3かく運動の小話


3かく運動(大島清氏)の"あせかく"、"ものかく"、"はじかく" の3かくより。----文 岡 邦行


1.1 、北アルプス登山のすすめ
2.1、 病理のお仕事
1.2 、習 字
2.2、 高木の慈恵と北里の慶応
1.3 、マイカー登山(96夏)
2.3、 うつくしまいじん伝(1)
1.4 、伊吹山、円空仏、谷内六郎
2.4、 うつくしまいじん伝(2)
1.5 、人痘法と牛痘法
2.5、 うつくしまいじん伝(3)
1.6 、10Km走55回完走
2.6、 大山北壁の崩壊
1.7 、三 春
2.7、 アサヨ峰の教え
1.8 、お酒の話
2.8、 タクシー利用登山
1.9 、追っかけ中年・神輿
2.9、 北ア北部のんびり山旅(1)1984年
1.10、 じっさまと長寿
2.10、 北ア北部のんびり山旅(2)1985年
3.1、 長英と蔵六
3.2、近代医学の名コンビ
3.3、酒人公
3.4、富士見登山・富嶽4景
3.5、祭礼・山車
3.6、ロードレース4選
3.7、解剖の記
3.8、海がみえる3名山
3.9、常念岳から富士遠望
3.10、甲武信から富士眺望
4.1、 職業癌・発がん・干支実験
4.2、教師冥利
4.3、飯豊連峰石コロビ雪渓をのぼる
4.4、後立山連峰針ノ木雪渓をくだった
4.5、渓流をあるく
4.6、ペスト(黒死病)をよむ
4.7、梅毒(花柳病)をよむ
4.8、結核をよむ
4.9、らい(レプラ、ハンセン病)を読む
4.10、まつり・野外劇
5.1、 走る病理医100レース走る
5.2、お産壱弐産話
5.3、病理医田原淳・ペースメーカーの父
5.4、茨城の奇祭・古河、大津港、金砂郷
5.5、ツルーマン(true man)山口瞳の酒乱論
5.6、「団塊の世代」病理医の思い出
5.7、アドレナリン発見秘話
5.8、インシュリン発見秘話
5.9、視床下部分泌ホルモン発見秘話
5.10、光合成、葉緑素、紅葉登山
6.1、槍ヶ岳登頂の小話
6.2、穂高岳登頂の小話
6.3、剣岳登頂の小話
6.4、富士山登頂の小話
6.5、 視覚の小話
6.6、聴覚の小話
6.7、嗅覚の話
6.8、味覚の話
6.9、触覚の話
6.10、続・聴覚の話 (エコロケーション)
7.1、山と秘湯・北海道
7.2、山と秘湯とこけし・青森
7.3、山と秘湯とこけし・秋田
7.4、山と秘湯とこけし・岩手
7.5、山と秘湯とこけし・宮城
7.6、山と秘湯とこけし・山形
7.7、山と秘湯とこけし・福島1・中通り吾妻山系
7.8、山と秘湯とこけし・福島2・浜道り阿武隈山系
7.9、山と秘湯・尾瀬
7.10、山と秘湯・栃木
8.1、伝統こけしの話
8.2、津軽温湯系こけしの話
8.3、弥治郎系こけしの話
8.4、遠刈田こけしの話
8.5、蔵王高湯こけしの話
8.6、山形作並系こけしの話
8.7、肘折こけしの話
8.8、鳴子こけしの話
8.9、木地山系こけしの話
8.10南部花巻系こけしの話
9.1、津軽温湯系こけしの話
9.2、続聴覚1・コウモリの話
9.3、続聴覚2・イルカの話
9.4、一人地方病院病理医と症例報告 
9.5、福島県・土湯こけし (追加)

1.1、北アルプス登山のすすめ

 北アルプスへの夏山登山3コースをお奨めします。条件は1泊2日で、初心者コースです。夜行車中1泊(時間があれば山麓で1泊)、山小屋1泊で、登り約5時間で最高の展望が楽しめます。
夜行バス(サミーツアー等)は新宿西口高層ビルや東京ドーム前より発車し、往復約1万円位です。首に空気枕(約2000円)を付け、耳栓(500円)をすると熟睡できます。
北アルプス北部は、剣立山連峰、後立山連峰(白馬、唐沢、五竜、鹿島槍、爺々、針ノ木)、黒部源流の山群(雲の平周囲の山:薬師、黒部五郎、鷲羽、水晶、祖父)からなります。
北アルプス南部は、槍穂高連峰、燕、大天井、常念、蝶、笠からなります。7時から登れば13時までには小屋に入れます。

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1.2 、習 字

私の祖父は下駄小売商、父は靴小売商であった。従兄弟達と近所の友達は親が商人であった。祖父は、「商人の子は、『よみ、かき、そろばん』が大切だ」と言っていた。祖父の時代は寺小屋で学び、現代は義務教育が確立している。
祖父は、<年末大売り出し>と<祝新入学記念セール>と<蚤の市出血大サービス>の大看板を毎年書き、跡取りの私は側でそれを見て育った。昭和20年代の事である。
祖父の後を継ぐため、私は習字を入学前から近所の先生に習った。墨を摺り瓶に入れて持って行くのが面倒であった。
習字は、大学時代に役に立った?。学生運動が激しい昭和42年に入学した。昼は立て看(大きさ約縦3米横10米)に大きな独特の文字を書き、夜はガリ版切り(謄写版印刷)を随分やった。
学生寮生活をしていたこともあって。昭和44年安田講堂落城の時、壁に「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力を尽さずして挫けることを拒否する」と、気品のある墨で書かれていたという。好きな言葉であるが、読み人知らずである。
大学時代の友達が集まり、5つの家族で毎夏家族旅行を行い、夏の思い出を沢山作った。記念写真の為に、毎回垂れ幕を墨で書いた。写真は東京ドーム内でのワンショットである。
平成6年から水戸済生会総合病院・病理へお世話になってから、思い立って 家族で習字を始めた。先生につかず、かってに『書酔会』と名付けた。平成8年文化庁後援第11回日本習字展へ出品した。参加者は、病院関係者、私の友人のラーメン屋さん、と家族の合計9名であった。写真は9人の力作です。





約20万人が参加する大きな展覧会です。文部大臣賞授賞者を含む14人が中国へ招待派遣されます。確率は0.007%です。2月1日結果が届き、特選4人、優秀賞4人、佳作1人であった。予想以上の良い成績でした。残念ながら団体賞に選ばれなかった。
今年の活躍が期待されるところです。 第12回日本習字展の募集要項は下記の通りです。
締切り:9月30日、作品:半紙(33.5x24.5cm内外)、
応募資格:年齢を問わず、
応募点数:1人1点のみ、
出品料:幼児から高校生500円、成人1000円、
応募課題:自由課題、或いは、規定課題(下記)―何れも6字以内但し、幼児から小学生はひらがな、カタカナ及び漢字(楷書)、中学生はひらがな及び漢字(楷書または行書)、高校生から成人は漢字(書体自由)―〔規定課題〕6月頃発表、出品方法:作品に学年、氏名を記入、幼児―〇さい、小学生―〇年(1年生のみ―ねん)、中、高学生―中、高〇年と氏名、成人―氏名のみ、裏打ち、表装は不要。作品の下部左端に所定の出品票を貼付すること。皆様年に1回習字を楽しみましょう。

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1.3 、マイカー登山(96夏)

私は、昭和52年に気丈山岳会(ヨーロッパアルプスのメンヒに登った私の友人から、貴方の登山は机上登山だと言われ、それを捩りました)を設立した。会員は2名から8名程度で、福島医大卓球部の後輩、福島医大第1病理医局員と私の家族です。
私は、昭和55年から平成6年まで、千葉の稲毛に住んでいた。隣が千葉大で、14年間千葉大生、千葉大職員になりすまし、生協で昼食を食べ、医学書を1割引きで購入した。夏の登山夜行バスと冬のスキー夜行バスを1割引きの学割で購入でき、貧乏な生活を快適に過ごせた。夜行バスは、首に専用の空気枕を巻き、耳栓をすると腰掛けたままぐっすりと眠れた。
平成4年子供が年長になり、いつまでも単独登山が出来なくなった。マイカーで家族登山を行うようになり、今年で5年目になる。平成4年那須、5年蓼科、霧ヶ峰、美ヶ原、6年草津白根、赤城、志賀、谷川、7年瑞牆、大菩薩、西沢渓谷に登った。マイカー登山は、夜中出発し、峠、林道終点に駐車し、時間が短縮でき、日帰り登山が可能である。
96夏は天気に恵まれ、4つの山に登った。7月28日(日)菅沼から日光白根山へ。320名の高校生と一緒に、奥白根山頂上(2578m、百名山)へ。女学生の「超……ってな感じ」なる会話がまだ耳奥に残っている。8月3日(土)奥秩父連峰の朝日岳(2579m)へ。金峰山(百名山)の前山です。金峰頂上に大きな五丈岩が見えた。五丈岩に登ったが降りられなくなった話がある。
峠から低速走行中、工事現場で、前輪が完全に窪みに嵌まり、脱出不可能となった。作業員が金属ロープを愛車「セフィーロ」に縛り、ギアをニュートラルにして、ショベルカーに引っ張って貰ってやっと脱出できた。うろたえて騒いでしまった。この状況を一部始終見ていた下から上がってきた家族は、4人全員顔が青く固まっていた。




5日(月)奥多摩の雲取山(2018m、百名山)頂上へ。前日夜娘が喘息様発作を起こした。〈メプチンミニ〉を飲ませ、発作がおさまりやっと寝てくれたが、心配で全然眠れなかった。
山小屋のカビ臭い毛布が原因と考えられた。翌朝、小屋のトイレに入ると、壁に『使用後<EMボカシ:商品名>をスプーン一杯便器に振り落として下さい』、『EM菌は有用微生物で、便の発酵を止める働きがある』と書いてあった。環境対策のひとつである。
写真は雲取頂上で、奥多摩から奥秩父連峰への縦走路です。8月18日(日)足尾連山の庚申山(1902m)へ。百名山の皇海山(すかいさん)の前山です。奇岩で出来た山で、鎖と鉄梯子を伝わって、スリル満点の山だった。滝沢馬琴作「南総里見八犬伝」の中で、犬飼現八の山猫退治の場であった。 天気に恵まれ、充実した夏休みを楽しんだ。今から来年に備え、机上登山を行う予定である。

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1.4 、伊吹山、円空仏、谷内六郎

5月16、17日日本網内系学会が、名古屋で行われた。会場が大きく、会員がまばらで、今後の学会運営が心配です。学会の活性化が叫ばれ、活性化委員会が誕生したが、効果はまだ表れていない。
小さな学会は、演題、投稿原稿が集まらず、学会運営と学会雑誌の編集に苦慮している。
2日目の午後一般演題終了後、東海道線で近江長岡駅へ、バスで伊吹山登山口へ、瀧澤旅館泊。2階の部屋から伊吹山山頂がうっすら見えた。翌日はガスで見えず、シャッターチャンスを逸した。酒3本飲んで1泊2食付き6500円の宿泊代は嘘みたいに安かった。
18日(土)、3合目までゴンドラを利用。9時05分、登山開始。2合目から7合目までガスで視野がきかない。7合目から上は天気良く、日焼け防止のためタオルで顔を被った。10時35分伊吹山山頂(1337m)到着。深田久弥氏の「日本百名山」(新潮文庫)で89番の山です。
昭和46年(22才)から百名山に挑戦し、今回が45名山目です。琵琶湖、竹生島、白山の眺望は出来なかった。頂上に、多種の薬草が植えられていた。
頂上の小さなお寺に、5体の円空仏が納められていた。初めて本物の<円空仏>を見た。
1体は触ることが出来た。悪いところを触ると御利益があるというので、全身くまなく触った。テカテカしていた。
円空仏

昭和63年から平成2年(千葉市稲毛の放射線医学総合研究所勤務時代)まで、「円空学会」へ入会していた。学会雑誌が年4回送られて来た。内容は円空に関する古文書の発見と解釈、円空仏の発見と説明で、私には難しすぎて脱会しました。
残念でしたが、学会発表、論文投稿は出来ませんでした。同僚の放射線治療医は学会雑誌を不思議に眺めていた。ある特別な病理学を追求する珍しい学会と説明した。
似たものに<木喰仏>があり、放医研近くにある穴川郵便局の局長に円空仏と木喰仏について教えを受けたことがある。わざわざ八王子まで行き、「円空仏と似た仏像」の個展(村野實氏作円空仏)を見に行ったことが2回ある。
1体10数万円の「円空仏まがいもの」を購入するべく努力したが、家族に反対された。家の中が暗く、線香臭くなるという理由と、20数年収集している「こけし」で充分だと言うのが理由でした。
8合目付近の円空上人が修行した場所は確認できなかった。白、黄、紫の小さな花のお花畑が続き、心が和みました。カタクリを期待していたが、遅れているらしく1本も遭遇しなかった。往復2時間40分。両膝を痛め、足を引きずって降りてきた。
交通の連絡時間に恵まれ、16時15分東京着。日本橋三越本店に行ってから引き返し、銀座三越で「谷内六郎没後15年」の展覧会を見た。
週間新潮の表紙を飾った<漫画>です。階段の登り降りが、膝の痛みできつい。タンポポの綿毛に少女が息を吹きかけると、1本1本の毛糸が小さなバレリーナになる絵が気に入った。最終の高速バスで帰ってきた。欲張って、1日で3つの事を楽しみ、非常に疲れた。
<円空、1632―95年> 
美濃の人。彫刻の天才、遊行の僧。北海道から近畿地方を漫遊し、生涯12万体の円空仏を創った。現存するのは約4500体。捨てられそうな丸太の割材をそのまま利用し、木目、節、割れ目の木質を生かして仏像を創った(円空巡礼、新潮社、1986年)。
<谷内六郎、1921―81年>
「幼い日の夢」「日本のふるさと」をテーマに絵本やまんがを描いた。昭和31年創刊以来25年間、週間新潮の表紙絵を描き、抒情画家ともいわれている。

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1.5、人痘法と牛痘法

 周五郎、遼太郎、周平の歴史小説に痘瘡の話が出てくる。天然痘で死んだ遺体を乗せた大八車がひっきりなしに町を駆け巡り、町人はおびえ、祈祷を行い、疫病よけの赤いたすきをかけ、町を捨て山に逃げこんだ。10人のうち2人が、高熱の中うめきもだえながら死んだ。助かった人は顔があばたになり、娘さんは一生家に中に閉じこもって不幸な人生を送った。天然痘はインド原産のウイルス感染症で、日本には724年に入ってきた。種痘が普及するまで、よけの風習を行なったり、牛糞を焼き煎じて飲んだ。現在、生物テロ兵器の脅威があり、イギリス政府は1600万人分の天然痘ワクチンを確保した。
吉村昭文学から多くの種痘物語を知った。年代順に羅列し、激しい生涯をおくった人物を整理した。 種痘には人痘法と牛痘法がある。前者は1744年清国人李仁山により長崎に伝わった。軽い天然痘にかかったヒトのかさぶたを幼児に植える法で、死亡することが多く非常に危険であった。
1789年、筑前で成功したがその後行なわれなくなった。後者は1796年イギリスのジェンナーにより確立された。牛痘にかかった牛の乳絞りをしている女性は軽い痘瘡にかかるだけで、人間の天然痘が蔓延しても発病しない現象を病理細菌学的に観察した。牛乳絞りの女性の手に出来た痘を、8才の息子に植えた。本物の人痘を植えたが天然痘にかからなかった。
五郎治*7は南部藩生まれの40歳、エトロフ島の番人小頭で、1807年ロシア艦に拿捕され5年間オホーツク、ヤルーツク、イルクーツクに抑留された。1812年、ロシア人から牛痘法の本を貰い、シーモノフ医師から種痘法を教えてもらった。若い牝牛を杭に縛りつけ、毛が少なく皮膚が薄い部分(乳房など)に小刀で約3mmの傷を2、3ヶ所つける。その部に天然痘にかかった人間の発痘部の膿を擦り付ける。3日目から化膿し膿をガラス板に塗り付け蓄える。塗ったガラス板を2枚合わせて瀝青で封じる。粉炭に入れておくと長時間の保存が可能である。
必ずしも得られないので根気よく何度も試みられた。ガラス板の上に唾液をたらし乾いた膿を溶かし、腕に小刀で傷をつけ痘液を擦り付ける。何故か男児は右腕に女児は左腕に植える。3日目に発赤、4日目に腫脹、8日目頃から排膿し、その後かさぶたになる。牛が天然痘にかかることは稀なので、ヒトの痘を牛に植えつける試みが多数なされた。しかし現代の細菌学者によると、牛痘苗はヒトの痘から得られないという。
1813年、広島芸州人の久蔵が高田屋嘉兵衛*3と共に抑留地ロシアから痘苗をもって帰国した(吉村著花渡る海)。藩主に牛痘法を説明したが、牛痘を植えると「牛になる」「牛の角が生える」と言われ、許可がおりず、そのうち大切な痘苗が朽ちはててしまった。
1824年、*7は松前商人田中正右衛門の一人娘イク11才に牛痘法を行ない、日本初の種痘に成功した。
五郎治は医師でなく番人である。松前の北東にある大野村の農民彦助が飼っている子牛にできた黄色いかさぶたを剥がした。丼の底でつくった貯臓器に入れ、蓋をして白布でしっかりと縛り、粉炭の入った小箱の中に納めた。かさぶたを小皿にとり唾液をたらし溶かした。小刀で娘の右腕内側に傷をつけ出血させ、その液をたらし塗りつけ白布を巻いた。順調に発赤、水疱、膿が発症した。自宅に待合室と種痘所をつくり、「植え疱瘡屋」の看板をかけた。亡くなる1848年まで24年間種痘業を専業とし、松前と函館に住む子供に牛痘を植えつけて命を救った。
1回成功すると2分以上の報酬を貰い、金儲けの手段にした。函館の医師白鳥雄蔵が五郎治に再三お願いした。種痘法の伝授はかなったが、痘苗は分けてもらえなかった。五郎治の死と共に大切な痘苗は日本から消失した。日本初の種痘成功は、表(年表要説日本の歴史から)のように1848年楢林宗建となっている。
実際はその24年前から行なわれていたのである。極めて狭い土地で。昔の医師は代々医術を秘伝・家伝としていた。生活の糧を奪われるからである。五郎治が寛容な心を持ち、無料で種痘を行ない、全国に痘苗を分け与えていたら、その後日本全国の子供が死ななかったのである。
1841年、秋田に遊学中の白鳥らは牛痘法を成功したが、痘苗が植え継がれなくなり消滅してしまった。
石井宗謙は岡山美作の人、シーボルトに師事し産科を専門とした。宗謙は1841年以来人痘法を試み、4回成功したが、1847年の5回目は失敗した*5。接種10日目に発熱し、顔に出来た痘から膿が流れ出し、23日目で発狂して死亡した。以下雑談。両者は権力志向が強く、女性願望が死ぬまで病的にあった。
シーボルトは1823年長崎で鳴滝塾を開き日本の科学史に大きな衝撃を与え、1828年シーボルト事件で国外退去となった。事件に関わった20人以上の日本人が死罪、獄中死、変死、自刃して死んだ。
31年後の1859年、彼は13才の息子と再来日した。63才になっていた。愛妾だったお滝(紫陽花の学名オタクサで有名)、娘で日本最初の女医お稲に冷たく、毎日若い伽を要求した。病気である。宗謙は本妻と数人の愛人がいたにもかかわらず、50才半ばを過ぎた年で、恩師シーボルトの娘お稲に陵辱をはたらき、娘(おタダのちのおタカ)を生ませた。病気である。
シーボルトらは1823年以降、東アジアのパタビアから牛痘苗を何度も輸入したが、航海中に乾燥し効力が失い植えつける事が出来なかった。
1848年、日本で初めて?(いままでの日本史年表上)牛痘法が成功した。佐賀鍋島藩主がオランダ医モーニッケに協力を依頼し、藩医楢林宗建が息子健三郎へ接種し成功した。かさぶたを粉状にし細長いさじで鼻孔に差し入れ、鼻の奥に吹き入れた。何故か男児は左鼻孔、女は右鼻孔から。鍋島藩に除痘館がつくられた。
笠原良策は1809年生まれの福井の人、京都の日野鼎哉(ていさい)の教えを受け、「人を死なさぬ道、それは牛痘菌を持ち帰ること」と決意した。福井藩主松平春嶽の協力で、老中阿部正弘を動かし、幕府から種痘の許可を得た。1849年モーニッケ株が長崎から京都へと植え継ぎに成功し、大阪緒方洪庵(阪大医学部前身の適塾を創設)へもたらされ、関西における種痘の源を確立した。京都から福井まで、北国街道200km6日間の雪の峠越えを敢行した(吉村昭著雪の花)。その後痘苗は福井から江戸、信州松代藩佐久間象山へと運ばれた。プロジェクトXの最大の困難は、種痘7日目で種継ぎをする子供の確保であった。「めちゃ先生」とののしられ、石を投げつけられながら全身全霊全財産をかけて遂行された。一般向けにパンフレット「牛痘問答」を作成した。藩の協力で除痘館が設立された。
五郎治が持ち返った露語の種痘本「オスペンナヤ・クニーガ」は幕府に没収された。語学の天才長崎通詞馬場佐十郎が写本し、時間をかけて翻訳を完成し、死後大分たった1850年、日本初の牛痘医書が「遁花秘訣」として出版され全国に伝わった。
種痘法は世界中に広がった。WHOは1958年根絶計画を開始、1967年防疫を強化、1977年エチオピアで最後の患者が確認され、その後2年間患者の発生を見なかったことから、1980年全世界天然痘根絶を発表した。病理学書には歴史的興味と数行載っている。
関連年表
(医学、露関係、水戸)(政治、経済、社会、世界)
1754 山脇東洋、蔵志 1716 吉宗、享保の改革
1774 玄白・良沢*1、解体新書 1721 目安箱
1786 最上徳内、千島探検1772 田沼意次、老中
1792 大黒屋光太夫*2、露から帰国1775 米独立戦争
1796 ジェンナー、種痘法確立 1782 天明の飢饉
1798 近藤重蔵、千島探検 1787 松平定信、寛政の改革
1809 間宮林蔵*3、間宮海峡発見1789 仏革命
1812 高田屋嘉兵衛*4、露船拿捕1825 異国船打払令
1821 伊能忠敬*5、日本地図完成1832 天保の飢饉
1823 シーボルト*6、長崎来航 1837 大塩平八郎の乱
○1824 中川五郎治*7、種痘成功1840 アヘン戦争
1841 水戸藩、弘道館開校 1841 水野忠邦、天保の改革
1848 楢林宗建、種痘成功 1853 ペリー、浦賀来航
1852 水戸藩、大日本史 1867 大政奉還
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参考本*1,*3,*6,*7;吉村昭「日本医家伝」「間宮林蔵」「ふぉん・しいほるとの娘」「北天の星」*2;井上靖「おろしゃ国酔夢譚」*4;司馬遼太郎「菜の花の沖」*5;井上やすし「四千万歩の男」
               
(済生みと02年10月号、2002月6月2日記)

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1.6、10Km走55回完走

  病理部 岡 邦行 当院心外に1年間赴任していた先生に勧められ、10キロ走に出場するようになり、とうとう55回完走できた。
最近、中高年がマラソン大会の主役で、老化へ落ち込まない様頑張っている。走った後、心の師である加藤シズエさん(昨年末104才で亡くなられた女性初の社会党国会議員)のいう<1日最低1回の感動>を短文に綴り、現在の心境を述べる。


( )内は出場した月と大会名である。
写真1は98年8月2日、今市杉並木マラソン大会のゴール前の力走である。ネットで150m上下する過酷のレースである。
今市杉並木マラソン大会

(写真1)
今市杉並木マラソン大会での
力走!!


30度超す猛暑の中、頭はもうろう、足はふらふら、58分もかかった。自分をいじめるのが好きな性格のようだ。
写真2はその参加賞で、杉で出来た絵馬(とら、う、たつ、み)である。



(写真2)
杉で出来た絵馬



写真3は02年2月3日大雨、大洗マラソン大会での迷走である。 大洗マラソン



(写真3)

大洗マラソン大会での
迷走〜〜〜?



真冬の雨は冷たく、あたまはぐしょぐしょ、アノラック、パンツ、シューズは雨と汗で重く、非常に辛かった。ゴール後直ちに車の中に入ると、身体から湯気が出てガラスの窓が曇った。風邪をひかなくてよかった。
大会に出るようになって丸5年の53才になった。02年2月11日の勝田マラソンで50分台、同17日結城で49分台が出て、当初目標とした年令のタイムを切る事が出来た。48分台も夢ではなくなった。
1、2ヶ月の努力では結果が出ず、3ヶ月間以上の努力を積み重ねると結果が出ることが分かった。病理検査業務、病理科システムの改善改革、英語論文作製、学会発表準備も同じで、一生勉強を痛感した。これが「走り」をしてからの結論である。
35才の職員検診で高血圧が指摘され、37歳時保険会社の医師から「寒い風呂場と便所で発作が起きる確率が高い」と脅かされ、38才から降圧剤を飲み続けた。ジョッギングをはじめてから血圧が130の80、脈拍50−60とさがり、52才でやっと薬の世話にならなくなった。
楽しくなければ続かない、続かなければ意味がないと自分にいい聞かせてきた。走ることは大変しんどいというのが実感である。
仕事場から戻り、着替え、寒風の中、猛暑の中、家から飛び出し、週2回約5キロ、年間500キロのジョッギングは、非常に勇気のいることである。何度も、熱燗と湯豆腐、冷えたビールとだだちゃ豆(枝豆)に負けた。
司馬遼太郎の名著「竜馬がゆく」で、竜馬は「足の達者なやつでなければしごとができぬ」といっている。竜馬も西郷隆盛の従弟の大山巌も足が達者だった。49才でランニング1年生になった灰谷健次郎は「遅れてきたランナー」の中で、「走ることによって、より深く自然を感じ、より多くの世界を知ることができた」と述べている。
同僚から「50才を過ぎて、10kmを休まず走れる身体を授けてくれた両親に感謝しなければいけませんね」と言われ、膝を擦りながらこの言葉をしみじみかみしめ、自分は幸せだと考えている。10km走101回完走を目指してがんばるぞー。60才で60分を切るぞー。老化に負けないぞー。病理科のスタッフに迷惑をかけないぞー。
最後に、病院の皆様、「ものをかく、あせをかく、はじをかく」の3かく運動に協賛して下さい。何か夢中になるものを持っておりますか?。
済生みと02年7月27号(2002年3月16日記)

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1.7、三 春


 福島県の阿武隈山地の丘陵地帯に三春というすてきな地名の町があり、春になると梅、桜、桃がいっせいに咲き誇る。三春張子と三春駒人形そして三春の滝桜で有名である。三っつの春の小話と童謡唱歌を綴る。
湯島の白梅
(写真1)
湯島の白梅


平成6年市役所から、転居した家に贈られる梅の木を戴いた。8年目になり、1年ごとに多くの花がつき、実が生った。梅は3分から5分咲きが良い。写真1は、泉鏡花「婦系図」のお蔦、主税の舞台の湯島天神の「湯島の白梅」である。梅の咲く1月下旬、湯島天神と亀戸天神は木彫りのうそ鳥(写真2の中央3本)を売る。
湯島天神にて
(写真2)
湯島天神のうそ鳥


前年に求めたうそ鳥を神社に納め、新たにうそ鳥を求めれば<前年の凶もウソになり、吉にトリ替る>という神事からである。うそは学を頭にのせた鳥(鷽)と書き、最近うそ鳥が受験生に人気で、父兄が争ってうそ鳥を求める。
日本三大桜は、三春の滝桜(磐越東線三春駅下車)と岐阜県根尾谷の薄墨桜(名古屋鉄道新岐阜駅下車)と山梨県山高神代桜(中央線韮崎駅下車)で、いずれも樹齢1000年以上の銘木である。花見といえば昔は梅であったが、今は桜である。古典落語「長屋の花見」は、タマゴ焼きはタクアン、カマボコは大根、酒は番茶、毛せんはむしろで花見をし、酔ったふりをする話で、哀れと面白みを感じる。
同じく「花見酒」は、貧乏人同士が、花見で酒を売ってもうけようと考えたが、仕入れた酒をお互いに買い合って、酒を全部飲んでしまい、元手までなくしてしまうという話である。写真3は、花見の名所千鳥が淵の桜である。写真4は東北鎌先温泉に住むこけしやさんが作った玩具「花咲かじいさん」で、花は独楽になる。
千鳥が淵にて



(写真3)
千鳥が淵にて



花咲じいさん
(写真4)
鎌先温泉
花咲かじいさん



子供の頃に食べた桃はかたくまずかった。大学入学時、福島市内フルーツラインで桃の花(写真5)を観て、その美しさに驚いた。後ろに雪うさぎを残す吾妻小富士がそびえていた。卓球部夏合宿の帰り、八百屋で買った桃は、皮をむくと果汁が滴りおちみずみずしくて甘かった。
モモは桃(木と兆)、百々とも書き、豊かさを表し、3つのうちで一番好きな言葉である。桃太郎伝説に興味を持ち、吉備地方(岡山県)を歩き、お茶屋さんでキビ団子を食べ、桃太郎遺跡を探したが見付けられなかった。日本桃太郎の会会長小久保桃江(とうこう)さんは「桃太郎の話の中で、桃太郎は人的資源(健康)、キビダンゴは物的資源(富)を表しています。サル、イヌ、キジはそれぞれ知(文化)、仁(やさしさ、平和)、勇(勇気・防衛)を指しています。鬼は飢餓、病魔、貧困、戦争など。それらの悪を退治して、人間の幸福実現を高らかに面白くうたいあげたのが桃太郎童話なんです」と述べている。さらに同会長の「モモから生まれた桃太郎というストーリー(果生型)の他に、モモを食べたおじいさんとおばあさんが若返って桃太郎を生む話し(回春型)がある」という説明に驚いた。
中国では理想郷(ユートピア)は「桃源郷」と呼ばれ、桃は神や仙人の食べ物であったという。16世紀英国のトマス・モアは、ユートピアとは「どこにもない場所」「この世に存在しない土地」だったといっている。
当院常勤顧問であった恩師小島教授は童謡唱歌が好きだった。花見・暑気払・忘年会で教授自ら指揮をして、童謡唱歌を歌った。教授の影響を受け、原田泰治の絵本<日本の童謡唱歌100選>を眺め、酒を飲みひとりで歌っている。
この数年、私の楽しみのひとつになっている。本の中から三つの春を探すと、「鉄道唱歌」の中に<梅に名をえし大森を>、「花」に<われにもの言う桜木を>、「蝶々」に<なのはにあいたら桜にとまれ>、それに「さくら」、「うれしいひな祭り」に<お花をあげましょ桃の花>、「春よ来い」に<おうちのまえの桃の木の>などを見ることが出来る。
いずれも心暖まる歌詞である。好きなモモを食べて若返り?、小さい春を見つけたいと思っている。
(02年1月・第25号)

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1.8、お酒の話


東大医学部を卒業し、フランスへ留学し、東大教授を経て、現在原子力安全委員の重職に就いている先生に、「先生はお酒をお飲みにならないので、貴重な時間を有効にお使いですね」と、お話ししたところ、「そんなことはないから安心してお飲みなさい」と、言って下さいました。私には、何が安心なのか分かりませんでした。
一番好きなものは日本酒です。学生時代、吾妻連峰を仰ぎ、寮歌「紫深く霞み引く 今信夫路に春はきて 桜浮かべる阿武隈の 岸辺に座して酒を酌む ああ寮友の粋ここにあり」を叫びながら、イモ煮会で飲んだ日本酒は、格別でした。
写真1吾妻富士
写真1
吾妻富士

