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新 宮 神 社


謎多きロマンの郷・十市



新宮神社の拝殿(正面から)・キジや狸もやってきます


「延喜式」には神饌を司った「十市に坐す神」との縁?、
十市皇女(とおちのひめみこ)伝承の封印された古代ロマン
「土佐日記」の紀貫之が船待ちした大湊の「航海の神」であり
戦国時代以降、土佐水軍、熊野信仰の拠点でもあった新宮大
神‥‥。十市の総鎮守であり、広範な講組織の信仰遺跡もーー。

◆「祭礼日と由緒!?のパンフ」PDF版・入口



十市「新宮神社」の由緒

1 神社名
新宮神社

2 鎮座地
高知県南国市十市字新宮山

3 祭神
天照皇大神(あまてらすおおみのかみ)
 相殿
伊邪那岐神(いざなぎのかみ)
健速須佐之男神(たけはやすさのおのかみ)

4 旧社格
郷社

5 建物
本殿・流れ造り 幣殿・拝殿・権現造り 総桧皮葺風銅版屋根

6 境内社
@豊受神社 祭神・豊受姫神(本殿東側)

A神母神社(おいげさま)
祭神・保食神(うけもちのかみ本殿西北側)

B天満宮
祭神・菅原道真公(本殿西南側)

C子育神社
祭神・木花開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)
(俗称・子安さま、子育て地蔵様、側に首塚有り、第一鳥居前参道東側)

7 祭礼日
●歳旦祭・初詣 一月一から三日
お焚上げ    一月三日午後
(古いお札やお守りに感謝の祭り)
●どんど焼き 一月十三日10時(

節分祭 二月三日(四日)
●古式・追儺の神事 二月三日10時

春 祭(祈年祭)旧二月二〇日

大 祓(夏越しの祭り)六月末日日没時

●夏祭(宵 祭)七月十六日(日)午後〜夜
子ども神輿・おねり太鼓/奉納・相撲、絵馬
夏 祭 七月十八日(火)

御立祭(おみたて)旧九月三十日
◎秋大祭(神事) 十一月九日・・・・オナバレ(神幸)と
奉納・流鏑馬・綱曳
秋 祭(新嘗祭)十一月二十四日
御迎祭(おむかえ)旧十月(末日)

○大 祓十二月末日
除夜祭(大晦日)十二月三十一日夜

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「女躰神社」
 鎮座地・南国市十市字西岡五八二七鎮座
 社格・旧無格社
 祭神・櫛名田比賣神、相殿・豊玉姫神
 祭日・七月二十九日、九月二十六日
由緒・十市の古社。昔はホノキ如躰大明神ともいった。社領は新宮神社と重
なる。祭祀も新宮神社と一対となる神事が営まれていたとの伝承が残
る。拝殿の彫刻は力強く技巧は近隣に類をみない秀作である。文久年
間に新宮神社の新築時、移築されたモノという。御神体はミロのビー
ナスとソックリだと言われているが”秘”。見た人はいない‥‥夢
があって面白い。

延喜式社 石土神社のHPページへ

 神 職 宮司・森國英夫 
禰 宜・森國美和子
権禰宜・森國 真人


〒783 高知県南国市十市緑が丘1ー1701
新宮神社/石土神社/女躰神社・社務所
電話088−865−5123 Fax088-865-5404

<ご由緒>


全国の神社で奏上されている大祓詞等の祝詞は延喜5年(西暦905年)
勅撰で編纂された「延喜式」の中の「中臣の大祓祝詞」と同じものである。
同書の祈年祭祝詞には、神饌を司った十市の神が記されている。十市=とおち。
10=十を「とお」と発音するのは古来からの日本語だ。現在の神社祭式が

制定されて以来、少なくとも1100年余の歴史がある。剣と鏡を依代とす
る祭祀伝承や祭神からみても、古く出雲系の神と融合していったようである。
オナバレに残る黒い太陽の旗と青銅だったと伝承の残る矛(現存していな
い)。などなど、古代祭祀伝承が受け継がれている。

