぐれ、武術の稽古もしていたと

伝えられ、身長六尺(一八〇糎米)の偉丈夫であったという。のち高知城北一

粁の江の口洞ヶ島の瑞應寺に移り、現在の洞ヶ島町の西脇道路にあった瑞應寺

脇寺福泉寺開基(かいき)・牛的和尚に認められて瑞應寺第十七世住職となっ

た。

  瑞應寺は旧土佐の領主・四国平定の戦国武将・長曽我部元親の菩提寺であ

り土佐第一の大寺であった。それだけに寺格も高く、長曽我部家が滅亡して山

内家が入部し新国主となり、新しい菩提寺として高知市城南潮江(うしおえ)

に眞如寺が設けられる。しかも瑞應寺の同宗となると時勢の交替が宗門にも反

映してくる。それが寛文四年(一六六四)十一月二十四日、二代藩主山内忠義

の薨去(こうきょ)を機会に表面化する。

  菩提寺眞如寺住職了谷の選んだ戒名は「竹巖院殿龍山雲公大居士」であっ

た。瑞應寺薫的和尚は同年七月輪番として越前(福井県)の國永平寺へ出向、

ついで周防(山口県)の国碧雲寺に出かけ、歸院したのは同九年八月であった。

不在中のことで忠義法会のことには関与する機会がなく、寛文十年十一月第七

回忌法会に際して、初めてその席に列することになり「竹巖院殿龍山雲公大居

士」の戒名文字の不穏當であることを指摘、その改撰を警告したが容れられな

い。ついに法会の當日の座列が眞如寺の下位におかれ、宗門の掟が無視されて

いる。薫的はその不當を抗議したが、藩當局はとりあげようとしない。眞如寺

が山内政権と結びついて、私意を遂げようとしているのは明白である。

薫的和尚はやむなく、事の次第を宗門支配の周防國長源寺に訴願、その決

裁を受ける決意を固め、訴状を脇寺の芳心院敬山(後に還俗し俗名は北川谷水)

に托した。藩當局を無視したいわゆる密訴である。芳心院は事の発覚をおそれ、

途中、高知県安藝郡東洋町甲ノ浦(かんのうら)から高知城下へ引返し、眞如

寺に内通、和尚の意図を藩當局に訴えた。奉行孕石頼母(はらみいしたのも)

は、しきりに慰諭したが和尚は承服しない。ついに藩政の犠牲となって、寛文

十一年(一六七一)正月四日無實の罪で入牢。痛憤した和尚は自ら食を絶つこ

と七日、寛文十一年正月十日舌を噛んだ。その物凄い形相は、凄惨といわんか、

悲愴とや言うか、酸鼻の極み、目を蔽(おお)わしめる光景で、碧血淋漓(へ

っけつりんり)として膝を眞紅に濡(ぬ)らし、憤死なされた人である。現高

知市洞ヶ島町鎭座薫的神社所蔵の位牌には、「寛文十一年辛亥年正月十日、前

總持瑞應十七世裁山康松大和尚禪師」と刻されている。享年四十七歳であった。

  薫的和尚の生涯については、種々の異説もあるし、特にその死をめぐって

怪異の伝説が多い。罪人として雁切橋(がんきりばし)に曝された和尚の遺骸

は、小高坂山東の谷の住人・郷士西内半次正義(延宝三年<一六七五>歿)が

密かに貰いうけ、現高知市三の丸の私有地の目立たぬ畑の一隅に埋葬、光善芝

と名付けて松を植え、牛馬を繋ぐことを禁じた。いつしか忘れさられていた墓

は、京都の前田左京實庸(さねのぶ)卿の御息女で、山内主馬の實母・光善院

の命によって半次の孫西内清太夫義茂(よししげ=延享元年<一七四四>歿)

の案内により発見された。山内家御簾中御方々の切願の結果、享保十二年(一

七二七)十月二十四日、高知市江ノ口洞ヶ島瑞應寺境内の、現在の薫的神社御

本殿後方鎭座の霊光塔に改葬された。「小高坂・西内家系図」谷是(たにただ

し)参看。

明治三年(一八七〇)勤王の精神勃興するにおよんで、廃仏棄釈の風によ

り瑞應寺廃寺の際、土佐國の同寺末寺四十五箇寺もまた廃寺となった、と『明

治維新神佛分離資料』に記録されている。藩政時代すでに薫的堂が瑞應寺境内

西半分の岩山に設けられ、正面参道には嘉永二年(一八四九)と刻まれた石造

太鼓橋があり、天保十五年(一八四四)と刻された玉垣も存し、薫的堂が樹齢

四百年の大木群とともに、やがて本殿・幣殿・拝殿と整えられて神社となって

いったのである。平成二年(一九九〇)幣殿拝殿改築再建工事の際、拝殿蟇股

上(かえるまたうえ)に明治五年(一八七二)と記載された墨書が発見された。

また高知市比島の清川神社には、長曽我部元親・野中兼山と併せて薫的和尚が

祀られており、いずれも山内政権から敬遠されながら庶民から畏敬された三柱

である。

  薫的和尚出生の地、高知県中村市崩岸の西方・佐岡の現在東山小学校の奥

のイヤガ谷に黒岩さまという大岩があり、藩政時代末頃より薫的和尚の生母の

霊を祀った清川神社とともに佐岡薫的神社がある。中村市を中心とした幡多郡

全域の崇敬者を有し、参詣の絶えない庶民の神社である。

   平成六年(一九九四)四月二十日執筆
        宗教法人・薫的神社代表役員
             第六代宮司・中地丈夫


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