会津の「栄川」と「名倉山」、喜多方の「夢心」は名酒で、今も美味しく戴いています。ニクロム線の電熱器の上で、あじの開きをあぶって、寮生と飲む酒はひと味違いました。
2級酒1升520円、赤提灯で飲むコップ酒が一杯55円、仕送りが月2万円、月の授業料が2000円であった昭和40年前半の話です。
あぶさんのマンガがビッグコミック誌に連載し始めた頃です。写真1は、福島市内を見下ろす吾妻小富士で、頂に春の訪れを告げる「雪ウサギ」が浮かび上がっています。写真2は、猪苗代湖から見た表磐梯で、明治21年の大爆発で出来た五色沼など無数の池沼がある裏磐梯とは山容が全く違っています。会津磐梯山は宝の山です。
磐梯山
写真2
磐梯山


ウイスキーは何と言ってもハイボールです。学生の時「トリス」「レッド」を炭酸で割ったものを飲みました。ウイスキーが一升瓶に入っていた「キングウイスキー」も飲みましたが、決まってひどい二日酔いになりました。
一升がたったの500円でした。昔は田舎の酒屋に看板が出ていましたが、今はまったくお目にかかりません。私の大好きな山口 瞳(名著けっぱり先生をお勧めします)の影響で今でもハイボール党です。最近は、学生時代憧れだった角瓶のハイボ−ルを飲んでいます。
ビールは、コップ一杯だけで十分です。北アルプスの名峰常念岳の山小屋で飲んだ生ビールは、槍穂高連峰のパノラマを展望し最高でした。
かつて当院に赴任していた同僚は、自宅でビールを造り、勝田マラソン完走後ご馳走しくれました。焼酎は「真露」を水割りにし、キュウリのスライスを3切れ入れて飲んでいます。ポッピー割りもいけます。ウオッカは、ポーランド人に勧められ、グレープフルーツ割りです。
この10年、降圧剤を飲んでいるので、相乗効果を気にしながらの飲酒です。日本でよく手にはいるのは「スミルノフ」で、最近手に入った「ボンベイサファイア」「ショパン」は結構な味でした。ジンについては、学生時代生意気に「ジンリッキー」「ジンフィーズ」を注文した記憶があります。ワインは赤で、チリ、アルゼンチン、ハンガリーのものが安く、味に当たり外れがありません。10月にだけ飲むことが出来るシュトレームは、濁ったワインで、一度味わうと良いと思います。他に紹興酒、果実酒、甘酒、シャンペンを飲みました。
飲み過ぎた翌日の朝、枕元に置いたやかんの水をそのまま口にくわえて飲む旨さは、何者にも勝るものです。
酒、旅、恋を歌った若山牧水(1885〜1928)の酒の歌を3首掲げます。本当に酒が好きだった事が分かりました。朝に2合、昼に2合、晩に4合が一日の定量で、来客があると1日3升も飲んだようです。


足音を忍ばせて行けば台所にわが酒の壜は立ちて待ちをる
  さびしみて生ける命のただ一つの道づれとこそ酒をのもふに
  酒ほしさまぎらはすとて庭に出でつ庭草をぬくこの庭草を

以上は、筑摩書房・現代文学大系16・昭和41年発行からのものです。
当院常勤顧問で、私の恩師であった故小島 瑞教授は、仕事に厳しい人でしたが、酒に関しては寛容で、誰よりも酒を愛しておりました。
何が安心なのか分からないまま32年以上もお酒を飲んでいます。これからはお酒を静かに・楽しく・美味しく、司馬遼太郎・藤沢周平・山本周五郎の本を読みながら飲みたいと思っています。

かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ
  うらかなしはしためにさへ気をおきて盗み飲む酒とわがなりにけり
  朝酒はやめむ昼ざけせんもなしゆふがたばかり少し飲ましめ
  妻が眼を盗みて飲める酒なれば惶(あわ)て飲み噎(む)せ鼻ゆこぼしつ
  白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり

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1.9、追っかけ中年・神輿


京都は豪華な山車を持っているのに、東京は江戸っ子が代々受け継いできた山車を東京大空襲で失ったことに気付いた。戦後高価な山車に代わって、沢山の神輿が東京の街に登場したことを知り、大学の医局から離れた1980年、神輿の追っかけを始めた。
私の好きな町・東京は、いろいろの祭りが一年中何処かで行われいる。年々、東京人が空洞化現象で少なくなり、町内の人だけで神輿を担げなくなり、関東甲信越に住む祭り愛好会所属の若者が東京に集結し、各町内の法被を着て神輿を担ぐようになった。
神輿は、神が移動する時の乗り物で、古代では榊が用いられていた。輿が使われるようになったのは平安時代からで、今のような神輿になったのは室町時代以降で、大都会で発達したものである。追っかけ回数の多い浅草三社まつりを中心に、富岡八幡宮の水掛け御輿、房総半島大原のはだか祭りを紹介する。
首からスライド用一眼レフとプリント用バカチョンカメラをぶら下げて、5月中旬(18日付近の土・日)三社まつりに出かけた。多数のアマチュアカメラマンが、携帯用脚立を肩にかついでいた光景を見て圧倒された。
カメラ位置の確保で勝負が決まると、隣のカメラマンからアドバイスを受けた。町内御輿の他に、本社御輿が三つあり、何処を何時に通過するか書いた地図が配られた。
本社神輿は、鳳凰の下に一の宮、二の宮、三の宮と書いた木札が吊してあり、真っ白い晒しが太い胴に巻かれ、三本のピンク色の紐がくくられ、4面に鏡が掛けられている。その姿には貫禄と共に何ともいえない気品が漂っていた。
多くの見物客、担ぎ手が夢中になることもうなずける。ガードレールに昇り電信柱を背にして、さらに歩道橋の上からシャッターをきった(写真1)。
浅草三社まつり

(写真1)
浅草三社祭り


ひとつの町内が2時間の持ち時間で本社神輿を担ぎ、町内間の交替シーンがはなかなかのものである。色柄の違った法被を着た2町内が対峙し、若者が先棒争いをするのである。日曜朝6時の宮出しが祭りのハイライトであるが、今だ現場で見たことがない。
テレビで、早朝4時から8時まで御輿の先棒獲得の争いで、激しい喧嘩があったと報道し、1度その機会を持ちたいと考えている。そのためには最終列車で浅草に行き夜が明けるまで待たねばならず体力が必要である。
夜8時の宮入りを見に浅草寺の階段に場所を確保し、期待して待ったが、事故防止優先で、静かな幕切れであった。担ぎ棒の上面に三角の棒を固定し、棒の上に昇れないようにしてあった。直径10センチ位の神輿だこが、両肩に盛り上がっている神輿担ぎのプロが多数見られた。
掛詞をひとつ「三社祭りと掛けて、隅田川の花火ととく、その心は、共に江戸の華と美」(祭酔亭酒酔人)
3年に1度、8月14から16日に行われる富岡八幡宮の水掛け御輿を見物した。八幡宮は歴代の大相撲力士の記念碑で有名である。
大きなトラックの荷台をビニールで裏打ちし、防火ホースで満水にし、約20人位の人が荷台に乗り込み、水をバケツですくって、神輿にかけていた。
町内の人は、沿道にバケツを持ちながら見物し、神輿めがけて水をかけていた(写真2)。

富岡八幡宮の水掛け御輿



(写真2)
富岡八幡宮の水掛け御輿




家から水道のホースを引っ張り、水をかけている人も多数いた。
「水かけ神輿とかけて、富岡芸者の米丸・卒丸姉妹ととく、その心は、江戸っ子の粋(いき)」(走酔帝狂酔丸)
他に、山王(日枝)・神田・くらやみ(大国魂)・下谷・鳥越・万灯(隅田稲荷)まつりがある。 (付)9月23・24日房総半島外房大原のはだか祭りを見た。
大原は椿で有名である。無理な姿勢で土手に登る時ぎっくり腰になり、帰りの車中は地獄の痛みを味わった。翌月曜日は病院を休み座薬の世話になった。
長い二本棒の神輿が10基以上集合し、九十九里浜の荒海の中で、数時間もみ合う様子はなかなかのもので、神輿を差し上げた情景は写真になる(写真3)。
大原はだか祭り

(写真3)
大原はだか祭り



首から2台のカメラをぶら下げ、右肩に脚立を、背中にザックを背負い、右手に缶ビール、左手にいかのげそ焼きを持っている中年を見つけたら、声をおかけ下さい。

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1.10、じっさまと長寿


私の祖父は、明治16年生まれで、下駄小売業を営み、108才9ヶ月の天寿を全うしました。
平成3年9月に亡くなるまでの最後の3ヶ月間は男性長寿日本一という輝かしいおまけがつきました。写真1は本人自筆の記念手拭いで、写真2は記念湯飲みと親戚に配布した小寸こけしです。
じっさま自筆の記念手ぬぐい



(写真1)
じっさま自筆の記念手ぬぐい



記念湯飲みと小寸こけし

(写真2)

記念湯飲みと小寸こけし



私の勝手な解釈ですが、祖父から学び取った長寿の秘訣?を報告したいと思います。
おしゃれでした。毎日自分でズボンを寝押し、散歩の時はプレスしたズボンに着替え、杖を色々取り替えて103歳まで散歩しておりました。
生活にリズムとアクセントが必要と思います。
立ち直りが早かったです。103歳の夏、肺炎で初めて入院した時の出来事です。病室内のトイレ到着寸前で、大便をそそうをしてしまいました。30分間は首を垂れしょげかえっていましたが、突然「車椅子で病院内を案内してくれ」と言い出しました。
カーテンで隠していたのですが、病院隣の墓地を見た祖父は「この病院は便利な所にできている」と突然元気を取り戻し、落ち込んでいた事をすっかり忘れてしまいました。立ち直りが早いという意見と、老人性痴呆症の為という意見がありました。
お金への愛着が人一倍でした。毎日何回も、首に下げた財布からお金を取り出して、うっとりしながらお札を数えていました。
毎朝、ベットの周りに千円札が落ちていました。夜、自分で長い紐を引っ張って電気をつけ、財布からお札を取り出して枚数を数えるが、お札を財布に戻し忘れて途中で寝てしまい、ばらまいてしまったようです。
自分に甘く、他人に厳しい人でした。毎日一生懸命に祖父の世話をしている当時71才の母に、「自分は先が無いからもっと大切に世話をしろ」と言ったそうです。
ちなみに母は腰が曲がり、骨粗しょう症で、腰痛持ち、祖父は5年間寝たきり老人です。母は、「どちらが先か分からない」とグチっていました。
目標を持っていました。「俺は絶対日本一の長寿者になる(長者だったら良かったのですが)」と始終言っていました。目標が達成したのですから、大したものです。
食事は一日二食でした。昼は一合の牛乳です。腹八分目で、過食はせず下戸でした。毎日朝晩同じ食事で、ご飯、玉子入り味噌汁、鮪の刺身3切れ、トマト3切れ、小豆入りあんこ、こうなご、煮物でした。好物は、中トロ鉄火丼でした。
時代が良かったと思います。経済企画庁長官堺屋太一氏が名著「風と炎と」の中で次のように述べています。…65才以上の高齢者の割合が少なく、15才未満の若年者層が多かった時代はよかった。
日本人は、数少ない高齢者を手厚くもてなすことを美と思っていた。これを『好老社会』と呼ぶ。生活が豊かになると子供が減り、住宅事情が良くなっても社会福祉がよくなっても出生率は低下する。1960年頃は15才未満の子供は30%を占め、65以上の高齢者は8%だった。しかし2000年迄に子供と高齢者の割合が逆転する。
今の世界では、人類は「若く見える」事を喜びとし、「老けている」事を嫌う。現代は好老社会でなく『好若嫌老社会』で、高齢者隔離の方向に進んでいる。著者は、今後の人類の目標は、『好老社会の創造』であると提言しています。
おわりに。50歳定年から58年間生き抜きました。公務員であったらなあと思います。20歳の頃、国鉄(現JR)でアルバイトをしていました。列車による轢死体の処理が嫌で辞めてしまいました。58年でいったいいくらの恩給がいただけたのでしょうか。
祖父の弟は国鉄に勤め、45年間恩給を貰い、高級住宅に住んでいました。私の両親は、現在ビー玉が転がる傾いた家に住んでいます。法事で一族が集まると話題に出るのが、祖父はいったい誰の寿命を奪ったのかです。

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2.1、病理のお仕事


 最近「病理の先生は解剖以外にどんな仕事を」という質問を受けることが多い。
卒後30年間に、親に何十回と病理について説明したが、いつも最後は「おまえは何科で開業するのか」という質問が返ってきたものだ。こんなことから、病理の仕事を説明する。
 病理は、@生検・細胞診検査、A手術材料検査、B解剖検査の3部門からなっている。
@胃に痛みがあった場合、胃の中に小さなカメラを入れ、病変部を採取し、顕微鏡で良い病気か悪い病気かを判定する。生検検査である。また、痰や尿に出ている細胞を検査するのが細胞診検査である。
A病変部が悪いもの(がん)と判定されると、手術がなされ、手術材料を短冊状に切り出し、標本から病変部の地図を作製する。がん細胞が増殖している胃壁の深さ(表層の粘膜に限局しているのか、深層の筋層あるいは筋層を越えているのかを判定する)と、がん細胞が血管内、リンパ管内あるいはリンパ節に入り込んでいるか、手術断端面や切離面に顔を出しいるかを判定する。以上が手術材料検査である。
B臨床医の懸命な治療にもかかわらず、原因がはっきりしないで亡くなられた時は、故人と一番近い親族の許可を戴き、死体解剖資格認定証明証(大学教授の指導の元で5年以上病理学を研修し、20体以上の病理解剖を行い、厚生省に申請し、厚生大臣から戴く)を持つ認定病理医によって解剖がなされる。
肉眼所見と顕微鏡所見で原因を判定し、今後の医療に役立てる。以上が解剖検査である。病理解剖報告書の提出後、臨床医と病理医は検討会を開き、問題点を充分に議論しあう。研修指定病院申請のために、年間の解剖数が病床数の10%の50体が必須条件で、我々一同はその対応に出来る限りの努力をしている。
いつでも出動できるように晩酌は2合までと定めている。解剖、写真撮影、肉眼所見の記述、検体の切り出し、検鏡、剖検報告書作成、日本病理学会への剖検書類提出という一連の作業を行い、1体の解剖業務に約8時間かかる。病理医、技師の協同作業である。
 標本作製には以下の2通りある。胃カメラで採取された直径約2〜3mmの検体をホルマリン(呼吸器と皮膚に対し有害物質)で固定し、アルコールとキシロール(呼吸器系有害物質)で処理し、パラフィン(ロウソクのロウ)に埋め込む。パラフィンブロックという。ミクロトームという機械で、パラフィンブロックを約4ミクロン(1mmの1000分の4)の厚さで切り、ガラスに貼る。替刃の普及が大きな進歩をもたらした。
卒業したての頃は毎日刀を研ぐ仕事があった。パラフィンを溶かし、自動染色装置で染色する。細胞の核は青色、胞体は赤色に染め分ける。接着剤を載せ、自動封入装置で薄いガラスで被うと出来上がりである。
 尿中の細胞は、試験管を遠心機で回し、細胞を試験管の底に集める。特殊遠心機で直径約5mmの中に細胞を自動的に集め、細胞をガラスの上に付着させる。アルコールで細胞を固定し、染色する。細胞の核は青色、細胞の胞体は赤色と緑色に染め分ける。1次と2次の難しい細胞診試験を合格した技師(細胞診スクリーナー)が細胞の良性悪性を判定し、病理医が診断する。
 他に手術中の迅速検査がある。−20度で凍らせた未固定生標本で切片をつくり、腫瘤が悪性か良性か、断端部にがん細胞が残っているかの判定をする。約10分という短時間で標本を作製し、各手術室と直通電話で病理診断を伝える。手術断端部にがん細胞が残っていれば追加切除が行なわれる。凍結切片はパラフィン切片より数倍厚く、核が重積しがんの判定が難しい。
 病理検査技師は特殊技術を持つ職人で、仕事の多くは手作業である。生検・手術検体の処理、標本作製、系統解剖学の理解、病理解剖の手技をマスターするには多くの時間とトレーニングが必要である。有害物質が多く、スタッフの健康管理のために換気装置の設置が望まれる。ホルマリンは重く床面から排気し、きれいな空気を天井から吸気する事が必要である。アルコールとキシロールは発生部からの直接排気が必要となる。
 病理検査は全身の臓器を診断するため、年間約1.5%の症例(約100例)は、スペシャリストによるダブルチェックとコンサルテーションをお願いしている。ひとり病理医にとって一番重要なのは、何人のスペシャリストと交流を持っているかである。自分の診断能力を超えた症例を容易に診断してはいけないと自分に言い聞かせている。
 最近の大学病院ではテレパソロジー(テレは遠いパソロジーは病理の意味、地方病院のためのインターネットを利用した手術中の遠隔病理診断)を行ない、地方病院手術室と大学病院の病理室を電話回線でつなぎ、短時間で病理診断を行なうことで地方医療のお手伝いをしている。術中診断を行なえない時は再手術をしなければならない場合がある。
 仕事について標語もどき短文を作った。
<解剖業務について>
  ポケベルと携帯電話枕元 朝を迎えてほっとする一瞬
  ピーピーと鳴る機械音 暗闇の中のポケベルの電池切れ
  ポケベルでスポーツジムからお呼びだし 解剖業務で技師さんに感謝
  新年度新人先生がんばれよ 勉強になるよ解剖の見学
<病理診断業務について>
  分からないことが分からなくなり 動脈硬化かアルツハイマーか
  良性を悪性としたら手術され 逆だったらばああ恐ろしや
  今日もまた難解例に時間食い 捨ててしまいたい貴重な標本
  観たことある像なんだっけ カラーアトラス絵合わせゲーム
<健康問題について>
  ホルマリン体にわるい固定液 床から排気天井から吸気 
  目鼻のどしょぼしょぼホルマリン ガスマスクつけいざ切り出しを
  キシロール神経麻痺させどうするの 定年後に気づく体の不調
  アルコール朝から嗅いて酔っ払い アフターファイブでまた酔い戻す
<病理学の現状について>
  頭から足の先まで勉強し 時間かかるよ病理の研修
  考えよ研修制度の見直しを 人体病理医希望者減少
  本読めば沢山あるよ病気の名前 自信が出たころ定年退職
  医学界遺伝子診断全盛時代 人体病理これからどうなる

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2.2、高木の慈恵と北里の慶応


政界と東大閥と軍医を中心とする官の権力に対し、毅然と対処し、官職を辞し、私立医学校を立ち上げた二人についてまとめた。
ひとりは、脚気論争を展開、脚気予防法を訴えたが聞き入れられず、東京慈恵会医科大学を創設した高木兼寛(1849‐1920)である。もうひとりは、私立伝染病研究所(旧伝研)を創設し、多数の成果をあげたが東大権力によって追い出され、私立北里研究所を作りさらに慶応大学医学部を設立した北里柴三郎(1852-1931)である。附属病院の芝病院が現在の済生会中央病院である。
1915年のこと。吉村昭著「白い航海」と篠田達明著「闘う医魂・北里柴三郎」を参考にした。
 脚気はビタミンB1欠乏症で、白米病・江戸わずらいと言われ、徳川第3、13、14代将軍が脚気で死んだ。当時脚気は戦争前の結核や現代のエイズと同じ不治の病であった。
精白された白米で鶏を飼うと人間の脚気に似た症状が現れる。
脚気は足のむくみ、手足のしびれ、動悸、食欲不振、歩行障害、視力減退を示し、重傷者は心臓麻痺で死んだ。末梢神経の軸索が変性、崩壊し、細胞浸潤を示し、多発性神経炎がおきる。
 当時日本の医学機構は3つあった。
@東大(文部省)は適塾の長与専斎が、
A陸軍医学は佐倉順天堂の松本良順(司馬著・胡蝶の夢)が、それぞれドイツ医学を取り入れた。独医学導入は、佐賀生まれの相良知安が提唱し、佐賀出身の副島種臣と大隈重信、元鍋島藩主鍋島閑叟、元越前藩主松平春嶽が賛成した。佐倉順天堂(1839開設)の佐藤泰然と息子の舜海と進、司馬凌海、ポンペが加わった。基礎医学とくに病理学と細菌学を重視した。一方、
B海軍医学は戊辰の役で活躍したウイリスの指導を受け、イギリス医学を採用した。英医学は実証主義に基づく病気の治療を重要と考え、薩摩の西郷と大久保、福沢諭吉と元土佐藩主山内容堂が後押しした。
結局英医学は排除され、我が国は以後オランダ医学にかわりドイツ医学を採用することとなった。
 高木兼寛は宮崎県生まれの薩摩の人、父は大工。20才で鳥羽伏見の戦いに官軍の医者として参加。会津との戦争で平潟(高萩市)へ上陸、平藩を倒し、三春、二本松を降伏させた。戊辰戦争中、ウイリスが行なった足切断手術を見学、英医学に興味を持った。海軍医学校に勤務し、ウイリスの勧めで1875英国セント・トーマス病院(ナイチンゲールで有名)へ5年半留学した。
 地方の次男三男は、米がたらふく食べられるので兵隊を志願した。軍隊の食事は金で支給され、小兵は大半の金を国元へ送った。米だけを食べ副食物を摂らなかったので、士官より脚気にかかった。窒素成分の蛋白質が少なかったのである。
海軍は4500人中1500人が脚気にかかり32人が死亡、その後4年間で146人が脚気で死んだ。南米への実地航海訓練中378人のうち23人が死亡した。
外国の港に碇泊中は洋食・肉食を食べていたので脚気にかからなかった事実から、1882から86年にかけて、高木は麦飯と肉食の実験を行い、仮説が正しいことを証明した。しかし脚気予防制度の確立は政府が独医学重視であったため困難を極めた。
日清戦争(1894)で海軍は1名、陸軍は4000人が脚気で死んだ。日露戦争(1904)で海軍は海兵5000人中死亡者はなく、陸軍は陸兵5万人中2.8万人が脚気で死んだ。陸軍が米食至上論と自給自足を唱え続けた結果の悲劇となった。それに対し海軍は、脚気予防法を確立し、日本海軍の脚気を根絶した結果、日清日露海戦を勝ちぬいたのである。
 森鴎外(1862-1922)は津和野の人、東大医を卒業後、ドイツに留学し衛生学を研究、陸軍軍医総監に昇進した。森鴎外は終始米食至上論を唱え、海軍における洋食と麦飯を一貫して批判した。
加えて、東大の緒方正規細菌学教授は「脚気病菌発見」と発表、空気感染から避けるため住居の改良を訴えた。陸軍は、木が唱えた脚気の米食原因論には理論的裏付けがないと終始反対した。陸軍軍医の中に脚気が囚人に少ない事実に気づいていた人がいた。
囚人は麦飯を食べていたからである。東大と陸軍軍医部の権威主義が木の脚気米食原因説を批判し続けた。
犯罪である。海陸両軍の対立となった。写真1は25才の木である(慈恵医大史料室提供)。
 以下整理する。漢方医遠田澄庵は、1878年脚気の米食原因論をすでに報告。1882年木は海軍で兵食改革を実施。1911年鈴木梅太郎は「オリザニン」、フンクは「ビタミン」を発表。1919年島薗は脚気の動物実験に成功。1920年高木死亡。1921年大森は脚気の人体実験を報告。1925年脚気はビタミンB1欠乏症と確定。1926年ヤンセンとドナートは米糠から結晶を精製。1929年ビタミンB1発見のエイクマンはノーベル賞を受賞した。
 板倉聖宣は「模倣の時代」のなかで、脚気論争を総括している。高木は「論より証拠」でなく「証拠より論」をおしとうし、西洋(特にドイツ細菌学)の模倣に対する警鐘のひとつになったと述べている。
 北里柴三郎は庄屋の長男、19才で熊本医学校に入学、恩師の退職に伴い23才で東大に再入学した。34才でドイツ・ベルリン大コッホ研究室へ留学、37才で破傷風菌は嫌気性で熱に強い事実を発見、破傷風菌純粋培養の濾液(毒素)が破傷風を引き起こすメカニズムを解明、細菌毒素で免疫した血清(抗毒素)を与えると病気にかからず、感染し発病してもなおる治療法(血清療法・現免疫療法)を確立した。
欧人だったら「破傷風の血清療法」で1901年第1回のノーベル賞を単独で受賞したと思われる。一歩引いても、「破傷風とジフテリアの血清療法」でベーリングと一緒に受賞をしたと考える。実際はベーリングが「ジフテリアの血清療法」で受賞した。誠に残念。
後日ベーリング自身は、北里の先駆的研究と献身的な協力のお蔭でノーベル賞の仕事が出来たと強調している。40才でドイツから帰国したが、横槍が入り復職できなかった。
上司の長与専斎は北里の国外流出をおそれ、緒方洪庵の適塾(司馬著・花神)の仲間である慶大福沢諭吉(1834-1901)に相談し、福沢は土地と研究所を無償で提供、私費援助を行なった。港区芝公園内に私立伝染病研究所を開設した。パスツール研究所とコッホ研究所をモデルに、10坪の私立研究所から出発したのである。7年後国立に移管。
20年後、突然内務省管轄から財政再建策という名目で文部省傘下になった。謀略である。内務省の旧伝研が文部省東大の附属研究機関に格下げになり、20年かけて育て上げた研究所を政界、医学界、軍部の圧力で簡単に奪い取られたのである。相手は天皇の侍医で東大医学校校長の青山胤通、大隈首相の主治医を勤め、森鴎外の応援を得ていた。
敵は北里を「研究者というより政治屋、事業家、独裁者」と見ていた。北里側は結核療養所が母体となり、原敬、長与専斎、後藤新平、全国医師会が応援した。断固反対し直ちに旧伝研を辞職、私立北里研究所設立を設立した。65才北里研究所を母体に慶大医科を再興した。
東大頂点のピラミット型教育システム、研究至上主義と閉鎖性の打破を目指し、病人と開業医のための大学設置を行なった。職員には怖れられ、患者さんにはやさしく、看護婦さんを重視し大切にした。北里のペスト菌、志賀の赤痢菌、秦の駆梅薬サルバルサン、北島の抗ハブ血清、狂犬病ワクチン等の発見がなされた。
 北里研究所創立50周年を記念し、昭和37年に私立北里大学が出来た。一方、東大付属伝研は、昭和42年医科学研究所(医科研)と名を変え、癌の遺伝子治療と免疫療法、エイズ治療で成果を上げている。写真2は北里柴三郎記念室のパンフである。
 官対民・医学編に関わった人物を紹介した。東大閥の医学支配に終始抵抗した反面、政界、官界、学界の代理戦争に巻き込まれたようである。政治官僚の世界は二枚舌がきくが、科学はそれがきかない。
この脚気論争と旧伝研移管に森鴎外が見え隠れする。権力願望が極めて強く競争相手を許せない性格のようである。文豪森は文壇では名を成したが、医学では百害あって一利無しという人もいる。高木と北里は下野させられたが、勝者となり、私立医学校をつくり、研究本位の医学でなく患者本位の医学を創造したのである。

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2.3、うつくしまいじん伝(1)


 福島市は中通りに位置し、1時間で海、山、湖、温泉、スキー場へ行くことができ、風光明媚なところである。1967年から80年(18才から31才)まで阿武隈川のほとりで、毎日吾妻連峰を眺めながら暮らした。第二の故郷である。福島が生んだ偉人(医人)を紹介する。
 2003年は吉田富三生誕100周年で、癌研究の記念イベントが企画されている。親は作り酒屋。小学校卒業後、進歩的な母親は「人のためになる人間になれ」と東京の学校へおくりだした。
東大卒業後、佐々木隆興と巡り会った。佐々木家は代々医師の家系で、東洋、政吉(東大教授)、隆興(京大内科教授)と続き、御茶ノ水の神田駿河台にある杏雲堂病院の院長を勤めた。隆興は化学物質による臓器の形態学的変化をテーマに研究を続けていた。吉田と研究を行ない、深紅色の色素を油に溶かし、米粒にまぜて120日以上ラットに食べさせると肝臓ガンをつくることが出来た。昭和7年(1932、5・15事件)のことである。直接接触する食道と胃に変化がなく、離れている肝臓にガンが出来たのである。世界ではじめて化学的刺激で内蔵癌を作るのに成功した。
吉田富三

吉田 富三


なお、皮膚ガンは大正3年(1914)山際勝三郎と市川厚一がコールタールをウサギの皮膚に塗布してつくられた。
 アゾ色素でつくったラットの肝細胞癌を乳鉢ですりつぶし乳状にしてラットの腹腔へ注入したが、腹水癌は出来なかった。アゾ色素をえさに混ぜて3ヶ月間食べさせてから、ヒ素化合物をアルコールに溶かし1週間に3回皮膚に塗布した。塗りはじめてから4ヶ月後に右睾丸に腫瘤が、2週間後に左睾丸に腫瘤ができ、腹部が腫れてきた。
昭和18年(1943)のこと。ラットの腹に牛乳のような白濁した水がたまり、腹水中にガン細胞がうようよ浮いてきた。腹腔内に移植可能な腹水癌がはじめて出来たのである。畑(間質)が無い状態でガン細胞がとれ、ガンの実験に有用な系ができたわけである。長崎系腹水肉腫の誕生で、昭和23年吉田肉腫となった。移植が簡単で、制癌剤への道が開けた。長崎時代に腹水癌を発見したが、その時考えると東京・佐々木研究所でもこれと同じ腫瘤ができた動物があったようだったと述懐している。
現象に気づくことが大切なのである。
 戦時中の昭和19年、4匹の腫瘤を植え継いだ腹水癌ラットと10匹の移植のためのラットを長崎から東京へ、それから仙台へと移送した。食糧難の時代、家族と自分の食べ物をラットに与え、汽車を乗り継いでラットを運ぶ苦労は想像がつかない。長崎大教授から東北大教授への栄転が無かったら、腹水癌はなく、癌研究の成果も無かったろう。後任の長崎大病理学教授は講義中原爆投下の犠牲になった。
 昭和26年(1951)石館守三との協同研究で、細胞分裂を抑制する抗がん剤ナイトロミンの合成に成功した。抗がん剤研究のスタートである。現在、ある種のリンパ腫が結核なみに治るようになったのである。
 昭和46年(大学5年)秋、医学祭記念講演をしていただいたが、講演内容を全く覚えていない。学生運動がやっと鎮火し、残務整理をしていた時、無気力になった学生をまとめ、医学祭を成功させた実行委員の努力に感謝したい。私が卒業した昭和48年に70才でなくなったので、病理学会でお会いした事はない。吉田家の墓(駒込吉祥寺)にラットの墓(シロネズミの碑)がある。
 顕微鏡を考える道具とした最初の思想家といわれた。富三語禄を以下に記す。人生に理想をもたない者は論外だ。癌には個性がある。人生とは思い出の集積である。病理学は死を納得するための学問だともいえる。納得できない死のひとつが戦争死である。病理学者というのは死者の唯一の仲間なのだよ。医師は社会の優越者でない。医師には自己犠牲を伴う。かばんの帯に「時は金なり」と。
 水戸から北100kmの所に花火の里・浅川町(福島県石川郡)があり、約10年前にできた吉田富三記念館(写真)を見学し以下メモしてきた。標本のラベルに1960年福島医大病理と印刷された胃の手術標本があったのが不思議であった。
おしゃれでコートをはおり、パイプ収集が趣味だった。音楽を楽しみ、絵をよくし、セザンヌの絵が好きだった。亡くなる直前まで司馬遼太郎の「逆の上の雲」を読んでいた。国語(漢字仮名交じり、表意文字)教育の重要性を訴え、漢字廃止論に反対したという。吉田富三の長男で、NHK大河ドラマの名プロデューサー吉田直哉著「癌細胞はこう語った」と、塚本哲也著「ガンと戦った昭和史」を参考にした。
生活のため東大を飛び出し人生を切り開いた病理学の怪物である。多くの弟子を育て、若者に夢を与え、面倒見の良い人であったらしい。

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2.4、うつくしまいじん伝(2)