 十市は謎に包まれた古代ロマンの地として大学生がときおり訪れる。そ
れは、十市皇女(とおちのひめみこ)縁の地として。十市皇女は父が大海
皇子、母が額田王であり、夫は大友皇子であって、壬申の乱で夫・大友皇
子に斬殺されたといわれる。しかし伝承は封印されたままだ。


 「土佐日記」の筆者・紀貫之もこの地にて船出を待った。本文中の記載
をみれば、その頃の「十市」の地形が説明されている。船待ちを慰めに来
た不思議な女。深夜まで呑み続ける帰京に苛立つ船待ちの人々と、慰労訪

問者である帰化した京女。それは女躰神社との古伝承ともオーバーラップ
してゆく。紀貫之は十市皇女とその母である歌人・額田王の縁の地であっ
たからではないのだろうか。都の夜空に銀河を仰ぎ、土佐の地に果てた亡

き娘と十市皇女の伝承をオーバーラップさせながら老境の紀貫之は揺らぐ
燭台のもとで、秋の深まる闇に浸み行く虫の音を背に土佐日記を執筆中の
お姿を思い描きながら下の写真をご覧下さい。1000年前の白波が……。


紀貫之が土佐から船出の時、ここ大湊(十市)で凪待ち<写真1967年頃>
左のとがった山がミネン寺(峯寺)、右側の山が石土(いわつち)山、
 真ん中の半島が厳島神社の地、現在2つの銀行やサンプラがある場所

紀貫之と土佐日記、これ菅原道真に係わる物語では? ないでしょうか。
新宮神社が怨霊の神社と言われているのにも関係が? 古代ロマンの郷

 近世では、平安末期から熊野信仰の拠点となったらしく、祭神や社名が
変化して行く。熊野信仰は紀伊水道を越えて、海から四国へ押し寄せた。
(一説では四国から紀州に伝播したという。空海が四国で修行したのも説

明できることになる)徳島方面から四国の海岸を伝播して行くものと、も
う一方は吉野川を遡って四国内部に伝播した。航海の拠点であった「十市」
は当然に海路からの影響を受けやすく、「へぢ信仰」の霊域でもあり、熊

野信仰の海を背景にした勢力拠点だった。そして、その頃、鎮座地が現在
地に移動したようだ。承久の乱後、いわゆる戦国時代の到来時、熊野の海

側の勢力を背景にしていたと思われる「細川氏」が十市に来、「檀那」と
して社屋を再建している。土佐水軍・情報・運輸を握っていたのだろう、長
曽我部氏の重臣として活躍する。このために、秋大祭時に古式な流鏑馬等

の儀式が残されている。関ヶ原以後は長曽我部氏が消滅、山内氏が土佐の
藩主となるが、当神社への信仰厚く神領・藩米などが奉献されている。新
宮講として広く信仰を集めていたことも境内碑等から散見される。

 十市での神仏分離は早く、現社殿が建てられた文久4年に近いようであ
る。仏教寺院は全敗された。其の時点で新宮神社でも仏教・修験的なもの
は悉く破棄され焼き捨てられた。このため色々な祭事や伝承、式内社石土

大神合祀・祭事は抹消破棄された。國の管理下、このために式内社石土神
社や十市皇女の伝承も黙された。 女躰神社・新宮神社・石土(いわつち)
神社(大正年間に別の地で修験者によって再興)は祭日が同日同時刻、が便
宜上ずらして行われている。

 十市皇女が宝塚で上演された。「天上の虹」(里中美智子著)も好評が
続く。若い研究者たちが遠くを夢見るように、古代ロマンへの魅力に曵か
れて、訪れるのも古代へ、ワープする入口なのだろうか‥‥?

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境内には十市保育園(園児150人)があります。


交通・道路

「十市に残る古代の人々が歩んだ「へぢ」の道・情報」

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お祭りニュース」緊急号外

スクープ写真初公開


前方後円墳が二つ繋がっていた!!
祟りの信仰の歴史もこの丘が古墳であったからだといわれてきた。
なんと! 複合古墳ではないか! 2つの…(写真提供:鞄d測)
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 神 職 宮司・森國英夫 


9 〒783 高知県南国市十市緑が丘1ー1701
 新宮神社/石土神社/女躰神社・社務所
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