 福島の偉人(医人)を紹介する。野口英世(1876-1928)は明治9年磐梯山の麓、小原庄助さんの猪苗代で生まれ、幼名清作、囲炉裏で左手を火傷した。
20才、合格者が80人中4名という難関の医術開業試験に合格。21才、順天堂医院(現順天堂大医学部)を経て、伝染病研究所(旧伝研、恩師福沢諭吉の援助で北里柴三郎が創設)へ入った。
東大出の研究者が幅を利かせていて苦労したようだ。坪内逍遥著「当世書生気質」の中に、主人公野々口精作があそび人として描かれていたので、清作から英世へ名を変えた。伝研を訪れたペンシルバニア大学病理学フレキスナー教授と出会った事が大きな転機となった。
野口 英世

野口 英世


 23才で渡米。教授の元で蛇毒(赤血球を溶かす)を研究し、ガラガラヘビの抗毒素の免疫血清を10ヶ月で作った。研究だけは他人の助けを借りず、不眠不休、夜を日についで、一瀉千里で仕事をやり、スタッフから「人間発電機」「24時間人間」と呼ばれた。27才、創設時のロックフェラー研究所助手になり、さらに正職員に昇格した。
 34才、梅毒病原菌スピロヘータの培養に成功した。試験管内に腹水を入れ、兎の腎臓片と睾丸で分離したスピロヘータを加え,液の上に油を浮かせ、ガラス器の中でポンプを使って空気を抜く方法だった。現在、野口の純粋培養は追試が試みられたが成功したものはなく、この業績は疑問視されている。38才、精神病の半分を占める麻痺性痴呆症と脊髄ろうの原因が梅毒である事を証明した。これが現在でも受け入られている業績で、ノーベル賞に値すると言われている。スピロヘータは従来の染色法では染まりにくく、背景を墨で黒く染める方法や銀メッキをして見る方法がある。いずれも判定が難しかった。約一万枚目の標本でやっと隠れていたスピロヘータを発見出来た。今まで見た標本を見なおしたらすべての標本に確認できた。根気強く顕微鏡を観察した結果である。梅毒の治療を行なえばある種の精神病が治ったのである。
 40才、日本に凱旋し、有名な昼餐会が大阪箕面公園の琴の家で開かれた。<琴の家における野口博士の孝養>として語り継がれている。野口は母シカに出された刺身、焼魚、松茸のお汁を一つ一つ説明しながら、自ら箸でとって母の口へ運んでやった。偉い先生方が居並ぶことなどかまわず、ひたすら老いた母に孝養を尽くした。名妓さんが感動して泣いたと新聞に報道された。
中南米で行なった黄熱病研究でレストスピラ菌として発表したが、受け入られなかったので、これを証明するためにアフリカへ渡った。彼は黄熱病には南米型とアフリカ型があり、開発した野口ワクチンは南米型にだけ効くと考えたらしい。野口は南米で罹患し野口ワクチンが効いて治り、アフリカでは治らず、最後に「私には分からない」という言葉を残してアクラで死んだ。
ピークを上り詰めた40才から亡くなるまでの期間は、多くの細菌がすでに解明され、残りは僅かであった。素焼きを通すウイルスの存在が不明であった。黄熱病は高熱、黄疸、頭痛、呼吸困難を発症し、3、4日で死亡、致命率が40から70%であった。ウオルター・リードが黄熱病ウイルス説を発表し、マックス・セイラーが黄熱病ワクチンをつくり、1951年ノーベル賞に輝いた。野口はトラコーマ研究でうまく行かず、小児麻痺と狂犬病の原因の発見でも間違っていた。いずれもウイルス性疾患であった。
 渡辺淳一は「遠き落日」の中で、野口英世を、大言壮語、図々しい、鉄面皮、大胆不敵、野心、傍若無人、天真爛漫、金に破廉恥、浪費癖、借金の天才、あそびずき、渡米旅費を酒と女に浪費、スポンサー探し・自慢話・演説・処世術・気分転換がうまい、かたり、放蕩、情緒昂揚型性格、金銭的に性格破綻者、名文家、虚栄心、照れない、語学の天才、法螺、借金魔、ナルシステックな性格、癖がある、平衡感覚がない、生活人として欠落者、完全主義、孤独、唯我独尊的仕事、奇行が多い、エゴイスト、法螺を吹いて新しいファイトに、躁鬱的性格、自分を臆面無くプッシュする、哀願することに恥じない、不具でおさえつけられてきた日頃のうっぷんをはらす、と表現している。それらはいずれも彼の才能であると規定している。
 スポンサー探しがうまく、多数のパトロンがいた。小林栄先生は高等小学校教諭、パトロン第1号。会津で出会った東京の歯科医師血脇守之助が第2のパトロン。大口パトロンに星製薬社長星一氏と今の金で2〜3000万円の援助をした地元の大金持ちYさんがいた。Yさんの子孫が私の大学の2年先輩にいて、現在外科医院を開業しているが、1970年頃そのような小話があり、1980年「遠い落日」を読んで、その記述に驚いた。その他小口パトロンとして、学生、同僚、隣人と顔を会わせた多くの人から無心した。野口に会うのを怖れたらしい。
 渡辺淳一のあとがきと郷原宏の解説は以下にまとめている。裸の野口像を書き野口の偶像のうち一部を破壊したが、素直な野口像がかえって身近な存在になり蘇えり、野口像は我々に感動させる存在になったと考える。野口の業績にはいくつか誤りがあるのは事実だが、40才以降の研究対象はすべてウイルス性疾患で、光学顕微鏡では見えず、電子顕微鏡はまだ発明されていなかった。細菌学からウイルス学への過渡期を送った悲劇の学者といえる。
これが自然科学の厳しさである。一人の人間として精一杯に激しく生き、強烈な個性と魅力は誰もが納得する。研究だけは他人の助けを借りなかったのである。郷原は「時代と読者が現物とは似ても似つかぬ英雄像つくりだすことになったのである」、「軍国主義の国威発揚と領土拡張政策が、過度の刻苦勉励と親孝行という偶像を作り上げた様である」、「伝説や神話に類するものが修身教科書になり教育の教材に利用されたのである」、「モラリスト、ヒューマニスト、国際的文化人として描かれ、生きた人間の伝記にはほど遠い児童向け伝記、立身出世物語とし、努力と忍耐の重要性を説いている」、「ヒューマニストとエゴイスト、細菌王と借金王、親孝行と道楽息子、国際人と日本人と対比できる」と述べている。
 本人はノーベル賞を取れると語っていたが、戦争国であったことが不利であった。馬場錬成は「ノーベル賞の100年」の中で、逆境をはねのけて世界の医学研究のトップと渡り合った野口の業績は学問的にいくつか誤りがあったとしてもいささかも損なわれることはなく、これを補ってなお余りあるものを世界の医学界と日本人に残した」と述べている。他に、平澤興著「医学の足跡」を参考にした。  2004年、夏目漱石に替り野口英世が新千円札に登場する。

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2.5、うつくしまいじん伝(3)


 福島が生んだ偉人(医人)大原八郎(1882‐1943)と夫人リキの話を紹介する。
 野兎病(大原病)は野兎との接触感染症で、野兎の皮をはぎその肉を料理したひとにかかるが、その肉を食べたものには発病しない正体不明の病気であった。悪寒戦慄、野兎に触れた方の肘や腋窩のリンパ節腫脹、を特徴とする病気である。野兎の間で野兎病をひろめているのは一種のダニで、人間が直接ダニから野兎病をうつされることはない。セフェム系抗生物質は無効で、ストレプトマイシンとテトラサイクリン系が有効である。
病理学的には結核、梅毒、癩と同じ特殊性炎に分類され、中心部に膿をつくることが結核と違う。野兎の間では多くは敗血病で斃死するが、日本人の死亡報告は無い。アメリカの菌は強く死亡率は5%であった。  大原は旧姓阿部、農家に生まれ、大原家の長女リキと結婚し養子となった。子供の頃の夢が、「便所でも寝られるくらいきれいで大きな病院を建てること」だった。京大を卒業し耳鼻科と外科を専攻し、東北大助教授を経て、福島市にある家業の大原総合病院の副院長を勤めた。1923年(関東大震災)12月、親子3人が同一原因で、同症状を呈し、しかも同時に侵されて来院した。母が生きた野兎を捕まえ、弟に剥皮させ、兄に料理をさせたという。大原41歳。
 1925年大原は、「野兎を介して感染する急性熱性疾患について」を発表した。野兎病で死亡した野兎の心臓を無菌的に取りだし、健康な3人の左手に血液を塗った。
人体実験である。大原夫人リキには、兎の血液を塗ってから20分後に石鹸洗浄しただけで消毒しなかった。2日後軽い頭痛と塗布部腋窩に疼痛を覚え、4日目悪寒発熱が出現、血液を塗った方の肘や腋窩のリンパ節が腫れてきた。野兎の間に流行する野兎病と同じものが人間に感染したのである。病原菌が人間の健康な皮膚を通過して侵入する事がはっきりしたわけである。18日後腫脹したリンパ節を摘出した。残りの2人(人夫と看護婦)は塗布後10分で石鹸洗浄した後昇汞水で消毒したので発症しなかった。以上から発症条件と予防が確認された。華岡青洲の妻が思い起こされる美談報道と、単なる自分の功名心だとする非難とがあった。
 県衛生課の石川技師と友人の軍医芳賀は、野兎の臓器と夫人のリンパ節から菌の分離に成功し、グラム陰性の球菌あるいは双球菌を大原芳賀球菌と名付けた。
患者血清をアメリカの衛生研究所へ送り、ツラレミア(野兎病、1911年米国加州ツラレ郡で発生)に対する血清凝集反応を依頼、陽性を示した事から、米のツラレミアと大原発見の野兎病が同じ病気である事が証明された。米の技官の助言を得て、生きた雌鶏の腹を切開し、未成熟卵を無菌的に取りだし、卵黄食塩水培地を作って菌の純粋培養に成功した。
 細菌学者の藤野は「大原の業績は一つの新しい病気を発見し、その病原菌を確認できた事である。この病気と同じものがアメリカでツラレミアと呼ばれていることを明らかにした」と述べている。現在も附属大原研究所内で、人畜共通感染症研究が行なわれている。
本間玄調

本間玄調


 野兎病に関する最初の文献は、華岡青洲の弟子で水戸藩侍医本間玄調(棗軒)(1804‐1872、済生みと25号参照)が1837年に「家兎中毒」、1852年に「中兎毒」として発表したものであった。流行病、発病経過、潜伏期、化膿自壊、穿刺排膿、予後良好の記載は極めて正確であった。「兎肉を食する者は必ず毒に病むもの多し」が「兎の皮を剥ぎ、若しくは料理したる者は・・・」と記載しておれば学術論文として完全であった。
本間幻調

本間幻調


食中毒ではなかったのである。極めて残念。大原八郎の四男夫人が本間玄調の曽孫、という不思議な血縁関係に驚いた。福島と水戸が結び付いたのである。本間家代々の墓標は水戸市の二十三夜尊桂岸寺(保和苑)にある。
 野兎病菌の細菌兵器研究は、日本が中国で1932年から、米露が1950年頃から行なわれてきた。テロリストによる生物兵器としての危険性がある。
 平澤 興著「医学の足跡」と、中島健蔵(八郎の義父)著「日本の野兎病研究初期」(日本細菌学外史)を参考にした。

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2.6、大山北壁の崩壊


 小学4年(1959)の時、従兄弟に勧められ、記念切手を集めるようになった。郵便局に行列が出来た。東京オリンピックの記念切手は6次まで発売され、親が、子が、郵便局に並び小さな問題になった。日本地図を広げ、カタログの国立公園シリーズをめくり山の風景を眺めていた。大山の南東に蒜山が載っていたが、ダイセン・ヒルゼンと読めなかった。大山を忘れた。
 1973年社会人になり、深田久弥の「日本百名山」を読み、出雲風土記の「国引き」の神話に出会い、大山への気持ちが沸き、登る機会が巡ってきた。
 1981年5月下旬、宇部市へ出張した。鈍行で下関市に出て、駅前にある昔ながらの銭湯に浸かり身を清めた。大山は富士、木曽御岳、加賀白山と同じ信仰の山である。寂しい夜行列車で早朝米子駅に着いた。バスで大山寺へ。雨がしとしと降り大山寺部落を見学した。みやげ屋の民宿に泊ったが、客は一人であった。翌朝、山頂はガスで見えず、夏山登山コースを登ることとなった。頂上(1711m)に到着した途端に晴れ、眺めがよかった。北壁の崩壊が激しく、鋭く切れ落ち、「剣が峰へ縦走しないように」と標識が立ててあった。2年後、職場のワンゲル部員は、このナイフリッジを震えながら渡ったと自慢していたが、バランス感覚とくそ度胸を持っていたのだろう。無謀な登山といえる。下山すると、大山神社の例大祭で賑わっていた。境内と社殿で山伏姿に扮した若者が、太鼓の乱れ打ちをしていた。迫力満点で、ドンドンと心臓に響いた。多数の露天が出て、古着や農具を売っていた。焼印する金属製の道具を売っていたが、用途は分からなかった。金剛棒の焼き印用か。20年前は古き良きものがあった。
 1989年6月中旬、岡山市へ出張した。汽車とバスを乗り継ぎ山を超え蒜山高原へ。国民休暇村を出発し、蒜山登山口は牛の排泄物で汚かった。槍が峰の手前で雨が降り下山した。途端に天気が良くなり、休暇村から蒜山三山の頂が見え隠れし、悔やまれた。南から見た大山は、北と比べ女性的であった。牛が放牧され、搾りたての蒜山(ジャージー)牛乳を飲んだ。バスと汽車を乗り継いで大山寺へ。国民宿舎「豪円会館」に泊った。部屋の南窓を開けたら、大山の北壁は夕日に染まり、荘厳さを感じた。薄緑色の豪円スキー場ゲレンデの上にどっしりと座っている大山、茶褐色の崩壊激しい北壁が、痛々しい。夕食はジンギスカンで、お酒は程々にして寝た。今回も一人であった。翌朝窓を開けたら、北壁が朝日に輝いていた。すがすがしかった。
大山

大山


大山2


大山2


登山口に、石を持って大山へ登ろうという掲示板があった。頂上は木道で整備され、一変していた。崩壊がさらに強まった。山に人が入ると、山は崩壊するのだろう。沢山の石が木枠の中にあった。登山者が運んだものである。北に宍道湖、島根半島、日本海、隠岐島が、南に蒜山三山が重なり、遠くに四国の山々まで見えた。東側の縦走路は北側が削り取られ、縦走禁止の案内板があった。山の老化現象は確実に進んでいた。地下足袋の底が薄く岩が当たり足が痛かった。米子駅前発の夜行バス(当時キャメル号が運行。現在はない)に乗り、10時間以上かかって品川へ、総武線で稲毛へ。日常勤務はきつかった。
 いつの日にか、大山北面のゲレンデで、スキーをしたい。

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2.7、アサヨ峰の教え


 北沢峠の小屋で、宿泊を拒否された登山者が「もう南アルプスに来ない」と憤っていた。予約をしておいて良かった。宿泊拒否は山小屋で聞いたことがないが確かにあった。予約をしない登山者が悪いのか、山小屋の体質が問題なのか。宿泊拒否で事故が起きないのか。夕食はおかわりなしのカレーだった。
 仙丈岳の頂上は、ガスで視野がきかず、カールの底に仙丈小屋が眺められた。石仏を拝んで下山。高山植物の仙丈と期待していたが、花の盛りは梅雨明けのようだ。宿泊の予約無しで仙水小屋に宿泊できた。
小屋のご夫婦は、ユニークな方で、山の生活に、自然の力を活用し、努力と工夫を行っている。水力利用のステレオ(CDプレーヤーにボーズのスピーカー)、水洗トイレ、太陽光利用の反射熱湯沸器(写真)、他にも工夫があるようだ。
アサヨ峰

アサヨ峰

やかん


やかんは沸騰したのか、沸騰したやかんをどう運んだのか分からない。酒焼けした小屋主はクラッシック好き、「四季」「フルート協奏曲」「フルートとハープのための協奏曲」を流してくれた。音楽の中で美味しい夕食をとり、小屋が明るくなり、全員の表情が生き生きとした。
 翌朝、「今日は快晴」との合図で、元気よく起床、気合いを入れて出発した。仙水峠で、魔迦支天の右よりいずる御来光を、手を合わせて拝んだ。家族の健康を切に願い、仕事が上手くいくようにと。起きたばかりの身体はまだ眠っていたので、アサヨ峰までの登りはきつかった。後ろを振り返ると駒津峰への登りも急で、甲斐駒を目指す登山者の苦しい息づかいが聞こえてくるようだった。
東に早川尾根がどこまでも連なり、鳳皇三山の地蔵岳のオベリスクが、力強く天にそびえ、奥秩父金峰山の五丈岩を思い出した。
アサヨ峰から、北岳のバットレスが手に取るようで、まさにガリバーが座る「座椅子」だ。山肌の緑が美しい。白峰三山、魔利支天と甲斐駒の岩の固まり、仙丈のカール、美しい二峰をもつ塩見岳、南ア南部主峰赤石岳、東西に長い荒川三山、独立峰富士山が横たわり、360度の映像である。アサヨ峰は穴場。有名な山の間にある尾根は、登山者が少なく、名が知られていない山に登って、はじめて名山を望むことができるのである。
アサヨ峰より北岳

アサヨ峰より北岳


コーヒーを飲んでいると、「登山前に1日3000mの水泳で鍛え、秋から春シーズンにハーフを」という同世代女性の話し声が聞こえ、心の中で「すげー」と一叫び、聞き耳を立てた。「マラソン」「ストレッチ」「スクワット」の言葉が耳に残った。
早川尾根小屋への下りは、足にずっしりと堪えた。足がガクガクで、手を使って下りた。体力の限界で、足と腕がパンパン張ってきた。早川尾根小屋に到着。一般登山者は地蔵岳まで歩くが、山愛好家はここまで。午後の雷が怖かった。頭からタオルを垂らして強い直射日光をさけ、冷たいビールを飲んだ。実に美味い。ラーメンとパンを食べる。山の中での食事はおいしい。最盛期なのに宿泊者8名。小屋の運営が出来るのだろうか。
アサヨ峰

鳳凰三山と富士


翌日は土砂降り。地蔵岳への分岐点で、街から持ってきたすべてのストレスを思い切り山に吐き出し、広河原へ。広河原国民宿舎で風呂に入り、精神と肉体をリフレッシュし、中央高速バスに乗り込んだ。終点西新宿で先輩と酒を飲んだ。アルコールが胃粘膜に吸収された。
 「酒がきれず停年まで大酒を飲んだ人は退職後老化が早く、みるも無惨な姿になる」と、母から「忠告」を受けた。アサヨ峰頂上で聞いた水泳とマラソンの話が忘れられない。心臓外科医から、膝と腰のためのトレーニングを教えてもらい、毎朝晩スクワットと、朝のテレビ体操を始めた。若い女性トレーナーとテレビを通して、体操を続けているが、足は2拍子、手は3拍子のリズム体操は出来ない。老化の進みを少し遅らせているようだ。ジョッギングを始め、10kmマラソン大会に出場し、タイムは、58分から49分台へと飛躍的に伸び、体重は1年で8kg落ちた。努力すれば報われる。スクワット、ストレッチ、膝の冷却と湿布の塗布を忘れず、トレーニングを続けている。がんばれ追っかけ中年。

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2.8、タクシー利用登山


 1985年6月上旬、鹿児島へ出張し、南九州の百名山を歩いた。腹痛と下痢、痔出血が加わり、苦しい山行きとなった。豚骨、薩摩揚と焼酎が合わなかったようだ。
 指宿国民休暇村に泊まり、9日5時起床、タクシーと汽車で無人の開門駅に着く。コインロッカーと売店がない。バス停わきの駄菓子屋に荷物を預ける。朝食をとらず、弁当を持たず、7時10分出発。村内放送が聞こえる長閑な所だ。一時間で五合目に着く。おとりの鳥を持った密猟風のおじさんに出会う。右足の親指が地下足袋に合わず痛い。
9合目からは潅木で展望が開けた。9時10分ちょうど2時間で開聞岳頂上に到着(924m)。快晴で眺望良好。どこまでも続く太平洋、虫垂の形の長崎鼻、巨大鰻で有名な池田湖が真下に見える。山が海からせり上がる良い山である。沖縄、台湾、霧島連峰は見れなかったが、海と空は真っ青。おやしろで手を合わせ、9時半下山開始。
約20人のハイカーと出会う。日曜日で天気がよいのにひとが少ない。花が終ったからか。11時15分着。腹の具合いが悪いのに冷たいビールと焼魚定食を食べる。以後症状悪化。バス・汽車・バスを乗り継いで、霧島の丸尾温泉に向かった。せわしい日程である。
 10日5時半起床。山は雲で覆われている。依然として腹部症状は持続し、朝食の代わりに弁当を作って貰う。タクシーでえびの高原登山口まで入る。ミヤマキリシマが少し残っていた。よくみるツツジより、花も葉も木も小振りで、非常に可愛く見飽きない。花の色はピンク、紅、紫で、それぞれに濃淡がある。5月20日前後の満開時は、全山が変貌するのだろう。見頃より20日も過ぎてしまい面影なし。可憐な花を根こそぎ盗掘する人々に、地元では頭を痛めている。6時45分登山開始。一時間で韓国岳頂上到着。天気は曇りだがそれなりに視界があった。腹は依然悪い。正露丸を飲んだが、腹がしくしく。先行き不安。8時55分獅子戸岳着。なんとサイクリングを担いで登ってきた若者が休んでいた。縦走後高千穂峰に登るらしい。
姿のよい高千穂峰が前にそびえている。9時半新燃岳着。噴煙を上げていた。急に腸の具合が狂い、草むらで<雉うち>をする。当りを見回しながら。この大事な時に、突然一人の山を愛する人を発見。冷汗を感じる。急いで後始末をし、急ぎ足で現場から離れた。10時中岳着。ここのミヤマキリシマも花が散っていた。残念。10時45分高千穂河原に下山。売店で飲んだ暑い味噌汁は実に旨かった。朝予約したタクシーで霧島神宮を回り、宿屋「清流荘」へたちより、鹿児島空港へ向かった。体の具合いが悪いので、羽田まで迎えを頼む電話をした。タクシーと車は便利である。

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2.9、北ア北部のんびり山旅(1)1984年


 ロス五輪の開会式当日、立山室堂を出発、五色ガ原、越中沢、薬師、黒部五郎、鷲羽、水晶、野口五郎へ一人のんびりと山を歩いてきた。
7月29日6時30分扇沢駅からトロリーバスに乗り、6時50分黒部ダム着。快晴。高度経済成長を思わせる豪快なダムで、水量が凄まじい。黒部平までケーブル。紅葉の写真をよくみる。大観峰までロープウエイ、室堂までトロリーバス、8時30分室堂に着いた。黒部アルペンルートは立山三山(真砂岳、大汝山、雄山)を貫いている。環境庁がよく許可したものである。片道7300円と高い。黒部湖西岸を平ノ小屋、刈安峠から五色が原へ入ると安上がりだった。浄土山、竜王岳、鬼岳、獅子岳、ザラ峠を経て、12時55分五色山荘着。ラジオから開会式の実況が聞こえた。小型のロケットを背負い、空中を遊泳しながら実況をしていた。テニス用半ズボンで歩いたので、日焼けし、熱があって痛い。オロナイン軟膏を塗ったら、傷みが少なくなった。山荘自慢の湯船に入れず、水で冷やし出た。夕食後スライドで高山植物の説明があった。
 30日6時10分山荘発。鳶山(2616m)から越中沢岳(2591m)で、後立山連峰と剣立山連峰が重なり、岩と沢の雪が縦じまを創っている。五色が原は少し右に傾斜した大きな大地で、緑が映えていた。越中沢岳への上りから、新しい血痕が登山路の岩に付着し気持ち悪かった。医学部学生のパーテーが、左手首から出血している人を手当していた。タオルは真っ赤だった。10時58分スゴ乗越小屋で負傷者と話をした。学生時代ワンゲル部だった会社員は、冬の尾瀬で、至仏から滑り落ちた時は怖かったと話していた。傷口は深く広い。夜中に出血しシーツをよごしたと、小屋主に謝っていた。
 31日5時10分小屋発。間山(2585m)で薬師の大きさに圧倒される。薬師の尾根からまっすぐに落ち、高天原峠で再びせりあがり、太郎兵衛平から雲の平への登山ルートがある。8時40分薬師岳(2926m)着。広い大地の雲の平に、ずんぐりした祖父岳が緑鮮やかに見える。奥に水晶、ワリモ、鷲羽、三俣蓮華、黒部五郎が半円状に並び、鷲羽と三俣蓮華の間に、槍の穂先が突き立っている。飽きない。9時30分薬師岳を出発。薬師岳山荘の前を通り、ケルンが林立している薬師平と太郎兵衛平をのんびりと歩き、11時30分太郎平小屋着。さっきの怪我人と再び一緒になり、薬箱を借りて傷口を消毒したが、オキシフルの有効期限が切れていたようだった。明日下山して富山市の病院で手当をして貰うとの事。黒部五郎岳を往復したいようだった。登山は軽量に限ること、袋から中身を抜き取ること、荷物をコンパクトにする工夫を教えて貰った。軽量化のためカメラを持ってこない。下山後写真10枚送ったら礼状がきた。
 8月1日5時18分小屋出発。北ノ俣岳(2661m)への登りはきつい。赤木岳(2622m)を経、8時33分中俣乗越に着く。薬師からの眺めと左右逆である。薬師岳、薬師沢、雲の平が、V字を示している。雲の平と祖父岳が緑色、水晶と鷲羽が黒光りしている。9時45分黒部五郎岳着。見渡し抜群。雲の平と槍がさらに近づいた。
黒部五郎岳

黒部五郎岳


黒部五郎岳2840mの登頂記念>のプレートを持って、記念写真を撮ってもらい、黒部カールに下り、黒部源流で水遊びに興じた。残雪の一滴が、黒部ダムの大曝布になり、自然の力に感心させられる。三角形の黒部五郎小舎がおもちゃ箱に見える。11時50分小舎着。早速ビールを飲む。黒部乗越は草原が広がり居心地がよい。多くの釣り師が入っているようで、夕食にかわいい「イワナ」が出た。
 2日今日も快晴、5日連続の好天。急な登りから始まる。山小屋は・・・・乗越あるいは・・・・平に建てられ、山頂の小屋は少ない。風雨を避け飲み水の確保からであろう。7時3分三俣蓮華岳(2842m)到着。眺めは最高。ぽっかりとえぐられた黒部五郎カールがかわいい。北や東からの黒部五郎岳と感じが違う。重厚な薬師がじっと座っている。高天ケ原を中心に、左周りに歩いているので、同じ山でも形、表情に変化があり飽きない。7時40分三俣山荘着。見上げるばかりの大きな鷲羽岳に挑戦。道がはっきりせず、足場は不安定、斜度が急で、荷物をおけず休憩場所がなく、休まず夢中で登った。8時55分やっと鷲羽岳(2924m)に到着。紺碧の鷲羽池は火口湖。北鎌、槍、穂高の壁は、茶褐色で脆そう。カメラマンが三脚を立てファインダーを真剣に覗いている。雲の位置や下からのガスをイメージ、シャッターチャンスを狙っているようだ。
水晶岳 水晶岳


名残惜しいが、9時10分ワリモ岳に向かう。気持ちよい尾根歩きである。10時35分水晶小屋着。水晶岳へ。左は絶壁。足、手、気持ち、目が緊張の連続。恐怖の時は無口になる。水晶があるのだろうか。昔水晶を取りに来たのだろうか。11時25分水晶岳(2978m)に到着。12時水晶小屋着。小屋は数十メートル先の残雪を利用している。運搬が大変だろう。2時過ぎから激しい雷雨、小屋に駆け込む登山客が多くなった。今日は超満員。
水晶岳

水晶岳


ザックを外に出しビニールを掛けた。一畳に三人。先ず右側が寝て、左側が右側の足の間に入る。かけ声でいっせいに行われた。私の顔の両側に汚い靴下がある。今日で5日目の靴下である。顔、足、顔の順に側臥居で寝る。寝返りは出来ない。トイレに立ったら寝床の保証はない。トイレは外で雨の中を行く気にならない。
暖かくなると匂いがすごい。外は大雨。消灯後、小屋主がライトを持って、人を捜しに行った。こんな時間まで行動している人がいる。外は真っ暗。小屋主が登山客に文句を激しく言っている。厨房を兼ねる小屋主の部屋で寝るらしい。
 3日小雨。山奥に入る人、下山する人、出発を控えている。6時53分水晶小屋出発。7時50分真砂岳着。ザックを置き、8時20分野口五郎岳(2924m)着。頂上はただ広いだけ。前に薬師があるのだが、まわりは見えず、しとしと小雨が降っている。引き返して竹村新道を下る。12時25分湯俣温泉に着き、清嵐荘で昼食をとる。下界は明るかった。13時15分出発。とぼとぼと歩いき、いくら歩いても同じ風景。高瀬ダムで出来た湖の右岸を歩き、やっと16時10分高瀬ダムに着く。足が痛く運動靴に履き変え、車道を力なく歩き、真っ暗な山の神トンネルに出た。辺りは暗く水の落ちる音が恐かった。10時間以上も歩いている。限界。ふらふら。17時25分七倉山荘に着いた。野口五郎岳から烏帽子小屋を経、ブナ立て尾根を下った方がよかった。
 4日晴れ。信濃大町に出て若一王子神社を見、松本で後輩のもてなしを受けた。以上1車中泊、6山小屋泊、1知人宅泊(8泊9日)のぜいたくな84山行きは終わった。大満足。

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2.10、北ア北部のんびり山旅(2)1985年


 弟と二人で、富山の有峰口折立から、太郎兵衛平、黒部五郎、黒部源流、鷲羽、水晶、岩苔、高天原、雲の平、双六、鏡平から新穂高温泉へ下山、白骨温泉で疲れを癒した。天気がよく、登山者が少なく静かな山だった。
 7月28日、夜汽車で富山駅へ、バス(2500円)で、8時13分折立。9時46分三角点、11時38分餅を焼いて昼食とする。12時40分太郎平小屋着。一泊二食付き4500円。
 29日、インスタント雑炊を腹に入れ、4時55分出発。快晴。6時37分上ノ岳。9時55分黒部五郎岳。こじんまりした山で眺めもよい。10時25分肩発。ジグザグ道を下りる。黒部源流の黒部五郎カールである。ククレカレーとうるち米を食べ、評判通りのまずさで、腹の調子が悪い。12時50分黒部五郎小舎。13時5分出発。昨年は小舎泊まりだったが、今年は先を目指し、最後のガレバを通って、やっと三俣山荘に。ベンチに座りこみ、冷たいビールを一気に飲む。旨さは何物にも代えがたい。山頂で飲むビールの旨さが忘れらず、重たいビールを担いで登るひとが沢山いる。小屋は土地を国から借りている。小屋主は伊藤新道を切り開き、借地税の値上げに反対し新聞を賑わしている。
 30日、4時20分起床、5時40分出発。朝一番の急登は堪える。傾斜がきつく、足場がガレて、手を掴むところが無く、不安定の連続である。7時鷲羽岳。北鎌、槍、穂高の切り立った黒い冷い壁、深青色の水をたたえる小さな鷲羽池、最高の写真構図である。2年続けて好天気。7時45分別れを惜しんで出発。8時23分ワリモ岳。右に北鎌、野口五郎、烏帽子、正面に水晶、赤牛、左には雲の平、薬師、黒部五郎を見る。奥に鷲羽と槍穂高連峰がある。
9時水晶と岩苔乗越、雲の平への分岐点に着く。水晶小屋手前の登山路両側に、ハクサンイチゲとシナノキンバエが盛んに咲いていた。水晶岳へ。左は垂直の崖、右は切り立った岸壁で神経が疲れる。荷物を背負っていたら一苦労であろう。10時20分水晶岳。南北にふたつのピークがあり、北を通って、赤牛への読売新道に続く。双眼鏡をさげ保護蝶を監視する若者に出会った。11時10分水晶小屋で、薄いハム入りのラーメン(500円)を食べ、12時出発。32分分岐点、14時30分水晶池(2350m)。やけくそで歩き、15時25分高天原山荘着。
ベンチで小休止、待望の露天風呂(森村誠一の小説?)へ。結構な道のり(15分)。川をはさみ、左に女子用の囲いのある風呂、右が男子用。缶ビールを飲んでいるヒト、それを見ながら咽を鳴らしているヒト。帰り道で汗をかいた。
高天ケ原・ワタスゲ


ワタスゲ


 31日、4時10分起床、餅と紅茶で朝食、5時35分出発。一帯はワタスゲの群生地、ニッコウキスゲが混じっていた。6時25分高天原峠。雲の平までの登りは、学生時代の合宿以上のアルバイト。泥だらけの木の根っこにしがみつきながら、喘ぎ喘ぎ登った。早朝の急登は痔に悪い。登りきた所にシャーベット状の池塘が点在していた。
白い雪、シャーベット状の池塘、冷たい水、丈の低い緑の木々が美しい。奥に薬師、黒部五郎が連なっている。8時25分<生ビールとステーキ>で有名な雲の平山荘着。生ビールを美味しそうに飲み、おかわりを注文しているのをただ見ていた。唾を飲んだ。雲の平にテントを張り、軽装で周囲の山々を登る方が縦走より楽しいと思った。
11時38分三俣山荘着、ラーメンと味噌汁で昼食、12時32分出発。双六小屋までの登山道は良い。尾根から見える鷲羽が雄雄しく好きな一こまである。大きな羽根を力強く、思いっきり両側に広げ、まさしく鷲羽岳である。14時55分双六小屋。
 8月1日。疲れがたまり、裏銀座を通って槍へ行く計画を断念、双六池から鏡平に。ここの尾根歩きは北アルプス一級の展望を誇る。朝、槍穂高連峰の西斜面は日陰になり、細かい山肌は解らず、不気味だった。鳥も近づかない<滝谷>と言われている。大きなU字に切れている槍穂高連峰のシルエットは壮観。午後、西日を受けた槍穂高連峰もすばらしいでだろう。7時53分標高2300mの鏡平小屋。鏡平池に映った槍穂高連峰。水面に映った槍穂高連峰は色が出たが、肝心の槍穂高連峰が薄くなった。8時8分出発。谷に向かって一気に下りる。10時30分ワサビ平小屋、冷たい冷麦を食べる。12時5分新穂高、ビールで乾杯。13時バスで平湯へ。標高1790mの安房峠を越え、中の湯をへ、白骨温泉14時45分着。新平湯と平湯の間に「円空庵」という国民宿舎があった。千葉にいたとき円空学会会員だった。一泊9000円の旅館「まえだ」に泊まる。
 8月2日9時5分発のバスに乗る。
<84・85年名山総括>

 1.薬師岳(2926m) 何処からでも目立つ山塊。高天原から雲の平に登りきった奥の平から見る薬師がよかった。雲の平はゴツゴツした岩と、シャーベット状の雪田からなり、奥の平の奥にどっしりとした薬師が座っている。
 2.黒部五郎岳(2840m) 想像より小ぶりのかわいい山。北側の薬師や北の俣岳から見た時と、東側の雲の平や鷲羽からでは、山姿は異なっている。前者は変哲ないが、後者はカールが見事。カールの外殻の岩が、風化し不気味である。日本庭園からの黒部五郎岳がよかった。
 3.水晶岳(黒岳2978m) 雄々しい山。山肌がギリシャ彫刻を思わせる。水晶池からの眺めは、水晶から絶壁を見てきたばかりで恐さが増す。600mの壁がせり立つ絶壁。岩壁を登っているヒトはいない。広角レンズでも池と山頂は同時に入らない。
 4.鷲羽岳(2924m) 北アルプス北部の一番真中に座る山の主。双六へ続く山路からの眺めが最高。大鷲が胸をいっぱいに張り出し、大きく羽根を広げ、飛翔しようとしている山姿に圧倒される。ハイカーが負け犬に、鷲の獲物に見える。
鷲羽岳

鷲羽岳


 5.槍、穂高連峰(槍3180m、奥穂3190m) 双六小屋から鏡平へ下る小池新道からの眺めがよい。尖った槍の穂先とノコギリ状に切り立った穂高。縦走は、ハイカーでは無理。U字の大キレットと、落石が多い<滝谷>は人を寄せ付けない。魔の山。
槍・穂高連峰

槍・穂高連峰


  6.その他 西の白山は、雲海の上に頂上が覗いていた。ハクサン・・・・という名の花が多いので登ってみたい。北西に笠、乗鞍、御岳が並んでいる。85年乗鞍で、老人達の計画性のない山行きに批判がなされた。
笠岳傘

笠岳


3.1、長英と蔵六


 

「長英逃亡」「花神」「鬼謀の人」を読んだ。高野長英(1804-50)と村田蔵六(1824-69)は共通点が多かった。医者で、優れた師をもち、宇和島藩主伊達宗城の知遇を得た。語学の天才、志にぶれが無く、西洋の兵書を翻訳し、軍事的技術者として活躍した。志を遂げ40半ばで殺された。ふたりは20歳違いで、互いに会ったことがない。花神は花咲爺さん、鬼謀はすばらしいはかりごとのことである。
 長英は岩手県水沢藩士の3男として生まれた。1825年長崎へ留学。シーボルト(1796-1866)の高弟となり、湊長安・岡泰安・高良斎・岡研介・二宮敬作・渡辺崋山と勉強した。洞察力と判断力が優れ、鎖国を非難した「夢物語」を書いた。シーボルト事件(1828年)は逃げ延び、鳥居忠耀に捕まった(1839年、蛮社の獄)。永牢の刑で小伝馬町へ入牢、牢名主となり260両の上納金を得た。牢内は不衛生で獄死するヒトが多かった。6年目、死の恐怖と翻訳への願望から放火を依頼。火事による3日間の切放しがあり脱獄した。41才だった。
放火を請け負った栄蔵は2年後火あぶりの刑をうけた。6年間の逃亡生活が始まり、入牢で得たパイプから、やくざの親分に助けを求めた。江戸から浦和・上州中之条・越後直江津・新潟から阿賀野川をのぼり、水沢で老母に会った。仙台・福島・米沢・江戸・京都・大阪・宇和島をへて江戸へ舞い戻った。宇和島では、西洋兵書の翻訳に没頭した。顔を薬で焼き、沢三伯と名を変え江戸に潜伏。仲間の元囚人に金を貸したところで斬殺された。元囚人は同心の手下となって長英を探していたのである。逃走を助けた蘭学者、鳴滝塾の仲間、長英の妻子が処罰を受けた。記念碑が北青山3丁目の善光寺にある(写真1)。
長英記念碑

(写真1)
逃走を助けた蘭学者、鳴滝塾の仲間、長英の妻子が処罰を受けた。
記念碑が北青山3丁目の善光寺にある
 孫文(1866-1925)は高野長英を深く尊敬し、日本亡命中に高野長雄と名乗った。ふたりは医師で、国の近代化に尽くし、権力の弾圧に屈せず、長い間逃亡生活を送った。福島市の薬や・油屋藤兵衛は長英の逃亡を支え、スケールが大きい人物として描かれている。私は薬局の前を自転車通勤していた。約35年も前のことである。現在油屋薬局はない。
 著者吉村昭は連載中、岡っ引に追いかけられている夢をみ、前から警察官が歩いてくると横道に入ろうとしたと「史実を追う旅」の中で述懐している。同著「破獄」は味噌汁で鉄鎖を切って、網走刑務所を脱獄する実話で、描写と話の展開が面白い。
 一方、村田蔵六は長州藩の生まれ。余計な事は一切せず、徹底した合理主義者で、過去を追想しなかった。朴念仁(無口で無愛想な人)、倣岸(威張り返って相手を馬鹿にするさま)と言われ、火吹達磨(火を起こす道具、銅製でダルマに似ていて中が空洞である)と馬鹿にされた。唯一の愉しみは、黙然と酒を飲むことだった。物干台に上り、星空の下、豆腐をつまみに、2本の酒を飲んだ。酒徳利をまたぐらに抱き込みながら。
 緒方洪庵(1810-63)の適塾に入塾。洪庵は「医戒」の中で、「医者とは人の病苦をすくうだけのために存在し、自分のためには存在しない」と教えている。医学が適塾式からポンペ式へと変わり、長崎へ留学し、宇和島へ渡った。仕事は、兵書翻訳業、西洋式砲台建設、蒸気船をつくること、シーボルトの娘イネに蘭語と医学を教えることだった。弟子に「まずやることなのだ」「八分どうりで良いのだ」「頭に七分のものを入れてから講義を聞け」と諭した。
 時代は激動し、学問は蘭語から英語重視へと変わった。長州は攘夷を唱えながらも、秘密裏に井上と伊藤を英国へ留学させた(1863)。蔵六と福沢諭吉は適塾の二大高弟といわれたが、仲が悪かった。蔵六は福沢に英語の勉強を誘われたが断わり、一人でヘボンから英語を学んだ。二人は語学の天才だった。
 著者司馬遼太郎は「革命に思想家、戦略家、技術者が必要」と説いている。思想家の代表は吉田松陰で必ず非業の死をとげる。戦略家は高杉晋作や西郷隆盛で、これも天寿をまっとうしない。最後に登場するのは、科学・法制・軍事の技術者である。蔵六は軍事の技術者で革命の仕上げ人と評価されている。
法制の技術者は江藤新平である。  1859年10月小塚原回向院で、桂と蔵六の運命的な出会いがあった。以後時代が回天するのである。桂に請われ長州藩へ。長州は蛤御門の変(1864)で敗北し、桂は長い亡命生活を送った。京都で乞食や按摩をやりながら、但馬城崎へ逃げた。甚助・直蔵兄弟と出会い、有名な義侠心的助けを受けた。逃亡中桂は多くの有能な人材の中から蔵六を選び、人間として認め遇し頼ったのである。蔵六以外に長州を救うものはいないと。蔵六は軍隊を歩兵、砲兵、奇兵に分け、その総司令官になった。外国から元込め銃1万丁を買い、鍋島藩からアームストロング砲を借り、洋式装備の百姓兵を訓練した。
上野山の戦い(彰義隊)では、1ヶ所を開けて戦った。敵に退路をあたえたのである。  軍事に素人の蔵六が我流に兵書を翻訳し、想像力をかきたて、自信と合理主義で時代を回天させ、明治維新を完成させたのである。第2次長州戦争の指揮官となってから3年間、技術屋の仕事をしたことになる。機械のような正確さで戊辰戦争を1年で片付けた。近代兵制の生みの親となり、最後は軍神的存在であった。
 蔵六は優れた直感を持っていた。「いずれ九州から足利尊氏のごときが興って中央に攻め込んでくる」と、10年前に薩摩の反乱を予言していた。戊辰戦争のうちから、東京でなく九州に近い大坂に、陸海軍練兵所、兵学寮、鎮台、軍事工場と火薬庫を準備していた。薩摩藩士に大腿部を切られ、足を切断したが、敗血症で2ヶ月後に死んだ。遺言は「大砲をたくさんつくっておけ」。約2ヶ月間イネの看護を受けた。妻琴子は来なかった。「一生の間によき話し相手の何人かでも保たれればそれほど幸福なことはない」といい、それがイネであったようだ。銅像が靖国神社に建っている(写真2)。
蔵六

(写真2)
蔵六の銅像が靖国神社に建っている

 司馬は「蔵六は歴史がかれを必要とした時忽然とあらわれ、幕末に貯蔵された革命のエネルギーを軍事的手段で全国に普及する仕事をした。使命が終わると大急ぎで去った。全国津々浦々の枯木に花を咲かせてまわる役目をした」と述べ、「蔵六は優れた眼識と胆略をそなえ、軍事的才能は義経、滝川一益、秀吉、光秀と同等」と付け加えている。

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3.2,近代医学の名コンビ


 刑場が日本橋を境に北と南にあった。北は小塚原(骨ヶ原)で、現在常磐線と日比谷線に分断された。回向院別院の延命寺に、首切り地蔵(写真1)がある。
首切地蔵

(写真1)
回向院別院の延命寺の首切り地蔵

遺体は小塚原回向院に埋葬された。吉田松陰、橋本左内、水戸浪士、鼠小僧、高橋お伝の墓がある。松陰は1859年10月27日、安政の大獄で斬首され、29日桂、伊藤、井上が恩師の遺体を引き取り、回向院に埋葬した。同日、同場所で、蔵六は無宿者を解剖し医者に教授した。桂と蔵六の有名な出会いがあった。
南は鈴ヶ森で、京浜急行大森海岸駅北に碑がある。八百屋お七、幡随院長兵衛、国定忠治、丸橋忠弥が処刑された。江戸時代約250年間、約20万人以上が処刑され、1日2人が殺されたのである。幕府は容易に罪人を殺害したが、解剖は許可されなかった。
 ドイツ人クルムス(1689−1745)は、解剖図譜「ターヘル・アナトミア」を著し、オランダ人ディクテンが1734年に蘭訳した。1771年3月4日、前野良沢(1723−1803)と杉田玄白(1733-1817)は、それぞれが同じクルムス解剖書を手に、小塚原で観臓した。90才の老人が50才女性を腑分けした。腑分けとは罪人を解剖することで、腑分け人足(非人)がいた。二人は解剖書の正確さに驚嘆し翻訳を誓った。回向院に観臓記念碑がある(写真2)。
観臓記念碑


(写真2)
回向院に観臓記念碑がある

 良沢は九州中津藩士、築地の中屋敷に住んでいた。47歳で、薩摩芋博士・青木昆陽に蘭学を師事、彼が作った蘭和単語集を写し覚えた。単語数はわずか721語。単語はABCの順でなくただ羅列し、使い勝手が悪かった。長崎へ留学し、長崎通司に師事したが、彼らは会話はできても蘭語を訳す能力は乏しかった。
成果は、高価なクルムス解剖書とマリン仏蘭辞書を入手できたことだった。辞書を見た瞬間、辞書を有効に活用できないと思い、絶望感と恐怖感におしつぶされた。藩主に申し開きができないと考えたのである。蘭語に蘭語で詳しい注釈がついていた。仏語を無視し蘭蘭辞書として利用することを気づいた。たとえば蘭語「日暮れ」と辞書を引くと、蘭語で「一日の終わりの部分なり」と注釈があった。
 毎月6回から7回築地の良沢家で、良沢を師と仰いで訳読会を開いた。良沢49才、玄白39、中川淳庵33、桂川甫周21。良沢改良単語集と仏蘭辞書を開き、人体図から始めた。文法、定冠詞、助詞、形容詞、副詞、関係代名詞の存在、その解釈に苦労した。
鼻や口といった外表所見からはじめ、鼻や口の絵符号と蘭語の本文を比較し、ひとつひとつ単語を理解していった。神経、軟骨、十二指腸、門脈という用語を創った。3年半後の1774年に、草稿11回の末、訳本「解体新書」を出版した。
その後、玄白の弟子大槻玄沢が、1826年「重訂解体新書」を出版した。有名なハルマ蘭和辞書が出版されたのは1796年で、64000語を収蔵、30部発売された。以後、師に師事せずに蘭語の本が読めるようになったのである。聖路加病院ロータリーに、慶應義塾大学発祥の記念碑(福沢諭吉も中津藩士、写真3左)と並んで、蘭学発祥記念碑「蘭学の泉はここに」が建っている(写真3右)。
蘭学発祥の地

(写真3)
蘭学発祥記念碑「蘭学の泉はここに」が建っている

 良沢は高い理想を持ち、眼光鋭く、語学の天才、学究肌で、困難なことに発奮する人であった。反面、頑固、偏狭、独善的、社交性の欠如、孤独の人だった。完全主義者で完璧な訳書を目指した。世間に背を向け、反骨精神が強く、著名になることを拒否、解体新書の著者名を辞退した。藩主は心が広く、良沢に翻訳業に専念させ、本を買って与えた。藩主は良沢を「オランダ人の化け物」といい、良沢も「蘭化」と名乗った。ラテン語とフランス語の翻訳も行ったが、出版をしなかった。門人を育成する考えはなかった。良沢の楽しみは茶碗一杯の焼酎だった。無名の老人は一生貧しかった。81歳で娘の嫁ぎ先に引き取られ、寂しく死んだ。激しく、厳しく、寂しい人生であった。墓は丸ノ内線新高円寺駅から南の慶安寺にある(写真4)。
杉田玄白の墓

(写真4)
杉田玄白の墓は丸ノ内線新高円寺駅から南の慶安寺にある

 玄白は若狭小浜藩の人。共同翻訳作業グループの結束に努力、発起人・まとめ役となり、良沢を前面に押し立てた。人の長所を巧みに引き出す才能を持っていた。現実主義と合理性を重んじ、明るい性格であった。舵取り、折衝、積極性、能率性を追求、実務を取り仕切った。天性の社交性と統率性をもち、優秀なオルガナイザーであった。
一方、処世術に長け、抜け目なく、功名心を持った。解体新書を踏み台に巨万の富をえ、将軍の拝謁をうけた。栄華が85才まで続き、神格化された。「天真楼塾」を創設、蘭医学書を買い、若者に貸し与え、育てた。蘭語研究は当初からあきらめ、終生蘭語を理解できなかったようだ。墓は虎ノ門愛宕神社隣の栄閑院にある(写真5)。
 学究肌とまとめ役の名コンビは、解体新書を完成し、約230年前に近代医学を立ちあげたのである。昭和の名コンビがいる。井深大と盛田昭夫、本田宗一郎と藤沢武夫は、世界のブランドSONYとHONDAを作り上げた。それぞれが技術と実務に徹した。つまり伴侶を含め”パートナー”を取り違えると、取り返しがつかないことになる。師の選択も同じである。ノーベル賞受賞者の69%が、自分たちの師を師がノーベル賞受賞者になる前に選んでいるのである。
 世界初の解剖書はヴェザリウスが1543年に発行した「人体の構造」である。「解体新書」は訳本である。世界との差は大きいが、日本の近代医学が18世紀後半からすでに始まり、多くの医師が活躍していたのである。
 吉村昭は「冬の鷹」という前人未踏の開拓物語の中で、人間の二典型を描いた。二人は強靱な意志と優れた頭脳をもっていた。医史学者の小川鼎三は「解体新書の時代」の中で「クルムス解剖書は本文と図譜の他に、全編の半分以上を占める注釈文が添付してある。注釈文を訳さなかったのは玄白の企画が良かったのである。注釈文まで訳していたら10年以上かかり、根気が続かなくなり、チームワークに亀裂が生じ、大事業が不成功に終わっただろう。
当時の日本人には本文と図譜だけで十分足りたのである」と考察している。「解体新書」「蘭学事始」「杉田玄白」を参考にした。「蘭学事始」は玄白が83歳の時に書いた回想録で、1700年代の蘭学の歴史を伝えている。福沢諭吉が偶然発見し、明治2年に私費で復刻出版し、二人の偉業をたたえた。

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3.3、酒人公


 酒はつらい労働に対する駄賃だった。農作業に入る旧暦三月初めに山や海にピクニックに行き、これが桃の節句の原型とされる。
桜の咲き具合を見て豊凶を占おうと山へ行き、酒を飲んだのが花見の始まりである。仕事の後の赤提灯で一杯やるのはその名残である。働かないで酒だけを飲むのは論外である。酒ーパースターを列挙する。
 史上一番の酒豪は唐の詩仙・李白(701-762)である。吟友の詩聖・杜甫(712-770)が「李白先輩は1日に一斗の酒を飲み、百の詩をつくる」と詠んでいる。
一斗は十升で、一合に一首づつ詩をつくり、百首つくったことになる。酔って水に映った月を取ろうとして溺死した。
コンプレックスがつよく、八方破れの陽気なロマンチスト、チャランポランな無責任男と評された。豊かな想像力と発想があった。いつも飲み、どこでも飲み、やすまず飲み、楽しく飲み、しんから酒が好きだった。「将に酒を進めんとす、杯、停むる莫れ」

「百年3万6千日、一日すべからく300杯を傾くべし」
「一杯、一杯、また一杯」

と詠った。快活で豪放、繊細で理性があり、陶酔の中に覚醒があり、世俗性で超俗性をもつと評されている。酒の友にしたい。
 中国の詩人、陶淵明(365-427)は李白、白楽天とともに酒の詩人といわれた。何と自分の死を悼んで詩を書いた。「納棺」の場面で、
<千年万年たったのちには恥も栄誉もしれたことか 心残りはこの世にいたとき酒が存分にのめなかったこと>
と歌い、「葬送」の場面で自分の前に酒やご馳走が並んでいるのに手が出せない嘆きを歌い、「埋葬」の場面で

<千年たっても朝はこない 千年たっても朝がこぬのはどうしようもない 親戚は悲しんでいるかもしれないがもう鼻歌を歌う他人もいる 死んでしまえば言うことはない 体をあずけて山の土となろう>

と達観しながら自分の酒や生への未練を詠み、笑っているのである。陶淵明と杯をかわしたいと願う現代人がたくさんいる。
 本邦に酒をこよなく愛した歌人がいる。若山牧水(1885-1928)は朝二合、昼二合、夜四合飲み、酒の歌をたくさん作った。

  うらかなしはしためにさへ気をおきて盗み飲む酒とわがなりにけり
  朝酒はやめむ昼ざけせんもなしゆふがたばかり少し飲ましめ
  妻が眼を盗みて飲める酒なれば惶(あわ)て飲み噎(む)せ鼻ゆこぼしつ

 昭和40年代のプロ野球で、酒呑んべいの打者がいた。168cm、65kgの小さな大打者、佐賀高を卒業しノンプロ東芝をへて近鉄に入団した永淵洋三である。
漫画家・水島新司が書いた「あぶさん」のモデルである。野球を愛し、男気にあふれ、ひたすら酒をあび、グランドに立つ愛すべき人間だった。オールスター初出場中、夜が明けるまで呑み、喫茶店でビールの向かい酒。多いに吐き、頭はボーっとしながら、直球ねらい、巨人・堀内の速球を先制ホームラン。
「カポネ」といわれ、「酒は俺のガソリン」といい、昭和44年、東映・張本と首位打者を分かち合った。3番を打ち、酒(主)軸打者となった。永淵は現在、九州佐賀市で焼き鳥や「あぶさん」をオープンしている。近鉄入団の契約金はたったの400万円。入団発表会見で「契約金で飲み屋のつけが払える」と語った。
対談で、下戸の長島が永淵に「本当に酒を2升も3升も飲むんですか」と聞いた。愛すべき男である。佐賀へ行ったら立ち寄りたい。
 まんが「あぶさん」は、昭和48年2月からビッグコミックオリジナルで始まった。私は同年3月卒業。”あぶきち”を標榜する友は、福島市より半日早く売り出されると、郡山市までビッグコミックを買いに行った。入れ込んでいた。
酒人公の景浦安武は26歳で南海へドラフト外入団、最初は代打専門の一振り稼業。福岡ダイエーへ移り46歳でやっとレギュラー、3年連続3冠王、平成15年現在31年目のシーズンである。57歳になった。気合を入れるために、日本酒を口に含み、物干し竿バットに酒を拭きつけてからバッターボックスに入った。
南海とダイエーのキャンプ地にあぶさんを応援に行ったという熱烈なファンが本当にいた。「あぶさんは60歳まで現役でがんばります」と漫画家談。たのもしい飲んべえである。
 写真はひたちなか磯崎の酒列磯前神社で、祭神は医薬の神と、酒を造る醸造の神である。社殿の向拝に左甚五郎の彫刻「リスとブドウ」がある(写真1,2)。
酒列磯前神社

(写真1)
ひたちなか磯崎の酒列磯前神社で、
祭神は医薬の神と、酒を造る醸造の神である。


リスとブドウ

(写真2)
社殿の向拝に左甚五郎の彫刻「リスとブドウ」がある

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3.4、富士見登山・富嶽4景


 富士を取り巻く山に登り、秀峰をあおぎながら銘酒を飲む、これが楽しみである。富士は刻々と変化する。そこで、富嶽4景、東西南北から撮った写真を見て頂きたい。
 写真1は東からみた富士である。丹沢山塊の塔ノ岳頂上にある尊仏山荘1490mから撮した。秋の日の午後5時頃の富士で、右斜面へ太陽が沈んでいった。
富士の山肌が赤く輝いていた。新宿から京王線で秦野へ、バスでヤビツ峠登山口へ。4時間の山歩きでこの富士に会える。

丹沢塔ノ岳山頂より
写真1
東からみた富士
〜丹沢山塊の塔ノ岳頂上にある尊仏山荘にて


 写真2は富士の西:白峰三山(日本第二の山・北岳、間ノ岳、農鳥岳)の西農鳥岳頂上から撮った。
夏の日、真夜中3時45分、額にランプをつけて農鳥小屋を出発、西農鳥岳3051m頂上でご来光を拝み、朝5時頃の富士である。
空は朝焼けて、重厚な富士が尾根の上にどっかりと座っていた。
富士は尾根よりも約1000m高い。
新宿から甲府へ。相乗りタクシーで2時間、広河原登山口に到着。
約5時間で北岳肩ノ小屋、翌日約6時間で農鳥小屋、2泊して写真撮影地に到着できる。

西農鳥岳山頂より
写真2
西から見た富士
〜西農鳥岳頂上からの富士


 写真3は南からの富士である。御殿場からバスで十里木高原へ、十里木バス停そばに愛鷹山塊のひとつ越前岳の登山口がある。
30分で笹峰に着く。雄大な富士を見ながら愛鷹荘で作っていただいた弁当を食べた。美味しかった。
宝永の大噴火孔が右下に口を開けていた。朝日で山肌がはっきり見える。正面が御殿場登山口、右が須走り登山口、裏が吉田登山口。

越前岳
写真3
南から見た富士
〜越前岳笹峰からの雄大な富士



 写真4は北の三ツ峠山頂上からである。新宿から高尾をへて大月へ。
富士急行で三つ峠駅(616m)着。約4時間の登山となる。夏の日の夕方撮ったもので、左下が富士吉田市街地。真夜中、登山者が列をつくり、頂上からのご来光を目指して登る。三脚をたて、シャッターを開放すると、富士のシルエット、登山者のヘッドライトがつくる一筋の光り、富士吉田の街灯、星の流れが一枚の写真をつくりあげる。
頂上の山小屋・四季楽園に泊まった。風呂(600円)もある。豪華な料理に酒量が増えた。
 7月下旬に富士登山競争が行われ、アイアンマンが全国から集まる。富士吉田市役所からスタート、走行距離21km、標高差3000m、気温差21℃、完走率50%で、制限時間は4時間30分。1位は2時間45分。
ちなみに、中高年鉄人の勲章は、@富士登山競争とA日本山岳耐久レース(長谷川恒夫カップ、奥多摩5山:三頭、御前、大岳、御岳、日の出、全長71.5km、制限時間24時間)の制限時間内完走と、Bフルマラソンのサブスリー(3時間以内)である。

三つ峠より
写真4
北からの富士
〜三ツ峠山頂上から



 富士は日本の象徴、縁起がよく(初夢の一富士二鷹三茄子)、富士は不二、不尽、そして不死につながる。
多くの歌が詠まれている。

 ヨーロッパではアルプスは「悪魔が棲む」とおそれられいる。一方、日本では山を「神」として崇め、畏敬してきた。
さらに全国の山は朝廷から位階まで贈られ、富士山は「従三位」であった。
やはり富士は神秘的で憧れの山である。御殿場へ引っ越した知人が、「窓から見える富士は我が家の宝物である」といった。

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3.5、祭礼・山車


 神社で行われ、見物人がいるのが<祭礼>で、お正月など家々で行う年中行事を<祭り>という(柳田国男)。
山車は、祭礼の時飾り物をして引き出す車の総称で、呼び方と形がいろいろある。
屋台(秩父祭り、高山祭り)、曳山(唐津くんち、長浜八幡宮)、だんじり(岸和田)、山笠(博多櫛田神社の祇園祇園)、山(栃木県烏山の山あげ祭り)、鉾(京都祇園祭り)等である。
 秩父の夜祭りは秩父神社の大祭で文化年間に始まり200年の歴史を持ち、毎年12月3日に行われる。
団子坂を見下ろす特別席券をもとめ、ウイスキーのお湯割りを飲みながら観戦した。秩父の冬は寒かった。
祭りのハイライトは約30度の団子坂を登るシーンである。白い息を吐きながら、お囃子に合わせ、長い綱を引っ張っていた。
10トン以上ある屋台が木組みで軋み、お囃子が高鳴るシーンは地響きとして聞こえた。若者が、屋根の上に立ち上がって、大声を張り上げていた。山車の先で、太鼓、笛、鉦が鳴り響いた。若者が肩から腰を紐で支えられ、ちょうちんを回し、体で調子を取っていた(写真1)。
秩父夜祭り
写真1
秩父夜祭り



団子坂広場が四方から照らされ、屋台と笠鉾が勢ぞろいし、花火が夜空に打ち上げられた。山車の細工物が豪華で、ちょうちんの光に照らされて輝いた。赤提灯で、ホルモン焼を肴に熱燗の酒を飲み、バスの集合時間まで楽しんだ。

 川越まつりは氷川神社大祭で、慶安年間に始まり、350年以上の伝統がある。10月第3土日の開催。川越は、芋作りが盛んで、川越運河で江戸まで運び、芋を売り込んで江戸の富と文化を買った。
江戸を真似、江戸の生活を移すことに誇りをもち、経済力をもった。川越祭りの山車は特徴があり、三高欄・二重鉾・せり上げ式伸縮自在構造・廻り舞台である(写真2)。
川越祭り
写真2
川越祭り




「曵っかわせ」とは、他の山車とすれちがったとき、廻り舞台装置で互いに正面を向き合いながら、お互いのお囃子を乱れ打つことである。はやし台に、太鼓、笛、しょう、おかめ・ひょっとこ・狸・猿・狐の面をつけた踊り手が乗り、ユーモラスな踊りを披露する。夜、ちょうちんをつけた山車の「曵っかわせ」は見応えがあるという。蔵造り、時の鐘を見、名高い芋菓子を買って帰った。
 栃木県の鹿沼(市)ぶっつけ秋まつりは、今宮神社の例大祭で、10月第2土日で行われる。
五、六台の山車が集まり、半円を描き、各々の山車が独自のおはやしを打ち鳴らす。金と太鼓を夢中になって打ち、他のおはやしを互いにかき消すように打ち鳴らす光景に、背筋が続々した。これを「ぶっつけ」といい、お囃子の競演である。
山車の上に乗った若衆が、電線を持ち上げるための棒をたかだかと掲げて、わいわいと大声で叫ぶ。迫力があった(写真3)。
鹿沼ぶっつけ秋まつり
写真3
鹿沼ぶっつけまつり


江戸の山車の影響と、日光東照宮の彫刻技術・大工の技が混じった山車である。彫刻屋台会館で見られる。  現在、東京には山車がない。関東大震災と東京大空襲ですべて無くなった。東京はその後山車の代わりに御輿をつくって祭礼を行っている。地方の町の豪商が、江戸で使い古しの山車を買って持ち帰ったのが現在文化財として残っているのである。多くは小京都と呼ばれている。

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3.6、ロードレース4選


故郷栃木県で行われるロードレースを推薦する。
@ 益子町の城内坂マラソン
 益子町の城内坂マラソンは3月の第2日曜日に開催。
走る陶工とその仲間たちが運営する素朴な大会である。ゼッケンは手作りの布製、毎年使われる。参加の手続きは当日のみ、参加費は千円。
1割は益子町福祉協議会へ寄付される。参加者は80名から150名と増えてきた。
参加賞は走る陶工が作った益子焼きで、「走」の文字が入っている(写真)。高館山300mを登って下るきついコースである。
栃木県のマラソン大会参加賞






A 二宮町の二宮尊徳マラソン
二宮町の二宮尊徳マラソンは町民が作った大会である。
4月第1日曜日の開催。藩の飛び地であった関係上、神奈川県小田原市近くの二宮町と縁が深い。一帯は名産イチゴ「とちおとめ」のビニールハウスが立ち並んでいる。
公園のそばに二宮神社があり、桜町陣場跡に陣屋が修復され、二宮尊徳資料館が完成した。
参加賞は名産のイチゴ1パック、Tシャッツかバスタオル(尊徳の精神である報徳訓:父母の根元は天地の令命に在り、子孫の相続は夫婦の丹精に在り、とローマ字入り、写真)、サービスは尊徳大鍋で作った豚汁。
10人に一人の割合であたるイチゴ4パック、さらに抽選で1等から5等までの景品付き。1等は折りたたみ自転車。入賞者には米5kgの副賞。サービスは年々よくなった。
 B 鹿沼市さつきマラソン
鹿沼市さつきマラソンの特徴は毎年変わる気の利いた参加賞:ピクニック用ビニールシート、折りたたみ式簡易椅子、ペットボトルケース、簡易ザック(写真)、ピクニックセット、などで、マラソン100選に選ばれた
欠場した時は郵送してくれるのが有り難い。5月第2日曜日開催。日光線、鹿沼駅下車。はるばる賞はさつきの苗木。5年、10年の連続参加はりっぱなさつきの特別賞がもらえる。
山車屋台会館、川上澄夫木版美術館の入場券、温泉の無料招待券付きである。毎年天気に恵まれ、男体山を眺めながら走ることが出来る。
 C 今市杉並木マラソン
今市杉並木マラソンは8月第1日曜日開催。例幣使街道を下り折り返して登るきついコースである。高低差は120m。この街道は、大名が日光東照宮参拝で往復したもので、全長37kmに17000本の大杉が街道両側に植えられ、杉並木としては世界一である。年に100本近くが朽ち落ち、早急の保護が打ち出された。街道は雨に濡れ、気温の上昇と共に、高湿の中の苦しい走りとなる。日が杉並木に遮られるので助かる。白百合が咲いていた。最高のサービスは完走後のもろきゅう。自家製みそがおいしい。首にガーゼを巻き、項に水を振りかけながら走った。出場者は2000人。参加賞は毎年の絵馬(写真)、Tシャッツ。玉こんにゃくコップ一杯150円が有り難い。たっぷりからしをかけて食べた。今市は二宮尊徳の終焉の地である。

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3.7、解剖の記


記その1.山脇東洋と杉田玄白・前野良沢は、それぞれ1754年と1771年に、観臓を行った。
玄白はまとめ役、良沢は学究肌で、名コンビであった。解体新書を完訳し、近代医学を立ちあげた。吉村昭著「冬の鷹」に詳しい。当時、解剖は腑分け人足(非人)が行い、医師がそれを観臓した。村田蔵六(のちの軍神・大村益次郎)は1859年、自らが女性の遺体を解剖し、産婦人科医に教授した。蔵六は医学と兵学で名をなしたが、家庭に恵まれなかった。司馬遼太郎著「花神」「鬼謀の人」に詳しい。
 その2.梅毒院に入院中の遊女みきは、生前に自分の解剖を希望していた。手厚く葬られることが条件であった。
明治2年8月12日、34歳であった。田口和美(東大初代解剖学教授)が解剖を行い、桐原真節が説明を行った。念速寺に埋葬された。墓は地下鉄春日駅下車徒歩15分白山1丁目にある。プラスチックのケースでカバーされた小さな墓だった(美幾女基、写真1)。


(写真1)
みきの墓
当時は自ら屍体を提供することが難しかった。みき(美幾)の志は、国内特志解剖第1号として我が国の医学研究の進展に大きな貢献をしたのである。吉村昭著「梅の刺青」に詳しい。近くに伝通院、こんにゃくえんま、樋口一葉ゆかりの地があり散歩コースとなっている。
 その3.はじめての病理解剖は明治6年、外人教授によって行われた。脚気で亡くなった26才の人であった。
日本人による病理解剖は、明治9年名大医学部創始者・司馬凌海が行い、患者は子宮外妊娠であった。引き続き結核性腹膜炎の病理解剖が行われた。JR日暮里駅南口を出て、紅葉坂を登ると谷中墓地に出る。隣の天王寺墓地に、ドーム状の東京大学医学部納骨堂がある(写真2)。


(写真2)


横に高さ3mの石碑「千人塚」(写真3)が3基建っていた。
明治3年10月から明治37年8月までに3000体の解剖が行われたのである。毎年秋の解剖慰霊祭に東大の医師、学生、看護婦、医療関係者が献花に来る。吉村昭が書いている。


(写真3)


 その4.明治維新の激動期に、二人の山形出身の志士がいた。清川八郎と雲井龍雄である。
清川は清川神社で祀られているが、雲井は知られていない。山形生まれの藤沢周平が「回天の門」と「雲奔る」で彼らを書いた。
雲井は明治3年の暮れ、小伝馬町の牢屋敷で斬られ、小塚原刑場で梟され、身体は解剖された。昔も今も、敗者はひどい仕打ちを受けたのである。
 その5.昭和20年5月、戦闘機「紫電改」の体当たりで、米軍機「B29」は墜落した。八名の搭乗員は、収容所へ送られ解剖室に消え、医師によって極秘裡に処理された。
軍事裁判が行われ、絞首刑・終身刑を言い渡された9名の被告は、軍と九大医学部関係者であった。絞首刑が言い渡された後、ひとりの夫人が嘆願書を出し、弁護士に直談判を行った。被告人医師は重労10年に減刑され、巣鴨プリズムに8年間入った。
34年後の言葉は、「教授を責めたり恨んだりする人間はおりません。すべては自分の責任です。人間は正論を踏み外してはいかんのです」であった。
「生体解剖は軍が命令したものだとしても、医師として当然断るべきだ。自分がその場にいたとして一回目に生体解剖の事実を知ったなら、おそらく二回目からは参加するまい」という医療関係者の証言があった。
解剖室を提供した教授が重労25年の刑を受けた。上坂冬子著「生体解剖・九州大学医学部事件」、遠藤周作著「海と毒薬」に詳しい。巣鴨のことは吉村昭著「プリズムの満月」に詳しい。
 思い出の記.昭和44年4月解剖学実習第1日目、解剖学教授のお話があった。「ご遺体の胸にあなたたちの手のひらをおきなさい。ご遺体から君たちひとりひとりの手のひらをとおってメッセージが伝わってくるでしょう。忘れない様にして下さい」であった。
緊張、興奮、感動を体験した日だった。あれから36年が経った。
 (付)ニューヨークにあるモンテフィオレ病院の解剖室に、ラテン語「この場所は死者が生者に教える処」と書かれている。
現在、解剖数が減少してきた。病理解剖が臨床に貢献する意義はなくなったのであろうか。

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3.8、海がみえる3名山


山の裾野が直接海にそそぐ名山がある。
鳥海山、大山、開聞岳で、山の頂から眼下に海が見え、感動したので小話を綴る。
最初は鳥海である。酒田から鉾立登山口へ、御浜小屋で、鳥海山頂と鳥海湖を眺めながら昼食を食べた。
七五三掛(しめかけ)分岐で、右の外輪山コースを辿った。頂上付近は岩山で、ルートが分からず苦心して新山頂上(2236m、写真1)へたった。


(写真1)
新山頂上



岩表面が凍っていたら危険であろう。小屋の前で銘酒「日本海」を飲んだ。脱水の体の隅々にアルコールが染み渡った。外輪山は岩が帯状に何層も平行に走っている。雪渓が谷を埋め、千蛇谷コース登山路が細長く見える。日本海沿岸のシルエット、酒田港のクレーンの列、小さな岬が続き、飛島が一の字に横たわっている。
海面が光り輝く「光る海」を肴に一時間酒をのんだ。太陽の光が雲の間から海面に降り注ぐのである。
太陽が日本海へ沈む前の現象である(写真2)。


(写真2)
太陽が日本海へ沈む



帰ってから石坂洋次郎の「光る海」を再読したが、この景色とは関係なかった。
 翌朝、影鳥海は見えなかった。朝日が鳥海山にあたり、山影が日本海に投影するのである。太陽が高くなるにつれて影は小さくなり、僅か30分間の現象である。逆に、夕日が新山に当たり、山頂のシルエットが外輪山の壁に現れるのを逆影鳥海と呼ぶ。ハイカーは、影・逆影鳥海を見るために山頂小屋に泊まるのである。
 日本海を眺めていると、藤沢周平が生まれ育った地が見えた。庄内藩が小説の中で「海坂藩」となって登場する。
周平が投稿していた俳誌の名を借用したようである。エッセイの中で、海坂とは「海辺に立って一望の海を眺めると、水平線はゆるやかな弧を描く。そのあるかなきかのゆるやか傾斜弧を海坂と呼ぶと聞いた記憶がある。美しい言葉である」と語っている。周平が見た日本海が目の前にある。
次は大山である。出張先の宇部から下関に出て、夜行列車で米子に行き、バスで大山寺部落へ。大山頂上(1713m)は北面の崩壊が激しく(写真3)、「縦走しないよう」の掲示板が立ててあった。



(写真3)




南北が鋭く切れ落ちているからである。バランス感覚とくそ度胸をもつ冒険家がいるのだろう。頂上は、山の脆さのため、木道がきちんと整備されていた。麓から山頂へ石を運ぶ「運動」の呼びかけがあった。崩壊が止まらないのだろう。頂上から宍道湖、日本海、蒜山三山が見えた(写真4)。


(写真4)
頂上から宍道湖、日本海、蒜山三山が見えた



下山すると大山神社の例大祭の日で、境内と社殿で山伏姿に扮した若者が、太鼓の乱れ打ちをしていた。露天が出て、古着、農具、焼印する金属製の道具が売られていた。
大山は南北から全く違って見え、魅力のある山である。32歳の思い出である。
 最後に開聞である。指宿の国民休暇村に泊り、タクシーと汽車で開門駅へ。無人駅前にあった駄菓子屋に荷物を預ける。村内放送が聞こえる長閑な所だ。おとりの鳥を二羽持った密漁者風のおじさんに会う。9合目からは急に展望が開けた。2時間で頂上に到着(924m、写真5)。



(写真5)




広くてどこまでも続く太平洋と、虫垂の形をした長崎鼻が目にはいる(写真6)。
山全体が海から直接せり上がている(写真5)。巨大鰻で有名な池田湖が近くに見える。沖縄、台湾、霧島連峰は見えなかったが、海と空は真っ青だった。36歳の春のことである。



(写真6)
虫垂の形をした長崎鼻が目にはいる


 海からそびえ立つ孤高の山に利尻岳と宮之浦岳がある。いつの日にか登ってみたいものである。

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3.9、常念岳から富士遠望


89年夏、憧れの常念を歩いた。常念は大糸線のどこからでも見える大きな山である。
千葉大生協プレイガイドで、学生割引きの夜行バス「新宿→穂高駅前」クーポン券を買うことができた。学生でないのに不思議である。5時穂高駅前着。夜行バスは非常に疲れる。足がむくみ、靴がきつくなった。中房温泉出発、第1、2、3、富士見ベンチを経て、合戦小屋着。8分の1に割ったスイカが売っていた。徐々に天候が悪化。燕岳直下の尾根に出た瞬間、傘が壊れてしまった。燕山荘着。昼過ぎに、雨は止んだが、ガスっていて、槍、燕、野口五郎や烏帽子は見えなかった。あたりは真っ白。厚手のセーターを着ても寒かった。ガスが風に吹き流され、一瞬周りの山々が、見え隠れした。明日は天気がくずれるようだと、下山しなければならない。
夕食は約30分間隔の交代制で、食後、アルプスホルンコンサートが行われた。酸素が少ないので弾くのは苦しいようだ。8月最後の土曜日にクラシックコンサートが行われ、楽しみにしている登山客が多い。
 翌朝雨。多くの登山者が出発した。約一時間の模様眺めのあと、悪天候の中、若者にご一緒させてもらう。喜作新道分岐点着。カッパはビショビショ。休みをとると体が冷える。大天井岳着。何も見えない。熱いコーヒーをつくって飲んだら、旨かった。弱気になったが若者に威立てられ出発。ガスの中の尾根歩きである。10時突然展望が開ける。奇跡である。突然、憧れの<北アルプス>に変化し、槍、穂高連峰がすぐそばにある。瞬時に欝から躁へと変わり、楽しい尾根歩きとなった。常念小屋着。一階の食堂隣の展望テラスと、二階の喫茶室を兼ねたサロンからの眺めは最高である。二本の木の間、槍、大キレット、北穂、前穂、涸沢、西穂、奥穂の山々がそこにあった(写真1)。



(写真1)
槍、大キレット、北穂、前穂、涸沢、西穂、奥穂の山々がそこにあった。




日本一の展望台であろう。一杯700円の生ビールを飲む。展望テラスは直射日光が激しく、タオルを頭に被った。高所、脱水、疲れで、酔っぱらってしまった。常念小屋開設70周年で、「常念坊」記念木札を頂く。60才前後の単独行が多い。がんばろうと思った。
  翌日4時起床。寒いが、天気が望めた。4時55分日の出。日の光に穂先だけが照らされた槍穂高連峰がよかった。常念岳までの急登はきつかった。おばさんが「死にそう、死にそう」と口走っている。中高年の登山者は必死の形相であった。1時間以上かかって、やっと7時10分憧れの常念岳(2857m)頂上に着いた。快晴。北は燕、大天井、後立山の独特なシルエット、槍、立山三山があった。東は火打山、妙高山、飯綱山がみえる。西は穂高連峰の大キレットの間に、白山が浮かんでいる。南は八ツ、富士(写真2)、甲斐駒、北、仙丈、塩見、赤石と馴染みの山群が群がっている。



(写真2)



皆ニコニコしていた。大休憩して出発。蝶ガ岳着。頂上は広い。コーヒーを飲みながら、雄大な穂高連峰と、真下の屏風岩を見入った。屏風岩にへばりついて登るロッククライマーが点々と見える。ヒュッテ蝶ガ岳着。大滝山荘着。楽しみにしていたビールが売り切れ、ホワイトのポケット瓶を水割りで飲み、カップメンで昼食とした。夕食は悪かった。カレーライスと少しのサラダ、お代わりなし。お茶なし。台所へ入って行ってご飯のお代わりを要求した。
泊り客は5人。同室人談があった。「昭和27年頃学校登山で大滝山荘に泊まった。約100名だった。芯のあるご飯を食べた。ウサギの思い出がある」。
 翌日は土砂降り。大槍見台、明神見晴らし着。見晴らしきかず。無理がたたり左膝をやられた。徳本峠着。足を引きずり上高地着。乗合タクシーで松本着。松本駅のトイレで鏡を見たら、顔は真っ黒、ヒゲボーボー、田吾作状態だった。高速バスで帰宅。40歳の夏の思い出となった。

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3.10、甲武信から富士眺望


98秋甲武信に登った。甲武信は甲州(山梨県)、武州(埼玉)、信州(長野)にまたがる大きな山である。
国道50号で前橋へ、高速関越、上信越道路を乗り継ぎ、佐久ICを降り、国道141号線へ。湯の口から梓山、毛木平駐車場着。千曲川源流遊歩道をゆっくり歩く。頂上までの4分の3の登山路は、足下に千曲川が流れていた。奥入瀬より川幅が狭く急流である。千曲川水源標柱、甲武信岳国師ガ岳縦走路をへて、甲武信岳頂上(2475m)に着いた。富士箱根の展望はきかなかったが、国師、大弛、金峰、瑞牆、八ヶ岳、浅間、両神が見えた。
タマゴスープが美味しかった。甲武信小屋着。ビールはなく、紙コップ酒とウイスキー白を飲んだ。夕食はカレーライスだけ、おかわりなし、朝食は生卵と海苔とお新香だけ、最悪だった。2食付き7000円。不満であった。200人以上の宿泊者で、1畳に3人が頭・足・頭の順で寝た。北アの水晶小屋、妙高の黒池沢ヒュッテ以来の混雑だった。下の十文字小屋は15人で、スライド鑑賞をしながら和気あいあいで夜をすごし楽しかったと言うが、おばさんは客を取られたと嘆いていた。60歳から登山をはじめ、百名山を登頂した67歳の男性は、「18kgの無線機を持ち上げてきた。登った山はすべてそれぞれ良かった。深田久弥氏の故郷の山・荒島岳も良かった。ほとんどの登山が天気に恵まれた。登山途中で倒れた時、登山者が発見してくれると考え、週末に登山している」と語っていた。
 翌朝、日の出を見た。15分で頂上。快晴。南に箱根、天城、愛宕と大きな富士(写真1)がみえた。中年女性は、山々を指で指して「我がふるさとの山々ですよ」と誇らしげに語った。


(写真1)
箱根、天城、愛宕と大きな富士がみえた。



秩父連峰の向こうに、北岳のバットレス、塩見、南アルプスの山群、北アルプスの槍穂高から白馬の後立山、頸城三山、浅間、至仏、燧、日光白根、男体を見た。大山頂上で、タマゴスープ、コーヒーを飲み、十文字小屋でカップラーメンを食べ、12時下山。49歳だった。

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4.1、 職業癌・発がん・干支実験


 発がんには化学発がん、ホルモン発がん、放射線発がん、ウイルス発がんがある。職業癌が多数あった。がんは紀元前400年前後にヒポクラテスがつくった言葉である。
 はじめに、タール系物質と色素による化学発がんがある。欧州で、煙突掃除夫の陰嚢に皮膚癌が多発した。1775年、英国の医師ポットは、煙突にたまったススが掃除夫の陰嚢のしわに入り込み、刺激で皮膚癌が発生すると報告した。
「煙突掃除夫癌」といわれ、「発癌の慢性刺激説」の根拠となった。以後この職業癌をヒントに多数の実験が行われたが、皮膚癌発生の報告は長い間なかった。
1915年、東大山極勝三郎と市川厚一はウサギの耳の内面にコールタールを長期間塗って、人工発癌に成功した。篠田達明著「ウサギの耳」(法王庁の避妊法・オギノ式避妊法の中に合本)にくわしい。
タールがんが最初にできたウサギの名前はランとピー子だった。タールを塗り続けた101匹のうち31匹のウサギの耳に、がんができた。塗り続けること150日から300日以上かかった。1930年、英国のケナウエイはコールタールを乾留、含水炭素化合物を多数抽出、そのすべてで動物実験を行い、発癌物質を発見した。タールからベンツピレンを分離し、強力な発がん物質を証明したのである。
巻きタバコのタールにも含まれている。写真1は東北の木地師がろくろで造った木地玩具で、ウサギの餅つき、玉ウサギ(ウかんむりに玉で宝がうまれ、お目出たい)などである。



(写真1)


 英と独のアニリン色素工場の職工に膀胱癌が発生した。
この職業癌をヒントに1932年、佐々木研究所の佐々木隆興と吉田富三は、アゾ色素をダイコクネズミに食べさせた。11ヶ月以上経過するとすべての動物に肝細胞癌が発生した。消化器でなく肝に癌が出来た。
1937年、阪大木下良順はマーガリンの人工着色剤として使ったバターイエローというアゾ色素でラットに肝癌を作った。
写真2は、<俵のネズミは米くってチュウ>の玩具である。



(写真2)




 次に、1896年、ヒト乳癌症例において卵巣摘出が乳癌の予後によい影響を与えると報告された。
1932年、仏の研究者がエストロゲンによるマウスの乳癌発生に成功し、ホルモン発がんを証明した。  続いて、放射線発がんとして、多くの職業癌がある。放射線取扱者に皮膚癌の発生が報告された。独のコバルトやウラン鉱山の従業者に多数の肺癌患者を認めた。夜光塗料を時計の文字盤に塗る仕事をしていた女子工員がラジウム発がんで犠牲になった。筆の先をなめる習性があったのである。キューリー夫人は白血病で死んだ。
 最後に、ウイルス発がんがある。歴史は古い。1910年、米国のラウスはニワトリの右胸に自然発生した肉腫(上皮細胞由来の癌でなく、結合組織系の悪性腫瘍)を発見した。
肉腫の組織をすりつぶし抽出液を若いニワトリに注射したら肉腫ができ、移植に成功した。細菌と肉腫細胞を取り除き、ウイルスだけをとおす磁器で抽出液を濾過し、濾液を健康なニワトリに注射すると、同じ肉腫が発生した。ラウス肉腫ウイルスの発見であった。発見から実に55年後の1966年、ラウスは「発がんウイルスの発見」でノーベル賞を授与された。ノーベル賞を取るには頭脳と健康が必要だ。いわゆる「フィビゲルの誤り」があったために、ノーベル賞選考委員会が発癌の仕事に神経質になったのである。
1913年デンマークのフィビゲルは、ゴキブリに寄生する糸状虫を食べさせ、ネズミの胃に人工的に胃癌を作り、さらに他のネズミに移植することに成功した。1926年、彼はノーベル賞をもらったが、追試が何度も行われ、彼の研究は誤りであったことが確認された。ノーベル賞の三大誤りのひとつといわれている。
 1910年、京大の藤浪鑑はラウス肉腫と似たウイルス肉腫を発見した。鳥屋がもってきた腫瘍を持つニワトリの抽出物を別のニワトリにうつすことに成功した。尿でも腫瘍ができた。濾液でアヒルに肉腫をつくることに成功し、「藤浪の家鶏肉腫」と呼ばれ、「藤浪肉腫」の発見となった。写真3はトリの玩具である。



(写真3)




 1936年、「里子縁組み」実験で、ミルクの中に乳癌ウイルスを発見した。
乳がんができにくいマウスの仔を、乳がんができやすい系に里子に出すと乳がんになった。その逆は乳がんができにくかった。  従って、「証明しうる原因なしに生ずるものが癌であった」が、発がん実験から「発がんの原因は存在する。原因は単一なものでなくいろいろの原因がある」ことが分かった。ウサギ、ネズミ、トリは発がんの解明に貢献したのである。
「医学の歴史」「新・ガンの知識」「ウイルスとガン」「がんというミステリー」を参考にした。吉田富三の墓(駒込吉祥寺)と吉田富三記念館(福島県浅川町)にネズミの碑がある。ウサギとトリの碑はないようだ。他に、ヒツジ(田原淳の心臓刺激伝導系)、ウシ(ジェンナーの牛痘)が医学に貢献した。
 以下余談。ウサギの耳静脈と門脈にトロンビンの持続注入実験を行い、フィブリン血栓と肝臓の貪食細胞(クッパー細胞)の機能を電子顕微鏡で観察した。31歳の時だった。実験前夜はウサギにおいしいキャベツを与えた。ウサギに感謝している。

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4.2、教師冥利


 山口瞳はサントリー寿の広告部にいた時、当時流行語大賞になった「トリスをのんでハワイにゆこう」を歌い上げた。
直木賞作家で、週刊新潮の男性自身シリーズを1800回以上連載した。名著「けっぱり先生」(写真1)は、「一度でも誉めてくれた先生、一度でも頑張れよと声をかけてくれた先生が一生の恩師なんです」「learning by doing やってみようじゃないか 試行錯誤でいこうよ」と叫んでいる。
校長が「卒業式は先生が生徒に詫びる日なのです。卒業式の歌である<仰げばと尊し>を詠わないで下さい」と祝辞を述べた。卒業生は、卒業証書を持ち、校長の校宅を囲み、全員で「仰げば尊し わが師の恩 教えの庭にも はやいくとせ おもえばいととし この年月 今こそわかれめ いざさらば」「身をたて 名をあげ やよはげめよ」と大合唱となった。


(写真1)




モデルは桐朋学園の名物校長である。若い頃は、トリスのハイボール(ソーダ割)をよく飲んだ。現在は、悲しい酒と紅トンボを口ずさみながら、角とブラックニッカのハイボールを飲んでいる。
 藤沢周平は山形県鶴岡の農家の二男。高等小学校、高等科、鶴岡中学夜間部(昼は印刷会社勤務)、山形師範(一年上に無着成恭がいた)をでた。
昭和24年、湯田川中学校へ赴任、国語と社会を担当した。教師を二年間しか務められなかった。昭和26年、学校集団検診で肺結核を指摘され、鶴岡で療養生活を送った。昭和28年東京北多摩の結核療養所へうつり、数回の手術をうけた。病院内の俳句同好会に入り、句誌「海坂」へ投稿するようになった。昭和32年退院したが、結核の既往があって教職復帰は出来なかった。
業界新聞社を転々とした。34年結婚、38年2月長女が誕生したが、10月妻が癌で亡くなった。子供を育て、新聞社に勤務しながら、細々と小説を書き、文学賞へ応募したが、入選ができなかった。
昭和46年新人賞を受賞、48年4回目で直木賞を受賞できた。同年10月、山形の教え子が開いてくれたお祝い会で、受賞記念の講演を行った。
「小説の周辺」の中の「再会」で、「前列に教え子たちがいた。もう40近くになっていた。私が話し出すと女の子たちは手で顔を覆って涙を隠していた。私も壇上で絶句した。講演が終わると教え子たちにどっと取り囲まれた。先生は今までどこにいたのよとなじる子もいた。父帰るという光景になった。教師冥利に尽きるというべきである。
私はこの24年間行方不明の先生だったのだろう。業界紙の記者と小説家とどっちが幸福かは簡単に言えないが、その時だけは私は小説家になってしあわせを感じるのであった」と、感動をこめて書いた。写真2は、平成17年10月世田谷文学館で開催された藤沢周平の世界展のポスターである。


(写真2)





 無着成恭は山形師範で周平の一級先輩にあたり、中学生43名全員が書いた作文を「山びこ学校」として編集した。みんなで話し合って、どうしたら自分たちの貧乏をなくすことが出来るか、一緒に考えることが大切だと話し合ってまとめ上げたのである。
生徒は卒業式の答辞で「私たちの骨の中しんまでしみこんだ言葉は『いつも力を合わせて行こう』『かげでこそこそしないで行こう』『働くことが一番すきになろう』『なんでも何故?と考えろ』『いつでも、もっといい方法はないか探せ』ということでした」「自分の脳味噌を信じ、自分の脳味噌で判断しなければならなくなります。私たちはやります。今まで教えられて来た一つの方向に向かってなんとかかんとかやっていきます。私たちはやっぱり人間を信じ、村を信じ、しっかりやっていきます」とあいさつした。
5年後の成人式で、「戦争中の戦争教育。戦争後の自分を失ったゴタゴタ教育。そこからやっと立ち直ったのが自分を素直に見る、事物を素直にありのまま見るという教育でありました。自分や事物を素直に見るという態度によって支えられて、私たちはもっともっと成人するでしょう」と「成人へのちかいの言葉」を述べた。教師冥利であろう。
 以下余談。昭和54年度の一年間、福島盲学校で病理学を講義した。教え子は8名、点字をたたく音がひびいた。一人が兵庫県尼崎で、針灸医院を開業し、毎年年賀状を送ってくる。弱視だが写真が趣味で、年賀状は風景写真であった。25年間毎年年賀状だけのつきあいをしている。講義第一日目のオリエンテーションで、教頭が「生徒は心の整理がついています。同情をすることはありません」と言った。福島盲学校は市外への移転話があったが、移転せずに存続していたので安心した。「自分で摘んだモグサでお灸をしてやるよ。鍼を打ってやるよ」と言われた。その厚意が嬉しかった。

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4.3、飯豊連峰石コロビ雪渓をのぼる


 81年の夏、東北の名峰・飯豊連峰の石コロビ大雪渓をのぼった。車で福島を出発、飯豊温泉「飯豊山荘」に宿泊。温身平で朝食のおにぎりを食べ、カイラギ沢(梅花皮沢)を登ると、石コロビ沢雪渓(写真1)が始まる。
日本三雪渓(白馬大雪渓と針ノ木雪渓)の一つで、U字型の谷は絶景である。雪渓が切れたところに山小屋がみえた。2時間は傾斜が少なかった。沢から尾根に上がるため傾斜が急になり、足が疲れ、ステップが切れず難渋した。
アイゼンとストックはもってなかった。堅い雪を、足でキックし、足場を作るのが難しかった。登山部OBが真横で、一二一二と掛け声をしてくれたが駄目だった。次に、先頭でステップを切り足場を作ってくれたが、ステップの幅が人それぞれ違うので疲れた。休憩までの間隔が短くなった。煙草を吸った直後は元気が出たが、リバウンドで疲れが増加した。頭が刺激されて回復したと幻惑するだけなのだろう。以後禁煙を志こととなった。
滑って転んだら下まで滑り落ちてしまうだろう。一層慎重になり、体力と神経が疲れる。雪渓の両端は氷が薄い。雪が厚い三分の一の所を歩くことが、雪渓登りの鉄則である。落石が登山路に集中して落ちて来る。重心を前に置くのがきつくなった。



(写真1)

石コロビ沢雪渓



腹筋背筋が弱いのだろう。雪渓から草付きへの移行は、斜面の角度がきつく、草にしがみつき、草にへたりこんだ。やっと十文字鞍部にカイラギ小屋(写真2)が見えた。鳥肉は雪の中に保存し、夕食の準備をした。新築の小屋の2階に寝た。


(写真2)

カイラギ小屋


 翌日は天気悪く、終日霧雨。空身でカイラギ小屋を出発。視界は数百メートル。天気が良かったら、尾根歩きは最高だろう。与四太郎ノ池、烏帽子岳、亮平ノ池、御手洗池、天狗の庭から、御西小屋へ。飯豊本山は霧の中。来た道を戻った。カイラギ小屋で休憩し、突然下山することが決定した。
北股岳(2,024m)、門内岳(1,887m)までは快適だったが、梶川尾根に入ると限界になった。無性に水が飲みたくなり、メンバーの水を頂いた。足に力が入らず、手を使って下りた。手の力を借り足を動かす様では、限界を越えたのだろう。荷物の一部を分担して貰ったが、回復しなかった。
女性の荷物と交代して貰った。情けなかった。暗くなってきて野宿かと思った。10時間近く歩って、やっと自動車が置いてある登山口に着いた。直後の写真は疲労一杯の顔だった。顔は脂ぎり、目が奇に座り、頬は痩けていた。飛び込みの宿で、ビールを飲んだが尿が出なかった。翌日は快晴。山の上はどうだったろうか。32才の醜態登山だった。

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4.4、後立山連峰針ノ木雪渓をくだった


 90年の夏、後立山連峰の鹿島槍と針ノ木を登り、針ノ木大雪渓をおりた。新宿西口出発の夜行バスの切符を、某大学の生協で学割で買うことがなぜか出来た。41才だった。八峰と不帰のキレットを越えるのが怖くなり、後立山連峰(鹿島槍、五竜、唐松、白馬)を縦走する計画をやめ、扇沢から入り扇沢に戻るコースに変更した。
 早朝、扇沢に到着。快晴。扇沢出合、モミジ坂をこえると、種池山荘が見えた。ガレ場を横切った時、左下腿腓腹筋が痙攣した。種池山荘着。最後の登りがきつかった。南には針ノ木、針ノ木雪渓、蓮華が展望出来た。剣、立山連峰に圧倒される。
奥剣の険峻な岩峰、岩峰が造る大きな窓、三ノ窓と小窓、窓から連なる三ノ窓雪渓と小窓雪渓、長次郎谷、平蔵谷、剣沢がみえた。一服剣、前剣、剣岳(2998m)、長次郎ノ頭、小窓ノ王、小窓ノ頭、池ノ平山が青空に突き出ている。北アルプスの4時間コースをお奨めする。
@ 新穂高温泉ワサビ平鏡平コース、A 一ノ沢常念小屋のコース、B 扇沢種池山荘コース である。
爺ヶ岳南峰は360度の展望。南アルプスが見えた。冷池山荘泊。缶ビール(770円)を飲み、カップラーメンを食べ、コーヒーを飲んだら腹の調子が悪くなった。
 翌朝、日の出を拝んだ。ハクサンフウロ、ウサギギクが咲いていた。布引岳から遠望すると、剣の雪渓は黒く沈んでいた。鹿島槍南峰(2890m)着。五竜からの八峰キレットは、一見の価値があった。<前にも後ろにも動けなくなった中年の登山者>が、いたる所で立ち往生しているらしい。ベテランも立ち止まると恐怖を感じるという。中高年の登山者は、難所のルートを自慢しあい、登った山の数を競い合うようだ。
冷池山荘着。アルバイトの人が、トイレ掃除、廊下の雑巾がけ、靴を入れるビニール袋を整理していた。種池山荘着。高山植物の群生があった。岩小屋沢岳着。新越乗越山荘到着。写真1は小屋からみた針ノ木雪渓である。快適な部屋に泊まれた。ある東北地方の中年が「苦しくない楽しい登山をしたいですね」と言っていた。同感である。



(写真1)
小屋からみた針ノ木雪渓




新越乗越山荘出発。アップダウンの連続だった。五つの山を越えた。ヨツバシオガマが疲れを癒してくれる。鳴沢岳と赤沢岳の直下に、「関電針ノ木トンネル」が貫通している。
扇沢方面から、トロリーバスのアナウンスが聞こえる。スバリ岳は、小さな脆い岩峰が直立し不気味だった。傾斜が急で、ガレ場で滑りやすかった。大スバリ着。針ノ木岳に圧倒された。針ノ木直下は急斜面のガレ場で、何度も滑り、体力を消耗した。
針ノ木岳(2821m)着。黒と白の岩燕が元気よく飛び回っていた。遊覧船が、黒部湖を南から北に走っていた。針ノ木小屋着。完全にばてた。直射日光がきつく、日陰で食事をとった。夕食のハヤシライスは美味しかった。初老の登山者は、お茶と味噌汁だけを呑んだだけだった。跡かたずけをしないで席を立ったので、代わりに食器をかたずけてやった。酔っぱらいが、夜中に、上段の寝床から床に落ちた。人騒がせの登山者がいた。
小屋のまわりは、翌朝暗い時間から、大型カメラのファインダーを覗いている登山者で溢れていた。槍穂高が一望できた。槍の先に太陽の光が当たった瞬間をねらっていた。頂上一帯は、コマクサの群生(写真2、3)があった。




(写真2)
コマクサの群生







(写真3)
コマクサの群生



細かい石で覆われた所に好んで生息する。中座しコマクサに焦点を合わせ、剣をバックに、写真を撮った。蓮華岳着。三脚を立てたカメラマンが「この展望が忘れられなくて、いつまでも山をやっているのですよ」と言っていた。最高の展望があるから山に登るので、精神鍛錬をするために山を登るのではないのである。
針ノ木小屋着。傾斜が急で、蟹の横歩きでゆっくりと下がった。雪渓頂上で、アイゼンを履き、雪渓下山開始。アイゼンは、急傾斜の雪渓を歩くのによい。雪渓の「のど」が急だった(写真4)。


(写真4)
雪渓の「のど」が急だった




大沢小屋着。百瀬慎太郎のレリーフがあった。『山に入れば友を思い、町にいれば山を思う』(百瀬慎太郎)。扇沢着。ネットで約1700m上下した。

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4.5、渓流をあるく


 91年8月、大学時代の友人5家族20名で、奥入瀬渓流(写真1)を散策した。
十和田温泉焼山部落の温泉民宿「南部屋」に泊まった。娘は4才の年中さん。八甲田山系の1478m小岳と睡蓮沼をバックに記念写真を撮った。八甲田ロープウエイで山頂へ。20分位歩いて田茂萢(たもやち)岳湿原1324mに着いた。池溏が点在。バックは赤倉岳1548m。大岳と高田大岳は確認できなかった。大岳に登り、酸ヶ湯温泉へ下るルートがあるが、団体行動なので諦めた。翌日は10km2万歩3時間の奥入瀬を漫遊した。一面の深緑の絨毯。渓流に接してある遊歩道。1年中水位が変わらない珍しい渓流。感動した。阿修羅ノ流れ、白布、雲井、双竜ノ滝を通り、銚子大滝の前で記念写真。十和田湖で、遊覧船に乗った。子供達の笑顔が何とも言えない。団体旅行は楽しい。単独で山に登るのは寂しい。



(写真1)
奥入瀬渓流


 93年6月、三重県津市に出張し、赤目四十八滝(写真2)と大台ヶ原を歩いた。津、中川、名張、赤目口、赤目滝と近鉄線を乗り継いで10時30分到着。ここは、観光地百選に選ばれた。全山岩山で、多彩な滝と渓流、穏やかな淵、岩と岩の間の木々から出来ている。奥入瀬とは異なり荒々しい。滝は数メートルから30mまで。水量は多くなかった。千手滝、布曳滝、荷担滝と滝が連続していた。
出合、落合入口、紅葉谷と歩いて、青蓮寺川へ。香落渓は層雲峡と同じく柱状節理の断崖で、11月の紅葉の季節が良いらしい。約15kmを約4時間かけて歩いた。国民宿舎赤目ロッジ泊。早朝タクシーと電車を乗り継いで、大台ケ原へ。交通の便が悪い。東コース約9kmをハイキングした。大台ガ原駐車場から日出ケ岳(秀ケ岳、1695m)、正木ケ原(トウヒの立ち枯れ)、牛石ケ原、大蛇嵒(だいじゃぐら、眼下は約1000mの絶壁)、シオカラ谷を一周した。帰りのバスは3時間後だった。日出ケ岳から桃ノ木小屋で一泊して大杉谷に降るコースと、西コースから小処温泉へ行くコースがある。多雨地帯である。9kmで2時間30分のハイキングであった。



(写真2)
赤目四十八滝



 95年8月、西沢渓谷(写真3)を歩いた。6時40分水戸を車で出発、4時間で西沢渓谷へ到着した。
渓流は、一枚の花崗岩の上をなめるように流れ、時に激しく落下した。七ツ釜五段の滝は、袋田の滝より小さいが、名瀑布だった。国師岳を源流とし笛吹川となって甲府盆地を流れる。渓谷終点に荒廃した鉄道レールが引かれていた。廃線の理由が書いて無かった。シャクナゲが群生していた。塩平民宿「風来坊」着。養蚕農家で、釘を使っていない大きな農家で、家の回りに廊下がめぐらせた古い家だった。
自家製の味噌で食べたもろきゅうは美味しかった。薬膳料理を頂く。額紫陽花、露草、桔梗、イタドリ、三つ葉の葉のてんぷらで、からっと揚げてあって美味しかった。露草は乳癌防止、その他は抗利尿作用がある。肉じゃが、鯖から揚げ、人参ピーマン煮マリネ、ハーブ野菜サラダ、甘いトマト、打ちたてのうどん、ナスの味噌煮、食べきれない程の料理だった。町会議員選挙の祝勝会が、夜遅くまで続き、うるさくて眠れなかった。



(写真3)
西沢渓谷


 97年6月、福島県いわき市中井川渓谷背戸峨廊をあるいた。メンバーは病院勤務の看護婦さんをふくめ9名だった。川縁が狭い岩場を歩き、3連続の揺れる鉄梯子を登り、川を渡り面白いコースであった。
奥入瀬や赤目48滝に負けないりっぱな渓谷である。増水時は危険である。豚汁を食べ、ビールを飲んだ。看護婦さんのかわいいおしりを眺めながらの楽しいハイキングでした。
 番外渓流として岩手の厳美渓(写真4)があり、車を降りるとすぐに見える。



(写真4)
厳美渓

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4.6、ペスト(黒死病)をよむ


 ペストは高致死率の伝染病で、「大量死」という意味をもつ。1350年頃に発生したペストを特に「黒死病」と呼び、黒死病は中世を終わらせ、近世の幕を開けた。ペストに感染すると、高熱、頭痛、めまいが起こり、腋の下や鼠頚部のリンパ節が腫れる。敗血症のため手足の末端と鼻の先端に出血斑ができる。以上の症状は初期症状で「腺ペスト」という。ノミがペスト菌に感染したネズミの血をすい、ペスト菌はノミの腸管に棲みつく。菌はノミの血と糞を介して感染する。進行すると肺で増殖し血痰や喀血を示す「肺ペスト」になり、ノミを介さずにヒトからヒトへと空気感染し、感染を広げる。意識障害、ショックを伴い、死に至る。当時の治療は「瀉血」だった。外科医を標榜していた床屋さんが瀉血を行った。床屋さんの赤と青のくるくる回る看板は瀉血治療の名残である。赤は動脈、青は静脈、白は包帯を表している。
 ノーベル文学賞作家・カミュは「ペスト」の中で、「まずネズミの死から始まった。ネズミの死体が毎日道路とアパートの階段に転がっていた。人に腺ペストが発症した。原因は特定出来なかった。48時間以内に死をもたらした。ペストと分かると町は封鎖された。肺ペストに移行し、口から口への感染が広がった。民衆は別離、焦燥、恐怖、混乱、先の見えない不安、過労、孤独と闘い、監禁状態となった。老医が抗血清の製造を試みた。血清の効果か自然治癒か不明であったが、ペストとの戦争は終わり、人類はペストから解放された」と書いた。ネズミの死体の数は病勢を表した。ペストと戦争は同じくらいにおこり、市民はいつも無用心だった。今までに約30回のペストの発症があり、世界で約1億人が死んだ。14世紀の欧州では3分の1の2500万人が死んだ。人口の回復に長い時間がかかった。上下水道の不備、環境衛生の不備がさらに感染を広めた。以後、患者の届出と隔離、患者の使用品の焼却、港での検疫制度が確立された。
現在、14Cにおきたペスト大流行が見直されつつあり、流行前にネズミの死体が少なかったこと、交通機関が未発達にもかかわらず流行のスピードが早かったことから、ペスト単独というよりも、ペストと炭疽菌の合併の可能性を指摘する研究者がいる。欧州には多くの街角にペスト記念碑がある。写真1はウイーンの塔である。欧州では愚かしい信仰から、猫を悪魔の使いとして拷問を行ない火あぶりにした。猫を大量に虐殺した報いは、ネズミが媒介するペストの大流行となったのである。



(写真1)
ウイーンの塔

「デカメロン」は、ペストが14Cに大流行した時代の小説である。フィレンツェの田舎にペストの難を逃れた7人の女性と3人の男性が、一人が1日1話10日間合計100の話をまとめた物語である。ペストの話は非常に少なかった。 ユダヤ人は差別や迫害を受けた。ペストは東方からやって来たという理由で、キリスト教徒達はユダヤ人を虐殺した。スケープゴートされるのは弱い人たちで、いつもユダヤ人だった。第2次世界大戦のナチスドイツまで続いた。ペストは差別と偏見を生んだ。
東京市はネズミ退治の政策をとった。ネズミ一匹を5銭で買い上げ、1年間で300万匹のネズミが捕獲された。東京広尾の祥雲寺(地下鉄日比谷線広尾駅下車徒歩5分)にネズミの供養塔(写真2)がある。


(写真2)
ネズミの供養塔

日本は、ペストの予防と治療が確立しつつあり、北里柴三郎らの献身的な医療活動によって、被害が少なかった。水際作戦がうまくいったのである。明治27年「香港ペスト事件」がおきた。日本政府は臨床医青山、細菌学者北里、北里の弟子石神を含む6名の医管を、香港に派遣させた。永原が現地採用となった。ゴム手袋なしの素手でペスト患者18名の解剖を行い、臓器の細菌培養を行った。ペスト菌の発見は仏学者と競争になった。後に医科大学長となった青山と石神と永原は指から感染し、腺ペストに罹患した。腋窩リンパ節が腫れ、切開すると膿汁が膿盆にあふれ、膿がろう孔からいつまでも出た。石神は妻に遺書を書いた。永原が死んだ。青山と石神は3週間を過ぎてやっと解熱し回復した。青山と北里は、終生政治的学問的に喧嘩を続け、権力闘争を行った。ペスト菌はグラム染色陽性か陰性かの論争は有名である。篠田達明「闘う医魂」に詳しい。 ペスト菌は1894年に北里柴三郎によって発見され、ストレプトマイシンやテトラサイクリンの抗生物質が発見されたのは50年後だった。

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4.7、梅毒(花柳病)をよむ


 梅毒は、結核とらいとともに3大慢性感染症の一つだった。梅毒に感染して3週間後に性器に硬結が、3ヶ月後に皮膚に発疹が、3年後に鼻が落ち、動脈瘤、脊髄癆、進行性麻痺、脳梅毒(痴呆)へと進む。
 ルネサンスが梅毒を生んだ。梅毒はスペインで「宮廷病」、仏で「ナポリ病」、伊のナポリで「フランス病」、日本で「広東病、南蛮病、花柳病」と呼ばれた。仲の悪い隣人に責任をかぶせ、隣国の名前を付けたのである。1493年コロンブスが新大陸の発見と一緒に梅毒をバルセロナにもたらし、1512年京都に伝わった。梅毒にかかったオランダ人は「最初にかかった梅毒患者さえ火あぶりにしておけば、この世の平和は守られたものを」と嘆いた。梅毒は性感染症の意味を込めて「ヴィーナスの病」と言われた。さかんに水銀療法が行われたが、治療効果はなく、水銀中毒で死んだ。「ヴィーナスと一夜を過ごして、マーキュリー(水銀)と一生つきあう」という格言ができた。イギリス王室は国王が先天性梅毒や脳梅毒にかかり、残虐性を示し、多くのヒトが処刑された。シューベルトは頭皮に吹き出物が出来、毛を剃りかつらをつけた。頭痛とめまいが強く31才で梅毒で死んだ。モーパッサンは眼病、被害妄想、不安幻覚、精神錯乱を繰り返し、精神病院で死んだ。ニーチェは精神病院に入院し、徘徊を繰り返して死んだ。ハイネは梅毒性脊髄瘻を発症し、身体のしびれ、眼瞼下垂、言語障害、咀嚼困難、意識障害、味覚喪失に苦しみ、口述筆記も出来なくなり、8年間の寝たきり状態の後死んだ。最後まで精神は明晰だった。ロートレックはパリの娼婦、ひも、女衒を画題にし、不朽不滅の作品を描いた。37才でアルコールと梅毒による卒中発作で死んだ。いずれも19世紀「世紀末の退廃時代」のことだった。梅毒による麻痺が芸術家の能力をおそろしく高め、高揚感を味あわせ、作品を完成させた。梅毒は、陶酔、孤独感、無為と退屈の日々、痴呆化へと導いた。「王様も文豪も苦しめられた性病の世界史」に詳しい。詩人、音楽家、画家は、放埒な生活を味わい、壮大な楽劇や絵を描いたのである。彼らのサロン(社交的な男女の集会場)は梅毒感染を助長した。梅毒は芸術的創造性の向上に貢献したようだ。
野口英世は34才の時、梅毒の病原菌であるスピロヘータの培養に成功したと報告した。追試が試みられ、この業績は疑問視されている。38才の時、精神病の半分を占める麻痺性痴呆症と脊髄ろうの原因が梅毒である事を証明した。この業績は、ノーベル医学賞に値するものであった。梅毒の治療を行なえば半分の精神病が治ったのである。スピロヘータは従来の染色法では染まりにくく、背景を墨で黒く染める方法や、銀メッキをする方法が開発された。いずれも判定が難しかった。約一万枚の標本を観察し、隠れていたスピロヘータを発見出来た。標本を見なおすとすべての標本に確認できた。根気強く顕微鏡を観察した結果である。「学問には執着が必要で、要領のいい人は学問が出来ない(秋山真之談)」のである。「遠い落日」に詳しい。写真1は福島県猪苗代町にある野口記念館にある野口英世像である。



(写真1)
福島県猪苗代町にある
野口記念館にある野口英世像である。

 2つの治療法があった。水銀治療は全く効かなかった。全身の皮膚に水銀を擦り込み、暖炉のそばに寝かされ、汗をかかされた。梅毒症状に水銀毒が加わった。一方、グアヤク木治療は木をヤスリでこすり粉末を煎じて飲んだ。全く効かなかった。おかしな会社は大金持ちになった。 梅毒患者は脱毛症状に対し男性用のかつらを、顔と首と手の潰瘍に付けぼくろと手袋をつけ、水銀のにおい消しに香水を使った。梅毒の原因が明らかになると、患者や娼婦は残酷な仕打ちを受けた。差別、偏見、人権侵害である。病院の受け入れ拒否や、隔離や保険が利かない差別を受けたのである。1970年代に入り、アメリカで「タスキギー梅毒事件」がおきた。アフリカ系アメリカ人の梅毒患者が、梅毒の進行過程を調べるだけの目的のために、数十年間にわたって治療されずにいた。人体実験である。
1905年、シャウディンとホフマンは、梅毒患者の血液中に色に染まりにくい動く物体スピロヘータを発見した。1906年、ワッセルマンは梅毒の血清診断方法を開発した。エールリッヒは「病原体だけを撃破するような魔法の弾丸を鋳造しなければならない」と考え、秦佐八郎とヒ素薬剤を改良し、606番目の試作品「サルバルサン(健全なヒ素の意)」を完成、1910年患者に試された。更に改良を加えて914番目の「ネオ・サルバルサン」を開発、投与法も改良し、治療期間は1年におよんだ。1917年、オーストリアの精神科医ヤウレッグは進行した梅毒患者についての詳細な症例報告を分析し、マラリア患者の血液を治療に用いることを思い立った。併発するマラリア熱はキニーネで抑えた。毒を持って毒を制すのである。1927年、ノーベル医学賞をもらった。1929年、フレミングはペニシリンを発見、1940年以降梅毒は激減した。
秦は山陰の僻地に生まれ、15才で養子にはいり、岡山の医学校へ入学した。養父は若くして病死し、養祖父母から学費の援助を受け、さらに彼らの温情で東京に出て北里の弟子になった。ペスト菌研究のあと、ドイツへ留学し、エールリッヒと運命的な出合をした。ウサギの陰嚢に梅毒を植え付けた。多数のウサギに多数の薬剤を使って実験を続けた。副作用とのたたかいだった。「日本医家伝」「細菌とのたたかい」「医学者・秦佐八郎伝」に詳しい。写真2は島根県益田市立秦記念館のパンフレットである。


(写真2)
島根県益田市立秦記念館のパンフレット

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4.8、結核をよむ


 結核はギリシャ語で「疲れて、消耗し、衰弱する」の意味である。固まりができる病気で癌と間違えやすい。白いペストといわれた結核は、産業革命(18世紀末から19世紀)の時に大流行し、英国では5人に1人が肺結核で死んだ。日本では結核が1800年前に入り、1910から1950年の40年間が結核の最盛期だった。1943年は約17万人、2000年は約2600人が結核で死んだ。人口の約30%の3700万人が結核の感染を受け、60才以上の1000人に1人が初感染の再燃による発病を起こしている。結核患者が人口10万人の中で1人を下回れば、その国の結核は根絶されたと定義される。現在、日本は結核患者が10万人あたり10人で、根絶は2060年と予想されている。結核菌は、肺の一番奥の繊毛が生えていない気管支壁の所まで達しないと感染しないので、感染はおこりにくい。感染して発病するのは約20%である。現在、世界人口の3分の1の20億人が結核菌に感染し、年間800万人が新規の結核患者となり、毎年200-300万人が結核で死亡している。100人が感染すると20人が発病する。その10人が感染源になると平均10人に感染させ、合計100人が感染することになり、結局結核患者は減らないのである。 1882年コッホが結核菌を発見した。1890年ツベルクリン治療を発表したが、効果がなかった。1907年ピルケはツベルクリンが結核の診断に有効であることを証明した。BCGは牛型結核菌で、結核にかかった若い雌牛の乳腺から分離された毒力の強い菌を、13年間で231回人工培地に植えついでできた菌である。1925年志賀潔が日本にBCGを持ち帰った。1936年古賀良彦が間接撮影法を開発、1940年今村荒男が集団検診用レントゲン車を開発した。1944年ワックスマンがストレプトマイシン、1946年レーマンがPASを発見し、1952年ヒドラジドが発見され、3者併用療法が結核の治療効果をあげた。これらは菌の増殖を抑えるだけであった。1970年代リファンピシンが開発され、結核菌を殺す薬ができた。
 結核とらいは偏見と差別を受けた。結核とらいは、感染臓器、感染力と潜伏期、薬の治癒効果、菌の培養、小説の表現で差があった。結核患者は透き通る白い肌、遠くを見つめる憂いに満ちた瞳、けだるそうな表情、なで肩である。美人薄命、夭折する天才、離婚させられ寂しく死んでいく女性、肩幅が狭く背が高く色白の美男美女、竹下夢二の世界として小説に登場する。感染力は強く、潜伏期が短く、発病率が高い。薬で完全に治りにくく、肺と全身をおかし、致死率が高い。結核菌の培養が出来る。一方、らいは皮膚と神経と目をおかし、外表に変形が残り、汚れたヒトとして小説に描かれる。感染力は低く、潜伏期間が長く、発病率が低く、薬で完全に治る。らい菌は培養が出来ない。 徳富蘆花は、「不如帰」(結核の代名詞)をかいた。主人公片岡浪子(陸軍中将の娘、大山巌の長女信子がモデル)と海軍士官武雄の1年半の非愛物語だった。幸田 文は、結核をかりて病む人のかなしさとさみしさを「闘」に描いた。闘病の闘である。結核のもつ特殊性、長期療養している重症患者、軽症で退院した元患者、医者、看護士、家族、病院スタッフ、付添婦さんの人間模様を描いた。重い小説である。「おとうと」は、姉・文が19才で結核を発病した弟を結核療養所で看病する実体験で、患者の死をおそれる内面の乱れ、感情の起伏、失望と恐怖、孤独と看護する難しさを描いた。看護婦は付き添いの姉に「患者がもってうまれたあらゆるいやなものを全部吐き尽くさせて、聞いてあげて、きれいに清めて、お見送りしてあげてください」と話した。重い小説だった。トーマス・マンの「魔の山」は結核療養所の話である。 結核を拡げた2つの歴史がある。一つは「製糸業」である。富岡製糸工場は産業革命と近代化の象徴であった。貧しい農村からの出稼ぎ女子労働者(10から16才)が、12時間も働いた。女工さんは不幸だった。在籍死亡者の39%、故郷に帰った死亡者の70%が結核で死んだ。故郷農村への手みやげは結核菌だったのである。細井和喜蔵は紡績工場の職工として働き、体験を「女工哀史」として1925年に出版した。生糸女工と紡績女工の生活体験と労働条件の記録である。「あヽ野麦峠・ある製糸工女哀史」は長野県岡谷で働く4万人の糸ひき工女の話で、11、12才の飛騨女が2月に野麦峠を越えて信州へ、12月末吹雪の峠を故郷の飛騨へ帰っていった。工女の人間模様を聞き語り風に描いた。工場は高温多湿、一日中ぬれて働き、外に出ると真冬の嵐という悪条件だった。「男軍人、女は工女、糸をひくのも国のため」と歌いながら糸を引いた。劣悪の労働条件に対し命をかけて労働争議を起こし、権力と金力の迫害を受け22日間で惨敗した。野麦峠は野産み峠、生糸業は生死業と比喩された。工女が稼いだ外貨は日本海軍の軍艦の費用となった。もう一つは、日清日露戦争の「徴兵制度」である。感染が集団として起こり、都市貧困層に広がった。 全国で72万人の女工が働き、毎年1万6500人が死んだことになる。我慢に我慢を重ねて働き、身体がだめになると帰郷させられた。年齢が若いこと、工場の温度と湿度、夜業、衣食住が原因だった。さらに、女工は消化器病、脚気、感冒、眼病、婦人病にかかり、乳児死亡率が高かった。



(写真1)
根岸の子規庵

正岡子規と樋口一葉は結核で死んだ。根岸の子規庵(写真1)へは、鶯谷駅下車7分である。子規は肺結核と腰椎の脊椎カリエスで、13年間の闘病生活をおくった。激痛のために、天井から力綱を下げ、握って痛みに耐えた、寝返りするのが精一杯で、膿瘍が肛門まで流れた、妹律が毎日包帯を交換した。「坂の上の雲」の中に「盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少し痛みが減ずる」「背中はただれ、皮が剥がれ、腰に畳針をつっこまれたような痛みがあり、包帯を替える時、恥も外聞もなく狂声をあげた」「痛みは拷問を毎日毎時うけているようなものだ」とある。子規庵にある子規の机は、左膝が伸びなくなったため、座り机の表面が凹状に切れ、曲がったままの膝を入れるように工夫された。机に向かい俳句、短歌、そして評論を書いた。子規は執着が深かった。朋友の秋山真之(日露戦争日本海海戦の立案者)は「学問には執着・ねばりが必要で、要領のいい者はそれができない」と述べている。正岡子規の子規は、「ホトトギス」と「血を吐くまでなく鳥」の意味をもつ。ショパンが作曲した「雨だれ」も結核と関連がある。一方、樋口一葉は15才の時、長兄が肺結核で死亡、翌年肩こりを訴えた。結核性胸膜炎の初発症状のようである。22才肩こりが強くなり、結核症状に悩み、死に物狂いで努力した。成功の喜びから「絶望」へ突き落とされ、絶頂期からたった1年で死んだ。写真2は一葉記念館である。 医師で戯曲家のチェーホフ、諸葛孔明、藤原秀衡、武田信玄、織田信長、竹中半兵衛、頼山陽、高杉晋作、沖田総司が結核で死んだ。若い優秀な病理医が素手で解剖を行い、結核に感染して死んだ。

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4.9、らい(レプラ、ハンセン病)を読む


「らい」は「みすてる」の意味である。らい病は、熱帯病の一種でインド周辺に古くからあり、アレキサンダー大王の大遠征と十字軍の遠征によってヨーロッパに蔓延した。らいは結核よりずっと感染力が弱く、免疫の弱い乳児期にらい菌と濃厚な接触を持続すると感染する場合がある。他の病気にかかっているか、疲労や栄養障害で体力がおちた時に発病することがある。潜伏期間は数年から数十年である。健康な成人には感染しない。感染してもすべてが発病しない。
3大受難は、発病の宣告、失明、呼吸困難による気管切開である。眉毛や髪の毛が抜け落ち、顔と手足の変形がおこる。指が変形し、ものを書く時の恰好を「拝み書き」という。知覚と運動の神経障害を起こし、やけどやけがが重症化した。舌は最後まで感覚を残し、舌で点字を読むけいこをした。肉体的精神的苦痛は計り知れない。お遍路姿のらい者、放浪のらい者、皮膚潰瘍のうみで黄色に変色した包帯で手足をつつんだ人、足を引きずって物乞いをする人がいた。病者は弘法大師を信じ、不自由や苦患とたたかい、喘ぎ、飢えながら、四国八十八カ所を巡礼した。健康人の巡礼と違う道を歩き、巡礼の途中で力尽きて路傍に息絶えた。無念であったろう。日本では、らい病は長い間、業病(悪事の報いで受ける病気)、天刑病(天が与えたばつの病気)、遺伝病という間違った考えがあった。 中世時代、欧での迫害はすごかった。患者は出歩く時に黒いマントを着用、手袋をし、山高帽をかぶり、杖を持ち、黒衣の胸に手の形をした白い布が縫いつけられていた。患者の目印となったのである。風上では話が出来ず、街路で他人を見つけると、自分の存在を知らせるために笛を吹くか木片を叩かなければならなかった。教会に埋葬されなかった。中世のキリスト教会はハンセン患者を差別し、迫害し、隔離政策を擁護したのである。「感染症は世界史を動かす」に詳しい。
北条民雄(1914-1937) は、19才でらい病院へ入院し、親から戸籍を抜かれた。民雄は、川端康成よって発掘され、らい文学を創設、らい病院重病棟での人間模様を描いた。「いのちの初夜」は芥川賞候補となったが、家族に迷惑がかかるという理由で落選した。高閲という束縛の中、膿汁の悪臭の中、恐ろしい体験をとおして、人間と生命についてかいた。「人生は暗い。だが、たたかう火花が一瞬黒闇を照らすこともあるのだ」といい、ひまわりが好きだった。高山文彦は「火花・北条民雄の生涯」を書いた。腸と肺の結核で23才の若さで死んだ。らい病自体は軽かった。川端康成は、民雄を見舞いに療養所へ行った。長靴の底を洗浄するため、消毒液の昇汞水が流れる川を渡った。川は、有毒地帯と無毒地帯、あの世とこの世を分ける境界だった。療養所内の風鈴と敷石は盲者の道しるべとなった。入院当日、お金を金券に替えさせられた。逃亡を防ぐためである。監獄へはいる罪人の扱いだった。川端康成は「寒風」の中で、「らいにかかり、らいを背負って、この隔離所に入ってみぬ限りは分からないことかもしれなかった」「らいは肉体よりも精神をやむ病気ともみえた」と述べている。 二人の医師がらい病に関わった。「救らいの父」といわれた光田健輔(1876-1964)は、らい病について表と裏の顔をもっていた。らい患者の救済と隔離政策を推進した。民族浄化政策のため、断種手術と人工妊娠中絶を強制した。「逃亡罪を設け、隔離を推進すべし」と言い続け、特効薬プロミンの導入に反対した。救らいの業績で文化勲章をもらった。負の遺産、光と影があった。「小島の春」は、瀬戸内海の小島・長島愛生園に勤務する現場の医師の体験物語で、ベストセラーになり、映画化された。責任感の強いりっぱな女医さんだった。光田の隔離政策の宣伝になったかもしれない。一方、京都大皮膚科小笠原登助教授(1888-1970)は、らい患者の味方となり、多くの迫害に耐え、自らの信念を実行した。政府と戦い、袋だたきにあっても負けなかった。
1873年、ノルウェーのハンセンがらい菌を発見した。1897年、第一回万国らい会議で、ハンセンは「隔離はホームレスの人以外は必要でない。感染力と発病力が極めて弱い」と述べた。日本では1907年、らい患者の隔離政策が始まった。強制かつ生涯にわたる隔離が実施されたのである。1915年、断種政策が開始され、1930年、隔離施設長島愛生園が完成した。1931年、絶対隔離政策の悪法らい予防法(旧法)が成立した。1936年、地方自治体では「無らい県運動」が実施され、この運動は一般市民による監視制度であった。1943年、特効薬プロミンが発見され、開放型外来治療を行うようになり、完全に治る病気になった。1946年、東大石館守三教授がプロミン合成に成功した。日本は歴史に逆行して、1948年に優性保護法ができた。1951年、患者たちは自主改正案を請願したが、1953年、悪法らい予防法(新法)が施行された。1956年、WHOは外来治療の実施を提唱し、日本のらい予防法を批判した。世界で日本だけが間違った法律を続けた。1983年多剤併用療法ができ、跡を残さないで、完全に治癒が可能な病気となった。1988年、長島大橋が完成した。長島療養所と本州の間に「人間回復の橋」が架かった。一般国民にとっても人間回復の橋となったのである。1995年、日本らい学会は「ハンセン病を特別の感染症と扱うべき根拠はまったく存せず」と反省した。らい予防法改正闘争は続き、89年後の1996年にらい予防法が廃止になった。菅直人厚生大臣は、患者と家族に陳謝した。日本は世界の潮流を無視して「迷走」し、らい病者は90年間絶滅収容所内への隔離政策がとられたことになる。「強制隔離、強制労働、断種、懲罰」が行われ、教育を受ける権利と、仕事に就く権利を奪われた。
らい病の歴史は、「らい予防法」による取り返しのつかない人権侵害と差別の歴史だった。基本的人権を明記した日本国憲法下で行われた犯罪であった。らいは治る病気で、社会の中で働きながら在宅治療ができるのである。民族浄化と無らい県運動を行った厚生省の責任が大きい。マスメディアとくに新聞の責任が大きかった。国民の無関心も大きな責任があった。家族、聖職者、医者、法律家、文化人、教育者、日本らい学会は、患者の人権を大切にしなかったのである。
 以下、司馬遼太郎「関ヶ原」談。大谷刑部少輔吉継は越前敦賀5万石の大名だった。茶会の席、大谷刑部が茶を飲む時、鼻水が茶の中に落ちた。大名たちは空のみをして茶碗を送ったが、石田三成は飲んだ。二人の友情は深かった。関ヶ原の時、大谷はくずれた顔を紺色の袋に包み、両眼だけを出しているが視力はない。皮膚がやんでいるので鎧は着用できなかった。直垂のみ着用し、白布をまとい墨でよろいの模様をかいた。馬に乗れず板輿にのり、馬廻りの屈強な者に担がせた。大谷刑部は、裏切り者の小早川秀次隊1万五千に立ち向かった。鬼神がのりうつった形相であった。

国立多摩全生園(東村山駅、秋津駅下車)に、高松宮記念ハンセン記念館がある(写真1)。群馬県草津のハンセン病療養所に懲罰を行う「重監房」があった。元患者は「日本のアウシュヴィッツですよ」と述べた。「ハンセン病重監房の記録」に詳しい。今はコンクリートの敷石が残るだけである。重監房の復元運動が続いている。写真2はポーランド・アウシュヴィッツの絶滅収容所の入り口である。


(写真2)
ポーランド・アウシュヴィッツの
絶滅収容所の入り口

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4.10、まつり・野外劇


 まつりは心身によい。平成9年4月、日立市の日立風流物をみた。出し物は、表山「風流忠臣蔵」、裏山「風流地雷也」だった。日立駅前の平和通りは桜吹雪。約1kmの平和通りは、夜ライトアップされ、夜桜見物は見事だ。沿道で、豚汁と甘酒のサービスを受けた。高さ15m、幅8m,重さ5tのからくり山車に感動した。祭は徳川光圀の命で300年の歴史がある。4台の山車が毎年交代で、豪壮華麗なからくり仕掛けの技を披露する。表と裏の人形芝居である。表山は、お囃しにのり、閉じてあった5段飾り(雛人形の5段飾りを連想)が、下から順々に外側に開き、それぞれ3人合計15人が忠臣蔵の名場面を演じるのである。大石蔵之助の陣太鼓、清水一学の立ち回り、吉良公頭之助の打ち首シーン、みごとだった(写真1)。



(写真1)



忠臣蔵終了と同時に、頭と足が逆になり、着物姿の娘さん人形15人が、彩り鮮やかな和笠回しを演じた。からくり人形を操る裏方は30人以上、他に鳴り物を奏でる人、山を回転する人たち、ご苦労様である。表山で2回の演劇が楽しめる。表山が終ると山車は180度回転し、裏山の「地雷也」の野外劇となった。裏山は山全体が布で覆われ、岩山を表した。岩山で蛙と龍の決闘、猿の大車輪、侍の弓矢シーンが演じられた。非常に手が込んでいて面白かった。風流(ふりゅう)とは「みやびやかな芸能」「見て楽しい芸能」という意味である。
翌年も見物に行った。平和通りは桜満開。本町の出し物演目は、表山が「風流龍虎合打つ川中島」、裏山「風流加藤清正の虎退治」(写真2)であった。足と頭が逆になるところが上手くいかなかった。



(写真2)



平成18年7月、栃木県烏山町に行き、450年の伝統がある山あげ祭を見た。日本一の野外劇であろう。烏山特産の和紙でできた舞台装置で出来ているため、雨の時は正式な劇は中止となる。飢饉に見舞われ、疫病が流行したので、烏山城の殿様が1560年に天下泰平、五穀豊穣、疫病消除を祈願し、この祭礼が誕生した。変遷を繰り返し、歌舞伎を取り入れ、舞台装置と舞台背景が大規模となり、絢爛豪華な野外歌舞伎となった。所要時間は45分。炎天下で行われる。役者は厚い着物を着て演じるので、裏方が大きな団扇で風を送っていた(写真3、4)。



(写真3)







(写真4)



1日6回公演で2日間行われる。役者は20歳前後の女の子、踊りの演技に1年間の練習が必要とされる。精巧な彫刻を飾り付けた屋台、大きな山づくり、芝居が見所である。山は竹を割り、竹を組み、和紙を幾重にも張り、舞台の背景となる。大中小の3つの山が100mの間に立つ(写真5)。山は春夏秋冬へと変化する仕掛けが工夫され、なかなかの趣向である。常磐津の三味線にのって行われる。国の重要民族文化財に指定されているが、寄付集めは大変だろう。6カ所への移動、装置の設置と解体、扇風機となる裏方は大学生のアルバイトで、すべて重労働である。


(写真5)



野外劇が他にある。からくり人形花火が、茨城県伊那市と水海道市で7月から9月にかけて行われる。火難除け、病気災難除けを願ったまつりである。

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5.1、走る病理医100レース走る


栃木県にある益子焼の町に、マラソン大会を主催している「走る陶工」がいる。益子城内坂ロードレースという手作りの大会を主催している。事前のエントリーは必要なく、当日の受付でオーケー、奥さんが作った布製ゼッケンを繰り返し使っている。参加費は1000円、一割を社会福祉協議会へ寄付している。参加賞は、走る陶工が作った益子焼の小皿で、「走」と書いてある。 35才の職員検診で高血圧が指摘され、37歳で保険会社の医師から「寒い風呂場と便所で発作が起きる確率が高い」と注意され、38才から降圧剤を飲み続けた。47才(1997年)、心臓外科医に勧められ、ジョッギングをはじめた。血圧と脈拍がさがり、52才で薬から解放された。74kgが65kgに、ウエストが88cmから82cmに減った。胸についた脂肪が腹部に下がり、貧弱な体になった。臀部、大腿部、下腿部がスリムになり、顔の大きさだけが目立つようになった。しかし臍まわりは88cmもある。 デビューは、1998年1月25日の水戸市民千波湖ロードレースであった(48才10ヶ月)。100回目は、2007年5月13日(58才2ヶ月)栃木県の鹿沼さつきマラソン(写真1)で、午前11時、完走となった。



(写真1)



10年が経った。ベストは49分04秒、ワーストは63分40秒で、ビリが1回、ブービーが2回あった。エントリー数は131回。仕事、風邪、膝の故障、なまけ病で31回を棄権したことになる。10kmが92回、他3km、5km、8km、14km、16km(10マイル)を走った。「走る病理医100R完走」と墨で書き、記念写真を撮り、100回目の証拠とした(写真2)。



(写真2)



翌日、水戸済生会総合病院ランナーズの会の席で、お祝いのHotman製白いバスローブをいただき、記念写真を撮った(写真3)。



(写真3)



直後の健康診断で期外収縮と診断され、おまけがついた。経過観察ですんだ。苦しい趣味を持続する秘訣は、まわりにいる人たちに、繰り返し言いふらすことである。自分を喚起し、自分を賞讃することである。 1時間半前に大会会場に到着、手続きを済ませ、ゼッケンをつけ、日焼け止めを塗って、20分間のジョッギング、コンビニのトイレに駆け込み用を足し体重を落とす。汗を拭き、ランニングシャッツに着替え、レース用の軽いシューズに履き替える。スタートラインにたち、10kmを走り抜くのである。写真4は99レース目の勝田マラソン大会のスナップである。レース後は、膝が痛く熱を持つ。ストッレッチをし、膝に湿布をはると疲れが癒さる。ゴールして着替えて気づくことがある。乳首の擦れあとである。軟膏を塗り、バンドエイドを貼る。中高年はアフターケアが大切である。フルマラソンでは、ランニングシャッツを裏表逆に着て、縫い目を外側に着るランナーがいる。



(写真4)



現在のマラソン大会は、中高年が主役で、身体と心の老化、うつ状態からの脱却を目指している。中高年は頑張っているのである。埼玉県の大会に出場した時、着替えをした体育館の壁に
「子を怒るな 歩んできた道でないか 老を笑うな これから歩む道でないか」の標語を見つけ、戒めとした。
百米を30秒で走ると、10km走が50分ジャスト、29秒で48分20秒、31秒で51分40秒である。1秒は約3メートル。百米を36秒で走ると、10kmがジャスト60分となる。1秒1秒の積み重ねが大切である。
 楽しくなければ続かない、続かなければ意味がないと自分に言い続けた。走ることは大変きつい。職場から戻り、玄関でランニングに着替え、寒風の中、猛暑の中、家から飛び出し、10年間年間500キロ走った。自分を痛めつけ、自分を追い込む性格なのだろう。B型である。熱燗と湯豆腐、冷えたビールとだだちゃ豆(枝豆)に負けたことが数知れない。
女性初の社会党国会議員・加藤シズエさんは<1日最低1回の感動>を提唱した。
京都大学大島清教授は「ものをかく、あせをかく、はじをかく」の3かく運動を提唱している。
100レース完走で、100回の感動を覚え、感動を5行詩もどきに綴った。
なお、「がんもどき」は仏教で肉食を禁じられている僧が知恵を絞って作り出したもので、味が鳥の「雁」の肉に似ていることから名付けられた。豆腐の水気を切り、ニンジン、ギンナン、ヤマイモを加えて丸め、油で揚げたものである。

自称ランナー スタートラインにたち 5分前からのコールに
    鳥肌がたつ 緊張の瞬間
10キロレース はじめの3キロ息苦しくて 次の4キロハイになり
    おわりの3キロ足重たくて 50分が過ぎてゆく
気持ちはキロ3分 キロ5分のランナーに 追い抜かれ 
    道路に写る自分の影が 止まって見える
スタートラインにたち 沿道の声援をうけ お化けに変身ゴールイン
    心と身体の健康に感謝 万歳三唱
下野の国 国分尼寺と国分寺址 万葉・天平の里を走り抜け
    ゴールして飲むホイップ入りココア 温かく美味しさ格別
標高差300メートル 14キロの登山レース 登り2キロはとぼとぼ歩き
    下り2キロは痙攣と戦い 麓のいで湯でマッサージ
ランナーズハイ クライマーズハイ カツドンハイ
    カツ丼食べて走って登って 鬱からの脱出
好んで 老いたわけではないが 老化防止の 
    マラソン人生 産んでくれた両親に感謝
走る病理医 苦節10年 100レース完走
    病理学の完成 30余年でまだ道半ば

司馬遼太郎は「竜馬がゆく」で、「足の達者なやつでなければしごとができぬ」と書いた。竜馬も西郷隆盛の従弟の大山巌も足が達者だった。「坂の上の雲」で、「目的の達成には執着(ねばり)が必要で、要領のいい者はそれができない」と書いた。
49才でランナー1年生となった灰谷健次郎は「遅れてきたランナー」の中で、「走ることによって、より深く自然を感じ、より多くの世界を知ることができた」と書いた。ニーチェは「あの山に登れるだろうか とにかく登れ そんなことは考えないで」と述べた。「10キロ走れるだろうか とにかく走れ そんなことは考えないで」といったところだろう。
同僚からは「50才を過ぎて、10kmを休まず走れる身体を授けてくれた両親に感謝しなければいけませんね」と言われ、膝を擦りながらこの言葉をかみしめ、幸せだなあと思っている。60才で60分を、70才で70分を切ることが目標である。
「夢、勇気、冒険心、目の輝き、感動、好奇心、胸のときめき、挑戦する喜び」をもっていれば、80才でも青春なのである(ウルマン「青春とは」から)。
最後に繰り返しになるが、少し疲れた時に少し走ると、疲れがとれ、軽いうつが消える。  

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5.2、お産壱弐産話


 壱話。賀川玄悦(1700-1770)は、彦根城下に生まれた。父は三浦軍助、井伊家35万石彦根藩士で、入り婿であった。産みの母はお八重といい、父がお手つきしたお手伝いさんで、その後のお産で死んだ。当時、15人に1人がお産で死んだ。父に見捨てられ、母の里賀川家へ返された。26才で京都へ出て、昼は鉄くずを拾い集める古鉄商、夜は鍼師と按摩をした。時代は、山脇東洋が観臓した時期であった。以下観臓について脱線。1754年2月7日、極悪人「屈嘉」が非人の手で京都「六角獄舎」で腑分された。京都の誓願寺に第一例目の観臓記念碑、14人の解剖遺体の墓碑銘、山脇家の墓がある(写真1)。医者が自らの目で確かめ、治療に当たる実証主義の医学が、芽生えてきたころであった。



(写真1)



 山脇東洋から依頼され、玄悦は「胎児は子宮の中で下を向いている。陣痛が始まってから胎児が一回転するというのは誤りである。妊娠中の腹帯は必要なく、帯で強く腹を圧迫するのはむしろ悪影響である」と講義した。玄悦が、はじめて「正常の胎児は胎内で倒立位にある」ことを発表したのである。西洋では、胎児は子宮内で頭を上に、分娩の直前になって急に体を回して頭を下にするものと考えられていた。逆立ち状態で10ヶ月間過ごすということは、誰も考えていなかった。シーボルトは賀川の説を外国語に翻訳して欧州に紹介した。スコットランドのスメリーが、1754年に正常胎位を本に著した。玄悦は、1765年「上臀下首」説を「産論」に記した。勿論、玄悦はスメリーの論文を読んでいない。徳川吉宗の時代であった。
 玄悦の指先の感覚は天性のものであった。40才の時、赤ん坊の肩が子宮口を塞いだ死産児を娩出した。商売道具の天秤の鉄鉤を利用した。胎児の脇の下に鉄鉤を差し入れて、胴体に引っかけ、引きずり出した。小さな娘の体で繰り返し練習した。難産の時呼ばれるようになり、鉄鉤を持ってかけつけた。「回生術」と名付けた。「回生術」は難産の産婦の命が危うくなった時に行う方法で、鉄鈎を使い残酷なものだった。回生術を他人に見せてはならないきまりがあった。母体は救うことが出来たが、赤ん坊は助からなかった。僧侶、医者、産婆から非難を受けたが、なぜか奉行所は認めた。
当時の妊婦は、座ってお産を行い、出産後長時間にわたって椅子に座らせられ、重ねた布団や壁に寄りかかり、横にさせてもらえなかった。産婦の体力は回復しなかった。玄悦は「横になって産むこと、出産後は横になること」を奨励した。難産の症例をひとつひとつ話し教授した。「済世館」という病院を造った。妊娠した夜鷹や遊女が集まり、多くの妊婦を養った。「せっかく元気に生まれてきたのだから、大事に生きなあかん」「千の命があれば千の生きていく意味がある。その意味を探して精一杯に生きなあかん。おかあちゃんが命かけて産んでくれはったんやから、大事に生きなあかん」と語った。植松三十里の「千の命」に詳しい。
 玄悦は天才肌のヒトだった。教育は受けず独学だった。文章が書けなかった。60才から、産科学の本の作製が始まった。二人の助けがあった。一人は岡本義迪で、山形から産科と回生術を学びに来た医者の見習いで、系統立ててまとめる能力に優れていた。玄悦の娘お佐乃と結婚し、玄悦の後継者になった。もう一人は皆川淇園で、儒学者で漢文を得意とし、文章作成に長けていた。医者ではなかった。66才の時、賀川流産科術「産論」が完成した。妊娠中、出産時、出産後、産後に分けて本を書いた。特定の師につかなかったこと、難民が多く住みついていたこと、自由に自宅に寄宿させ診療し、胎児を確認できたこと、自由に自分の発想を実地に応用出来たことが幸いした。1000人の産科医が学塾で育ち、東北から九州まで全国で活躍し、賀川流産科が長く栄えた。
 玄悦の唯一の楽しみは、遊郭島原に棲む沢山の孤児たちに綿入れ半纏を贈り、温かい餅を配ることだった。墓は京都五条壬生の玉樹寺にある(写真2)。



(写真2)



 弐話。「正丸峠の帝王切開」は、埼玉県飯能市で開業した産科医の岡部均一と叔父伊古田純道の話である。
岡部は11才で医術の修行をはじめ、産科の名門賀川流の養成所に入り、さらに順天堂の創始者佐藤泰然の和田塾(佐倉順天堂の前身)に学んだ。村田蔵六同様、ふんどしひとつで晩酌するのが楽しみだった。1805年伏屋素狄が「和蘭医話」を発表した。「産婦の腹をたち割り、子宮をひらいて、子を取り出し、腹を縫い合わせて母を助け死せざらしむ」の術式が書いてあった。出版後50年間試みたものはいなかった。
「本橋み登」32才が横産で3日間苦しんでいた。左手が子宮口から脱出し、臍帯も外へ飛び出していた。賀川流の回転術をほどこしたが、胎児の頭が大きすぎ真横になったまま出てこなかった。帝王切開を行った。皮膚、筋膜、腹直筋、腹膜を開き、子宮壁を切り、卵膜を切ると羊水がこぼれおちた。胎児を取り上げると、胎盤が娩出した。子宮をもんで収縮を促し、逆の順に山羊の腸線でぬった。傷口を焼酎で洗った。1時間かかった。化膿を繰り返し、術後56日目に全快した。手術と経過を詳細に書いて代官所に提出した。半年後逆子の農婦が帝王切開された。母体と胎児を同時に救う希望が生まれたのである。昭和に入り、二人の業績を顕彰するため、正丸峠に石碑(飯能市正丸峠トンネル)が建立された(写真3、4)。



(写真3)







(写真4)



 産話。「にわか産婆・漱石」は夏目漱石第4子のお産の話で、胎児の言葉で綴られている。
お産を行った部屋は、安産のおまじないの熊の手と犬の絵馬、根津神社のお札、松竹梅と鶴亀の屏風が立てかけてあった。夫人は、天井からぶら下がった衣紋かけを強く握って力んだ。物語は、胎児独語、産徴、陣痛開始、子宮口二横指開大、破水、児頭排臨、胎児娩出、後産と展開していく。お産婆さんが間に合わず、漱石が妻鏡子の指図を受けながら女中と協力して「おろおろしながら」産婆のお仕事を行った。臍の緒は肉きり包丁で切った。「どろどろした薄気味悪い海綿のお化けのような胎盤、べっとりと汚れたシワだらけのみにくい赤ん坊、苦痛にゆがんだ赤紫色の醜怪な女房の顔、いまにも破裂せんばかりの怒張した産婦の蛇行した血管」と、描写している。胎児を娩出したら、夫人は「大きな漬け物石を取り出したようだ」と感想を述べた。漱石は駆けつけてきた産婆から「子種をまいておいて、その後始末までやってのけた男の人をはじめて見たよ」とからかわれ、「あっぱれな亭主の鏡だよ、ご主人さんは」と誉められた。
写真5は東京早稲田にある漱石公園の漱石像で、そばに猫塚がある。漱石はここでお産の介護をした。  



(写真5)




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5.3、病理医田原淳・ペースメーカーの父


 心臓は、酸素や栄養を含む血液を体のすみずみの細胞に送っている。1日約10万回収縮するポンプで、1日でビール1万本以上の血液を送り出す。1回の拍動で80mlの血液が大動脈へ流れることから、体内の血液は毎分ごとに完全に入れ替わるのである。70才までに30億回拍動する。
 まず1845年、プルキンエはヒツジの心臓の内壁に白いゼラチン様の網を発見、筋組織の一種と考えた。プルキンエ線維の発見であった。ついで1893年、ヒスは心房中隔と心室中隔を結ぶ筋束、ヒス束を発見した。ヒス束は、太さが1-1.5mm、長さが10mmである。
 田原淳(すなお、旧姓中嶋)は、1873年大分県国東に生まれ、19才で、医師田原春塘の養子となり中津市へでた。中津は広瀬淡窓、前野良沢と福沢諭吉を生んだ。一高、東大を出て、1903年(30才)、養父から資金援助を受け、ドイツのマールブルグ大病理アショッフ教授の下に私費留学した。同じ船に横山大観と菱田春草がいた。1903-1906年(1904-5年は日露戦争)の3年半の留学期間中のうち2年間は、仕事につまずき、楽しいことは一度もなかった。養父からの援助に報いなければと焦っていた。



(写真1)



ヒツジの心臓を、ホルマリンで固定し、パラフィン(ロウソクのろう)で包埋し、9から12ミクロンの厚さで連続切片を作製した。6枚目ごとに切片をグラスに貼り付け、染色し、連続切片を丹念にスケッチした。組織学的所見から、以下の事実を発見した(1906年)。
@ ヒス束の下端が、心室中隔の上部で左脚と右脚に分かれて心室中隔を下行する。
A 左脚と右脚が、心室内膜下のプルキンエ線維に移行する。
B 最終的に心室筋と連結する。
C ヒス束の上端に、田原結節(房室結節)が存在する。
D 田原結節は心房筋と移行している。以上を心臓刺激伝導系と名付けた。
田原結節は心房中隔の右心房側の底部にある。扇形で平べったく広がった細胞塊で、長さが6mm、巾が2-3mm、網状配列をしている。田原結節は、刺激が伝わる速さをわざと遅らせる「伝導遅延装置」「安全装置」である可能性を示唆した。1分間で60-100回の脈を打ち、これを整脈という。心房がまず拍動し、少し遅れて下の心室が拍動する。
心臓が時間差で収縮するしくみを発見したのである。「興奮伝導の遅延」が1910年実証された。刺激伝導系が障害すると、房室ブロック、脈拍の減少、失神発作が起き、ペースメーカーの治療が必要となる。田原はペースメーカーの父と呼ばれた。田原の研究は田原結節の発見だけでなく、洞結節を除く刺激伝導系の全貌を含む非常に膨大な研究で、心臓の拍動の筋原性説の証拠となった。心臓の拍動には神経原性と筋原性の説があった。田原は筆頭著者としてドイツ語の原本「哺乳動物心臓の刺激伝導系」(1906年)を書き上げた。当時の日本人留学生としては異例であった。
能力、努力、運力と執着力を備えていたようだ。組織学的所見から推論し、のちに生理学的に証明された。心電図の解読に貢献した。



(写真2)



 1年後の1907年、キースとフラックは、田原結節の発見を契機に、上行大静脈と右心房の間に洞結節を発見した。これで洞結節、心房筋、田原結節、ヒス束、左脚右脚、プルキンエ線維、心筋線維への刺激伝導系が完成したのである。洞結節は、長さが1cm、巾が3-5mmで、心房筋細胞より小型で、紡錘形の細胞束である。交感と副交感神経終末が多数分布している。洞結節で発生する電気刺激で左右心房が収縮する。天然のペースメーカーで、自動能を持っている。洞結節の自動能の働きが2秒以上途絶えると、代替えの自動能が働きはじめ、心臓は止まらず生命の維持を司っている。生命のしくみには驚嘆する。
 心臓刺激伝導系は一つの閉鎖系で、一本の樹木に例えられる。田原結節が根で、ヒス束が幹で、左脚と右脚が主枝で、プルキンエ線維が側枝である。刺激伝導系は消化器系(食物)、血管系(液体)、呼吸器系(ガス)、神経系(刺激)に匹敵する大きな体系である。心臓刺激伝導系は、北里柴三郎の抗体(血清、抗毒素)療法と共に、ノーベル賞の受賞に値する発見といわれた。当時は、日本人の評価が極めて低い時代であった。日本の病理医は世界で活躍した。
  1908年、帰国後35才の若さで、九大初代病理学教授となった。養父に対する感謝の気持ちを学問の成績をあげることによって報いたいと強く考えていた。九州大学医学部校内に「田原通り」がある。
 写真は心電図の波形を思わせる槍穂高の山塊である。写真1は鷲羽山頂から、2と3は双六小屋から弓折岳への尾根から撮影した。



(写真3)



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5.4、茨城の奇祭・古河、大津港、金砂郷


はじめは、茨城県古河市・提灯もみまつりである。5, 6mの道路の両側100mに、高さ20mの木の棒で作られた柵(やぐら)がそびえたっていた。もみ合いによる事故の防止、鳶職師が火を付けたり、竹を点検するためのものである。
A・Bブロックに分かれ、20〜30mの竹に1個提灯をつけ、3本の添え竹を操って、互いに提灯をぶつけ合い、火が消えるか、提灯が燃えてしまったら負けである(写真1、2)。




(写真1)







(写真2)



1チーム20〜30人、総勢200人以上が、酒の勢いで竹を上手に操る。竹と竹が激しくぶつかり、特徴ある音が暗闇に響きわたった。竹が2つに割れ、燃えた提灯が落下した。珍しい祭りであった。「今夜べえだ」のかけ声。今夜だけは無礼講で羽目を外してよいという意味である。暖かいコップ酒とトン汁を飲みながら観戦した(1996年)。駅前でタンとハツ、煮込みを肴に酒を飲んで祭りの総括を行った。本来は野木町の野木神社の祭りであったものを、いつのまにか古河が横取りしたようだ。法被姿の若者たちが、印半天の腹巻き姿に変身し、提灯をつけた高竿をぶつけ合い、互いの提灯の火を消そうともみ合うのである。関東の奇祭といわれ、冬の寒さを吹き飛ばす祭である。毎年行われる。
 つぎは、大津港の御船祭(北茨城市大津佐波波地祇神社)である。全長15メートル、幅4メートル、重さ10トンの木造船に屋形を組み(屋形船)、神社から出された御輿を乗せて神船とした。御輿と囃子方を乗せ、200人の若者が矢声をあげて、水上でなく陸上を引っぱり、1.2kmを3時間かけて渡御する。
船の両面に大漁を願って、近くで獲れる沢山の魚が描かれていた。船べりに取り付いた揺らし手が船を左右に大きく揺らし、引き手たちが、道路上・船の下に「ソロバン」(船を砂地に揚げるのに使う木枠)と呼ばれる井げた状に組んだ木枠の上を滑らす。船を左右に激しく揺すりながら一気に引く勇壮な祭である(写真3、4)。



(写真3)







(写真4)



船は「ギシ、ギシ」と音を立て、摩擦熱の煙を立ち上がらせながら一気に進んだ。参加した。引く時が圧巻で、恐かった(2004年)。各町内を練り歩き、最後に御輿を塩水で清める「潮垢離(しおごり、水を浴びて心身の汚れを清めること)」をする。
塩で清め帰っていった。体力が必要な祭であった。5年ごとに行われる。
最後は、神と海の祭、金砂大祭礼・磯出大祭礼である。72年ぶりに2003(平成15年)年3月下旬に行われた(写真5,6)。



(写真5)







(写真6)



第1回目が851年で、今回が第17回目になる。総勢700人からなる行列が、金砂山から海までの80キロを、7日間かけて往復する大がかりな祭である。
西金砂、続いて東金砂の神が浜下りをする。合計14日間の祭である。途中で田楽舞(田植えの時の踊りから発生した民間の舞楽)が奉納される。山地の神がなぜ浜に降りるのか不思議である。神は本来海から来たものと考えられている。次第に海→陸→山→天と場所を変えたのである。浜下りは「神の禊ぎ」だとする説がある。神が海に下り海水で汚れた生命や精神の力を回復する祭である。アワビは神と深い関係がある。神はアワビの貝にのって海の上を旅するらしい。御神体そのものがアワビとする説がある。御輿とは神霊を奉安(安置)した昔の乗り物である。神事は分からないことが多い。翌日から72年後の金砂郷本祭に向け、寄付金が集められる。

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5.5、ツルーマン(true man)山口瞳の酒乱論


 山口瞳が描く主人公は、平凡で才能のない男が、一生懸命にこの世を渡る人間として登場する。彼は人生いかに生くべきかではなく、今をどう生きるかを小説に書いた。
山藤章二のギャグフレーズは「山口瞳さんとかけて オニギリみたいな人ととく そのココロはたいていサケが入っている」である。写真1は山藤章二が描いた山口瞳である。仕事熱心で、大酒のみで、女嫌いだった。酒をラグビーにおける「魔法のやかん」に例えている。
酒が出て30分もすると活発になるからである。名著「男性自身シリーズ」は、週刊新潮に1800回以上続いたエッセイで、酒の話を抜き書きした。



(写真1)



 山口の家は、軍需景気の恩恵を受けた裕福な家庭であった。戦争中に角瓶を1ダースごと買っていたのだから、資産家だったようだ。小学生から酒を飲み、東京空襲で家が丸焼けになる寸前に頭に浮かんだのは、サントリー角瓶のことだった。池の中に隠して保管したのである。角瓶は鎮火後飲めたものではなかった。麻布中学から早稲田へ、軍事訓練に嫌気がさし中退。19才で雑誌記者、31才でサントリー広報部へ移り、芥川賞作家の開高健らと「洋酒天国」を編集した。36才で作家になり、直木賞を受賞。子供の名前がショウスケさん。酒場で、「水割りにしますか」というバーテンに、「酒を水で割って飲むほど貧乏しちゃいねえや」と名言をはいた。ストレートとハイボールが好きだった。周りの人達に酒を振る舞う気前がいい本当の男であった。
 酒乱とは、飲もうといった時に最後までつきあってくれる人たちで、悪人はいない。単純で純粋で感激型で、単細胞で、小心で、内攻的で、自己反省癖が強い。他人のファインプレーを発見して喜ぶ。酒乱は、意志薄弱、軽佻浮薄、破滅型、奥行きがない。酒乱はホステスにちょっかいをださない。家族サービスに熱心なやさしい男である。酒乱の反対語は「女たらし」である。
 酒乱に二種類ある。ひとつは、あとになって、自分を苛め抜くという型である。酒で失敗して、そのあと5日間ぐらい大いに反省し、自分を責めたてる。自分を責めたて、自分を苛めた力が逆に作用してくる。反省癖の強い人ほど酒乱の傾向を帯びる。自分を責めるのと同じ力で他人を責めたてるのだから大変である。心理的な病気で、カラム場合が多い。反省癖というのがいけない。まず、カラミ型人間は、酒場でからんだ翌日は、いたたまれないような気分でいる。気が小さいから誇大妄想になるのである。カラミ型がカラマレると、しゅんとなる。おとなしく、小心で、傷つきやすい人である。コンプレックスのある人である。婿養子が一番危険である。コンプレックスはその人の生きる原動力になっている場合がある。強い共感を持つ。
 もう一つの型は、反省癖のない人である。アッケラカンとしている。昨夜のことは記憶にない。記憶していても気に病むことはないし、悪いことをしたとは思っていない。生理学的な病気で、乱暴を働く。
 私の酒は学生時代がカラミ型酒乱、最近カラミ型に乱暴型が加わったようだ。
 酒をやめたら、もしかしたら健康になるかもしれない。長生きするかもしれない。しかし、もうひとつの健康を損なってしまうだろう。彼は糖尿病を宣告され、禁酒を申し渡されたときのショックは計り知れなかった。「糖尿病で駄目になるのではなく、禁酒で駄目になる」と、思ったのである。
 仕事のあとの酒はうまい。このときだけお酒をのめない人は不幸だと思う。酔って乱れぬという人がいる。世の中にこんなつまらぬ男はいない。酒の肴は朝食のふうふういいながら食べる熱い御飯のおかずが最適である。酒は飲むものではなく楽しむものだ。最後に「はじめに人は酒をのみ 中ごろ酒は酒をのみ 終わりに酒は人をのむ」と聖歌は詠っていると、訓示を述べている。
 文学碑が谷保天満宮にある(南武線谷保駅西そば、写真2)。



(写真2)


JR谷保駅前に、高倉健主演の映画「居酒屋兆治」のモデルとなった「居酒屋文蔵」がある。写真3は、柳原良平が描いた山口瞳である。山口瞳は名前に似あわず、酒を愛した「男の中の男」であった。



(写真3)




 最後に、山口瞳のエッセイに出ていた言葉を紹介する。
「他人が一日でやれる仕事を二日も三日もかけてやれば、俺もなんとかこの世界でくっていけるだろう」
「人生というものは短いもので、あっという間に年月が過ぎ去ってしまう。しかし、どうしてもあの電車に乗らなければならないほどには短くないよ。それに第一みっともないじゃないか」

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5.6、「団塊の世代」病理医の思い出


私は昭和24年3月生まれの「団塊の世代」である。「団塊の世代」とは、堺屋太一が「大量消費や過当競争がもたらす社会現象を予見した小説」で提唱したもので、昭和22年から25年のベビーブーム期に生まれ、戦後日本の人口ピラミッドの最高峰を形成した1000万人世代のことである。「塾ブーム」「全共闘運動」「企業戦士」「ビートルズ世代」を経験し、強い連帯感と競争心と向上心が強く、高度成長期の中でがむしゃらに突き進んできたという自負だけがあった。大量入社したが、年齢と共に管理職不足が深刻になり、バブル崩壊に直面し、リストラされ、パワーが衰えた。 私も還暦を前に過去に思いを巡らせてみた。昭和20年代後半、物心がついた頃だろうか、駅には時折傷痍軍人さんの姿があり、幼いながらも心を痛めた記憶がある。当時の生活といえば、土間の台所には、手押しの井戸があり、かまどでご飯を炊き(写真1、東北木地玩具)味噌汁を温め、糠床入りの樽には、ナス、キュウリ、大根が入っていた。物がない時代で、母は切れた電球を使って靴下を繕い、嫁入り道具の磨り減ったたらい (写真2)








(写真2、たらいで水遊び)


と洗濯板を使って洗濯し、手足はひび割れていた。30年代、絞り器のついた洗濯機の登場は夢のようだったと話してくれた。ビー玉が転がるちょっと傾いた家、変色した畳と障子、ひんやりした狭い廊下と縁側、窓ガラスの歪み、物干し台、長ほうき、下が屑籠の木製踏み台、蚊帳、ちゃぶ台(写真3)







ちゃぶ台(写真3)



年末の大掃除で畳を上げると出てきた変色した新聞、懐かしく思い出される。祖父がダンボールを燃やし、火吹き竹を使って五右衛門風呂を沸かし、浮いた「すのこ」を沈めて風呂に入った。祖父は、火鉢(写真1)で暖を取り孫の手で背中を掻き防空壕の穴を掘った話をし、祖母は身体が弱かったが刻みタバコをうまそうに吸い、部屋が臭かった。お盆の時、祖父に連れられ本家に行くと、家長は上座に女性は一段下に座り銘々の膳で食事をし、封建制度の雰囲気が漂っていた。








火鉢(写真1)


当時の食べ物には思い出がいっぱいある。家裏の空き地で、子供達が競い合って団扇をあおぎ、七輪でサンマを焼いた。 油はジュウジュウと音を立て、臭いと煙が強烈だった。駄菓子屋が子供の社交場になり、もんじゃ(文字屋が語源)焼きが5円で、「渡辺のジュースの元です。もう一杯」が流行り、ラムネのビー玉はどうして中に入ったのかが不思議だった。 卵の殻は植木のまわりに被せて肥料にし、生卵ご飯は白身が滑り込むのがいやだったし、血が混じった生卵は気味が悪かった。 生ケーキの切れ端をパン屋で買ったが、型紙の新聞紙がケーキに張り付き、剥がすと文字がはっきりと写っていた。それでも美味しかった。 鏡もちは金槌で砕き割り、油で揚げ砂糖をまぶしておやつとなった。家で作るライスカレーはうどん粉が多く、厚い膜が表面を被っていた。 マクワウリとナシは固くてまずかった。豆腐屋がチャルメラを吹きながら「とうふとうふ」「なっとうなっとう」と独特な口調で連呼し、子供がアルミの鍋をもって買いに出た。チャルメラは真鍮製のラッパで、16C頃にポルトガルやスペインから伝わり、先端が朝顔型にひらきやや安っぽい音だが哀切な音色に聞こえた。  昭和30年代前半は紙芝居やチンドンヤが賑やかな頃だった。学校は55人のすし詰め授業で、子供は坊主かおかっぱ頭、服の袖は鼻汁で光り輝きズボンの膝が薄切れしていた。 給食はアルミの食器に先割れスプーンを使い、本当にお金に困り給食費を払えず遠足にいけない子がいた。 暖かい日は裸足で登校する子がいて、足洗い場で泥を落としてから教室に入った。寒い日の朝礼は辛く、片足の上に他足をのせて寒さを凌いだ。ポットン(汲み取り式)便所は、寒く暗く臭く恐く、夜は我慢し、学校では先生が便所に落ちて泣く子をホースで洗い流すこともあった。 プールはなく、名前を書いた木札を係員に出してから川で泳いだ。毎年水の事故があり、同級生が橋の欄干の下で亡くなった。 ラジオやテレビや映画の思い出もこの頃であった。ラジオは家宝で、昭和32年、赤胴鈴之助が始まると、「弱い人には味方する。 正しい事をやりとうす」と歌った。電気屋の前は人だかりで、モノクロテレビの画面は小さくみにくかったが、力動山の空手チョップに歓声を上げ、月光仮面が始まると「正義の味方善い人よ」と合唱した。ハリマオも楽しかった。 テレビは角が円く、スイッチを入れてから写るまで時間がかかり、回転式のチャンネルはいつも調子が悪かった。 映画館は立ち見客が出るほど盛んで、主役が悪役をやっつけると全員で拍手し館内には連帯感があった。 最後に思い出すのが集団就職(昭和29-52年、38年以降の数年間が最高)の風景である。昭和42年3月のある朝、一ノ関駅のプラットホームは当時「金の卵」ともてはやされたの中学生であふれ、母親は眼を赤くし、坊主頭やおさげ髪の中学生は大きな荷物を持ち緊張して立っていた。 平成17年以降、団塊の世代は次々に還暦の仲間入りをしている。因みに、還暦で「赤いちゃんちゃんこ」を身につけるのは、生まれ変わって赤ちゃんに戻るという意味で、人生の再スタートへの願いをこめた風習である。 同じ団塊の世代である山口文憲は「団塊の世代は親の面倒をみる最後の世代で、子供に面倒をみてもらえない最初の世代である。 うまく父親になれず、うまく母親になれなかった世代で、うまくじいさんやばあさんになれるのか不安な世代である」と総括している。 このまま夢を持たず意気消沈してしまうのか。奮起し再び団塊の世代の時代が来るように努めたいという意気込みだけはあるのだが・・・。

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5.7、アドレナリン発見秘話


ホルモンは、「動き出す」という意味で、1905年スターリングにより「ある決まった臓器で作られ血液内に分泌されて体内を循環し、特定の臓器で効果を発揮する物質」と定義され、情報を伝達する物質である。ホルモンは内分泌といい、一方、外分泌は消化酵素で消化管内に分泌される。ホルモンのひとつであるアドレナリンは鼻出血の止血剤、開頭手術時のアドレナリン入りキシロカイン局所麻酔剤(開頭時200-300ccの出血が十分の一以下に減少した)、心停止への心筋内注射、喘息発作時に使われ、「奇蹟の薬・世紀の新薬」といわれた。アドレナリンは、100年以上経っても盛んに使われ、タカジアスターゼとアスピリンとともに世界の三大医薬と言われている。 高峰譲吉(1865-1922)は、富山高岡で生まれ、金沢で育ち、米麹(日本酒・醸造酒)や麦芽(ウイスキー・蒸留酒)を使った発酵醸造学の専門家、「医学が救うのはひとりひとりの患者だが、化学は万人を救う」と医学の道を捨て、科学者となった。 日本で起こした「人造肥料会社」の官職を捨て、米国に移住しベンチャー企業を立ちあげ、1894年強力な消化酵素「タカヂアスターゼ」を発見した。酒つくりから薬つくりへ転換を成し遂げたのである。多数の特許を取得し、資産は今のお金に換算して6兆円以上といわれている。 学者であるが、大倉、安田、渋沢、松方、豊田、松下、本田、井深らと一緒に、「20世紀日本の経済人」の中に取り上げられ、実業家としての一面の方が大きい。 アドレナリン発見の秘話は面白い。1890年頃から、副腎の抽出物は血圧上昇と止血効果があり、多数の抽出物が報告された。1901年副腎髄質ホルモンを抽出したという発表が3つ同時にあった。高峰はウシの抽出物をアドレナリンと、ドイツのフュルトはブタからのものをスプラレニンと、米国のエイベルはヒツジからのものをエピネフィリンと名付けた。いったい誰が本当の発見者なのか問題となった。 高峰の死後1927年、エイベルは「高峰は自分の実験結果を盗んだもの」と盗作疑惑を主張し、生涯疑い続けた。 しかしエイベルが発表した方法では副腎から真の有効な成分を抽出できないと確かめられた。米と日本はエイベルのエピネフィリンを、欧だけが高峰のアドレナリンの名称を認めている。 現在でも米国の学会雑誌に論文を投稿する時はアドレナリンをエピネフィリンに書き換えることが求められている。 この事態は医学の歴史の中で不思議なことのひとつである。











1965年、上中啓三(1876−1960)が4ヶ月間にわたって日記風に書いた「アドレナリン実験ノート」が発見され、遺族から提出されたことから、アドレナリンの発見者は高峰ではなく上中であったという事実が判明した。 上中は、兵庫の西宮生まれ、東大薬学部を卒業後、足尾銅山鉱毒事件で鉱夫の便を検査した経歴がある学者だった。 24才で渡米、1901年、ニューヨークの高峰私設研究所で、ウシ(写真、東北地方の木地玩具)から副腎髄質ホルモンのアドレナリンの抽出精製し、結晶化と工業化に成功した。はじめてホルモンが薬品として商品となったのである。 高峰は英文和文に関わらずアドレナリンに関する論文に上中の名前を出すことを一切せず、上中の学問的業績を完全に抹消した。 アドレナリンの特許申請でもその権利を認めず、明確な意図で「上中」の名を消した。上中の抹殺が高峰の最大の汚点となった。 高峰譲吉は三共の初代社長で、理化学研究所発足の一人となり、莫大な財産を作り、派手で贅沢な生活をおくった。 その後の高峰研究所は、研究者の間で憤りがくすぶり、研究者の出入りが激しく、優秀な研究者が少なくなり、優れた研究成果は出なくなった。高峰は研究目標と研究資金を持ち、上中は優秀な技術を持ち、二人が一組になったからすばらしい成果が出たのであって、独り占めにした行為は決して範とすべきでない。 学術研究は、スポンサーと兵隊が協力し、アイデアと技術がかみ合わさってなされるのであって、けっして一人の人間だけでできるものではない。西宮市名塩御坊教行寺に「上中啓三顕彰碑」が建立されている。

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5.8、インシュリン発見秘話


血糖値が増加すると、膵のランゲルハンス島(ラ島)のβ細胞からインシュリンが分泌され肝に達し、肝細胞の細胞膜にあるインシュリン受容体と結合する。すると肝細胞内の酵素反応が活性化され、肝細胞中のグルコース(糖)がグリコーゲン(糖原)に変化する。その結果、肝細胞への糖の取り込みが促進され、血糖値が減少するのである。糖尿病は放置すれば意識障害から昏睡に至り、確実に死に至る悲惨な病気で、インシュリンの発見が急務であった。 1869年ラ島が発見され、1889年独のメーリングとミンコフスキーがイヌから膵を摘出すると糖尿病になり、膵の抽出物で糖尿病が治ると報告したことから、内分泌物質を抽出しようと思い立った研究者が多数いた。1920年、バロンはラ島が糖尿病を防ぐ因子を分泌していることを示唆した。 秘話に登場する役者は4人で、1921年のことである。主人公はカナダオンタリオ州の流行らない開業医バンティング(1891-1941)である。 彼は苦労して大学を卒業、何事にも懸命に取り込み、何か大きな仕事をして一般大衆から脱却したいと考えていた。 アイデアと熱意があり、「生涯でただ一つの幸運・ただ一つの大当たり」をものにした。 マクラウド(1876-1935)はトロント大学生理学教授で、オーガナイザーとスポンサーとなった。 医学生ベストはバンティングの助手、コリップは生化学者で、インシュリンの抽出と精製に貢献した。 マクラウド教授はバンティングに、夏休みの8週間、10匹のイヌと実験室を使うことを許可した。 バンティングは、イヌ(写真、東北地方の木地玩具)の膵管を縛り萎縮した膵から血糖を下げる物質を抽出し、ウシの胎児の膵臓からも抽出に成功した。糖尿病でぐったりしたイヌにこの抽出物を注射するとイヌは元気になった。












チーム・インシュリンはバンティングとベスト、マクラウドとコリップの二つに別れ、主導権争いと権力闘争が激しく起きた。 とうとうバンティングが、インシュリンの作成法を教えなかったコリップに暴力をふるう事件が起きた。 1922年治療が開始され、最初のインシュリン患者はトンプソンで10年間生きることができ、次にニーダムは昏睡から救われ20年以上生き、数ヶ月で数千人の糖尿病患者の命が救われた。1923年バンティングとマクラウドは一緒にノーベル賞をもらったが、お互いが一緒の受賞に激怒した。 バンティングは「インシュリンを発見したのはマクラウドではなくベストである」と主張し賞金の半分をベストに、マクラウドもコリップに半分をプレゼントした。 バンティングはカナダの英雄になり、政府から研究所を設立してもらったが、その後は不運だった。野心にもえすぎ、被害妄想で、執念深く、敵意を顕わにした。 研究は支離滅裂で、良い研究が出来ず、結婚に失敗し、スキャンダルにさらされ、若くして飛行機事故で死んだ。 マクラウドはバンティングの執念深い非難に嫌気がさして故郷スコットランドに帰った。 コリップは生化学教授になり、脳下垂体ホルモンである副腎皮質刺激ホルモンの単離を行い、更なる飛躍を遂げ、ベストは立派な生理学教授になり成功した。  最近になって、以下の新しい事実が判明した。 @マクラウドは夏休み8週間のうち4週間はトロントにいて、バンティングに指示を与えていた。 Aバンティングの発表前に、ルーマニア人パウレスコは仏語でインシュリン抽出の論文を発表していた。バンティングは仏語が正しく理解できず、 誤って解釈して自分の論文に引用してしまった。ノーベル賞委員会がパウレスコの業績を無視したのは間違いだったと述べている。 Bインシュリンに似た抽出物を発見した論文は5つあったが、すべてが純粋でなく、動物に投与すると嘔吐、痙攣、発熱、腎機能障害の副作用が あった。 Cコリップが人間に有効かつ安全に作用する抽出物質を作ったが、なぜか2度目には成功しなかった。 一度目の成功の時は偶然に亜鉛の入っていた容器を使用したからだった。 Dインシュリン発見の成功は、バンティングのちょっとしたアイデアの思いつきと信念、マクラウドのアドバイスと指示と命令と統率力、コリッ プの抽出物生成の卓越した生化学的技術(アルコール抽出法; インシュリンは80%アルコールで溶け95%アルコールで沈殿する)、ベストの助力、 トロント大学とリリー製薬会社による抽出物の効果を調べる体制の確立、が絡み合ったものである。 インシュリンの純化結晶化は1926年エイベルが成功し、分子構造の解析は1955年サンガーが行い、インシュリンは51個のアミノ酸からでき分子量6000の蛋白質と確定した。1978年大腸菌の中でインシュリンを合成することが出来た。

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5.9、視床下部分泌ホルモン発見秘話


1950年英国のハリスは、「脳の視床下部から下垂体前葉に作用し、下垂体ホルモンの分泌を調節している物質の存在」について仮説を発表した。 視床下部から分泌されるホルモン放出因子は極微量でも十分効果が得られるので、純粋な抽出物質をまとまった量で抽出するのは困難であった。1901年のアドレナリンの発見、1921年のインシュリンの発見から約半世紀が経過し、臓器からの純粋な抽出だけではノーベル賞を受賞する研究として認められず、化学構造の決定、人工合成、作用の確認が必要で、大きな壁がいくつもあった。その秘話である。 視床下部ホルモンの発見の戦いが、仏人ギルマン(1924- )とポーランド人シャリー(1926- )の間に始まった。 ギルマンは明晰な頭脳、驚くほどの冷徹さ、強い指導力があった。シャリーはギルマンの下で働き、ギルマンに対してコンプレックスと憎しみをもち、赤ら顔で興奮しやすくけんか早い性格であったが、素朴で農夫のようで憎めない人であった。 シャリーは「私はギルマンとは対等な研究者なのに、ギルマンは私を奴隷のように扱った」と主張した。 二人の間柄は険悪になり、シャリーはギルマン研究室を飛び出た。両者は生理学者で物質の抽出の仕事だけを行った。 その精製と測定、タンパク質と遺伝子配列解析、物質の合成とその再現性は優秀な生化学者に頼ったのである。 生理学者と生化学者のチーム作業となった。一着でゴールしないと無意味の世界であった。











ギルマンチームは研究費がシャリーチームより10倍以上あり、優秀な科学者バーガスがいた。一方シャリーは研究資金が無く研究環境が劣っていたが、アイデアと技術を持つ日本人研究者(松尾、馬場、有村)が彼を助けた。ギルマンはヒツジ(写真、東北地方の木地玩具)を、シャリーはブタの視床下部をつかい、精製だけで10年かかった。生物学的検定法は感度が悪く、失敗の連続であったが、米人女性研究者ヤローが放射線同位元素測定法を開発し、研究が前進した。 1969年、TRH(甲状腺刺激ホルモン放出ホルモン)はアミノ酸がたったの3個であると確認され、この勝負は両者が引き分けとなった。 続いて、1971年LH−RH(黄体形成ホルモン放出ホルモン)は10個のアミノ酸からなり、シャリーの勝ちであった。 松尾はすでに日本で超微量試料を検出できるトリチウム標識法を発見し、この方法が見事に役立った。 発見の経過は、16.5万頭の視床下部を乳鉢ですりつぶし乾燥すると1kgになり、色々の分離法を繰り返し行い、松尾がシャリーから渡された抽出物はたったの830μg(0.83mg)で、1μgは1gの100万分の1である。830μgは色々の物質が入っていて、濃縮すると目的のLH-RHは0.25ngであった。LH-RHのアミノ酸構造式は最終段階で2つに絞られ、人工的に合成され、最終構造式が決定され、下垂体にその試料を加えると、LH(黄体形成ホルモン)活性を確認できた。ギルマンは2ヶ月遅れた。 シャリーが勝利し、ギルマンの誤りをからかいなぶった。ギルマンは1973年、ソマトスタチン(成長ホルモン放出抑制ホルモン)を発見し、そのアミノ酸は14個でギルマンの勝利となった。シャリーは3年遅れた。以上で視床下部分泌ホルモンの発見競争は1勝1敗1引き分けとなった。 ギルマンは1981年副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン(CRF)を発見し、41個のアミノ酸配列を決定し、セリエが提唱した「ストレス学説」の完成となった。さらにモルヒネ様物質エンドルフィンを発見した。 1977年ギルマンとシャリーはヤローとノーベル賞をもらった。メダルに受賞者3名の名前が彫ってあったが、互いが互いの名前を嫌った。 二人は終生仲が悪く互いに許すことが無かった。受賞後シャリーはニューノオリンズのスパードームが見えるみすぼらしい研究室で研究者を怒鳴りながら研究し、一方、ギルマンは南カルフォルニアの名高いソーク研究所で近代的な研究室で「ゴッドファーザー」的研究生活をしている。

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5.10、光合成、葉緑素、紅葉登山



光合成は地球上の生物があみだした最高の傑作でる。葉緑体に含まれるクロロフィル(葉緑素)は緑色をした色素で、植物の葉の色となた。太陽の光を吸収する色素で、この色素によって集められた光を強力なエネルギーに変え、二酸化炭素と水からブドウ糖と酸素をつくるのを光合成という。 秋になるとクロロフィルは分解され、隠れていたカロチン(橙色)とキサントフィル(黄色)という色素が表面に現れる。 さらにアントシアンという紅色の色素を合成し紅葉に変わる。関東と東北の紅葉は橙色と黄色が多く、京都の紅葉は紅色で、京都人は「紅葉とは字の如く紅色である」と胸をはる。 感動の紅葉登山を紹介する。1978年のプロ野球日本シリーズ第7戦の日、塩沢渓谷から安達太良山に登った。 黄赤に色づいた山の斜面(写真1)、








黄赤に色づいた山の斜面(写真1)

登山道に厚く積もった落葉、落葉を踏む心地よさが重なり、沢の上に垂れ下がった紅葉が、薄暗い中で鮮やかだった。 くろがね小屋で作った食事は温かかった。途中から細かい霧雨となり冷たく、沼ノ平は硫黄ガスのために木が生えず気味が悪かった。 1984年那須全山が紅葉真っ盛りだった(写真2)。







那須全山が紅葉真っ盛りだった(写真2)

尾根にある峰の茶屋まで登ると風が強く寒かった。左に茶臼岳、右に三本槍岳、尾根を越え下った所に三斗小屋温泉が見えた。 1989年、千葉の稲毛―浅草―東武日光―霧降の滝―大笹牧場―八丁ノ湯をへて手白沢温泉に泊まり奥鬼怒を歩いた。温泉の庭で、凍らしてきた牛肉のブロックをたたき風に料理し、肴にして、寒い星空の下、酒を飲んだ。翌日、オロオソロシの滝を遠くに見ながら登ると、鬼怒沼は台地に点在する小さな沼で、草は冬枯れていた(写真3)。






鬼怒沼は台地に点在する小さな沼で、草は冬枯れていた(写真3)



西に燧岳が見えた。 1992年、上野駅夜行急行「妙高」に乗り、真っ暗な長野駅からタクシー(16000円)で、6時笹ケ峰火打山登山口へ。 妙高と火打への分岐点の富士見平からは、左一面に北ア北部(朝日岳、白馬、唐松、五竜、鹿島槍、爺、針ノ木、蓮華、烏帽子)から北ア南部(燕、槍、穂高、常念)への展望が開け、火打が現れた。トンガリ屋根の高谷池ヒュッテ、天狗の庭、紅葉の着物をまとった火打と大小の池塘がすばらしかった。頂上までの急登はきつく、5時間かけて火打山頂に到着。小さな雨飾山が焼山と天狗原山につぶされそうで、南に黒姫山、東に妙高が見えた。真っ赤なナナカマドとウルシ、黄色のブナが、緑色のトドマツとササと調和して、錦絵の絨毯を作っていた(写真4)。








錦絵の絨毯を作っていた(写真4)

火打を下ると、黒沢池を中心に背景の妙高の山一面が色鮮やかだった。黒沢池ヒュッテは八角形の三階建てドーム状小屋で、一辺に十人のすし詰めで、一畳三人強の混雑となった。夕食の鳥の空揚げは堅かったが味がよく、剥き身あさりとタマネギのスープは旨かった。 宿泊客は約200人、人息で蒸し暑くシャッツ一枚で寝た。朝食のクレープはまずかった。妙高山頂上までの最後の登りがきつく、頂上では竹で作った縦笛を吹いている青年に、みんなが拍手した。光善寺池を通り、燕温泉に着くとイワツバメが飛び交っていた。 岩戸屋の観音風呂に入り、ビールで乾杯し、タクシーで妙高高原駅へ(2400円)。駅前でざるそばとビールで再び祝杯、天候に恵まれ最高の山行きであった。 同年文化の日、乙女峠から金時山に登り足柄峠まで歩いた。小田原駅前からバスで仙石、バス乗り換えて乙女峠口へ。 関東南部でも紅葉が見られることを知った(写真5)。




関東南部でも紅葉が見られることを知った(写真5)




足柄峠公園からの眺めが最高で、御殿場の町が下に見え、大きな富士が見えた。地蔵堂で食べた野沢菜入りの"おやき"はうまかった。 2000年田代山から帝釈山へ。鹿沼・今市・鬼怒川・川治・湯西川をへて13kmの林道に入り、時速15kmの運転となった。 田代山登山口から約1時間で小田代、20分で田代山頂上へ。頂上はだだっ広く草もみじの中に沼が点在していた(写真6)。




頂上はだだっ広く草もみじの中に沼が点在していた(写真6)





木賊温泉への道と分かれ、帝釈山頂上へ、南に日光連山(男体・女峰・真名子・太郎・赤薙山)、日光草津山、西に燧・至仏・平ガ岳、東に荒海・那須・安達太良・吾妻連山、北西に会津駒が見えた。小田代でモモ缶を食べ下山した。翌朝タイヤがパンクしていた。
以上6回の紅葉登山からもらった感動は言葉に尽くせない。光合成に感謝。

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6.1、槍ヶ岳登頂の小話


 昔富山では、14才で立山登山を行うと一人前の人間として認められた。 播隆上人(1786-1840)は富山の人で、幼名は岩松、百姓から米問屋の手代になり、 31才の時農民一揆に関わり、ちょっとした間違いで妻のおはなを槍で刺し殺してしまい、 富山から美濃さらに飛騨へと逃げ落ちた。過ちを許してもらうために修行僧を志し、 山城の国一念寺の僧となった。「山に登ることが瞑想に近づくことのできるもっとも容易な道のように思われました。 登山は苦行ではなく悟りへの道だと思います」と述べている。笠ヶ岳は1700年頃に円空上人が開山し、 1782年南裔上人が登頂、播隆上人が1823年41才で再興を成し遂げた。その笠ヶ岳からみた槍ヶ岳に思いをはせたのである。 1828年7月28日、播隆は中田又重郎、穂苅嘉平と槍ヶ岳開山に成功し、5坪の頂上に阿弥陀仏と厨子を納めた。 その時、霧をバックに虹の環の中に如来をみとめるという、いわゆる「ブロッケン現象」を体験したのである。 背中から射す太陽が自分の影となって霧の真ん中にうつる現象である。さらに1836年「善の綱」をかけ、 すべての人が槍ヶ岳に登れるようになり、次に1840年「善の鎖」と呼ばれる8個の鉄の鎖と2個の鉄梯子をかけ、 槍の肩から頂上まで簡単に登ることが出来ようにした。その重さは550貫(2トン)もあった。「一心不乱に生きようとすることと、 一心不乱に山を登ることが同じである」と考えた。播隆が開拓した登山道は今なく、鉄の鎖、祠、仏像も残っていない。 毎年5月10日平湯温泉村上神社播隆塔前で播隆祭が行われている。綱をかけ鎖をかけ、登山を庶民に呼びかけたお坊さんだった。 新田次郎の「槍ヶ岳開山」に詳しい。  新田次郎は加藤文太郎(1905-1936)を「孤高の人」として書き、文太郎は「単独行」をかいた。 その単独行の文太郎が槍の北壁を二人でアタックして遭難死したのである。不思議である。文太郎は、 兵庫県の日本海の海辺にある浜坂で明治38年に生まれ、設計研修所を1番で卒業、神港造船所でエンジンの設計を担った。 泳ぎがうまく、歩きが速く、地図遊びから山に入ったが、当時の山はエリート族や裕福な学生のもので、 一般の労働者には場違いだった。甘納豆と乾した小魚をポケットに入れ、腹が減ると歩きながら食べた。 いつも怒った顔をして、無口で変わり者ではにかみ屋で、思っていることが言えず、皆から理解されなかった。 冬ツェルトを頭からかぶり、リュックサックに足をつっこんで背を丸め、空腹状態で下宿の庭で眠り、 冬山登山の練習を行った。さらに、地下足袋をはき、石が入ったザックを担ぎながら風のように歩いて通勤した。 幻視と幻聴、疲労と睡魔が襲ってきたが、疲れる前に温かい食事を摂ってさえいれば雪の中で眠っても凍死しないという自信があった。 しかしながら、後輩と一緒に槍の穂から北鎌尾根へ下りて遭難したのである。雪に流され、食物もなくなり、 雪の中を漕いで下山したが、人家のある湯俣温泉の手前で力尽きた。槍穂高に18回通い、ほとんどが冬山だった。 孤独を愛し、孤独と寒さと闘い、登山とは汗を流し自分と語り合うことと考え、何かをなしたようだ。13年後、 同じ北鎌尾根で松濤明はパートナーと遭難し、ヒト、死、海、魚、そしてヒトと「個人ハカリノ姿 グルグルマワル・・・」と 壮絶なメモを残して死んだ。名著「風雪のビバーク」を書いている。 青年時代の芥川龍之介(1892-1927)は、<青白さ>のイメージはなく、水泳や柔道や器械体操で身体をきたえ負けん気が強かった。 明治42年8月12日に槍をめざし、播隆がつけた鎖があったが気付かず、快晴の中頂上に立ち、頂上でウイスキーの瓶や空き缶の中に 沢山の名刺を見つけ、遠くに富士をみた。上高地へ下り焼岳を登り、「河童」と「槍ヶ岳紀行」を書いた。一方、北杜夫(1927-)は、 松本から汽車で島々へ、島々から徳本峠を越え明神池へ下りた。このルートは通常約9時間かかるが、 4時間で走破するほどの健脚だった。徳本峠に立つと急に前が開けここからの穂高を愛した。昭和20年、 槍沢をひたすら登り槍に立ったが、全く登山者はいなかった。旧制高校時代の3年間で、10回以上槍穂高に通った。  1978年7月(29才時)、燕、大天井、西岳をへて槍ヶ岳に登った。遠くから小さな槍の穂は見えるが、いくら歩いても槍ヶ岳が近づかず、 山塊の稜線を上下しつつ、大槍の下についた。頂上を見上げたら大槍は大きく、小槍も大きく、孫槍が真ん中にあり、 仲間の肩に足をかけて登った播隆の姿が浮かんだ。頂上に立った時はクライマーズハイとなり、 頂上は約20人が立つと一杯で、真ん中に小さな社があり、文太郎が死んだ北鎌、穂高、早大と関西RCCが先陣を争った滝谷、 ナイロンザイルの前穂東壁(氷壁の舞台)、東鎌(喜作新道、表銀座)、西鎌(裏銀座)に圧倒された。



(写真1)





写真1は表銀座尾根(29才時)から、






(写真2)







写真2は槍の方から、






(写真3)







写真3は垂直に近い槍の穂を登攀中に、




(写真4)




写真4は北穂(43才時)から、




(写真5)




写真5は針木岳(41才時)から撮ったものである。

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6.2、穂高岳登頂の小話


 日本の三大岩壁は、穂高、剣、谷川の壁である。大正14年(1925年)8月13日、穂高「滝谷」



(写真1)










(写真1)の初登攀をめぐる激しい競争が、 偶然に同じ日に始まった。2パーテーの4人は、一緒のスタートを約束していた。落石の危険性があり、 同時登攀の成功を誓ったのだった。しかし、関西RCCパーテーの藤木九三らは6時30分、 早大パーテーの四谷龍胤と小島六郎は7時にスタートした。なぜ30分の時間のずれが発生したのか、 謎の論争が長年続いた。滝谷の壁は高度差が1300m(1800mから3100m)もあった。鳥も通らぬ、飛ぶ鳥も落ちる、 翼ある鳥でも登れないと言われた。滝谷は登るに従って開けていく珍しい谷で、扇状の大岩壁であった。 30分先に登ったRCC隊は雄滝の左側を登って滝谷に入りAルンゼをつめ、大キレットに出て、その日の内に南岳から槍平へ下った。 30分遅れて出発した早大隊は同じコースをとらず、困難な右側のルート、雄滝の右を登り、滝谷に入り、D沢をへて、 涸沢鞍部に出て穂高山荘へ下りた。RCCに先を越された早大は、ペテン師、抜け駆けの功名、駆け引きのうまさ、と藤木を責めた。 藤木はベテランの新聞記者で、甲子園球場のアルプススタンドの命名者でもあり、役者が上だったようだ。初登攀競走があり、 レリーフの建設が難しかったが、なぜか滝谷出合に藤木だけのレリーフが建設された。同じ日に登った4名のレリーフを 作るべきではないかと言う声が盛んに上がった。どの分野でも一番だけが名誉で、2番以下は話題にならないのである。 瓜生卓造著「大岩壁」に詳しい。一番になれなかった四谷は「或る登山家の半生」を書き、山で死んではならないと述べ、 「庶民登山者の父」といわれた。  井上靖(1907-91)はナイロンザイル事件をテーマに「氷壁」を書いた。小坂乙彦と魚津恭太は元日、前穂高東壁を登攀し、 途中でナイロンザイルが切れ、小坂が遭難死した。一方の魚津は穂高連峰涸沢岳西壁、飛騨側の穂高の壁「滝谷」を単独で登り、 U字状にえぐられた巨大な暗い谷、雄滝、雌滝、滑滝の登攀は困難の連続で、落石に当たって死んだ。井上靖は、自然対人間、 永遠と個人の生命を描いた。井上靖は50才近くになって初めて山といえる山に登った。「山の魅力は山に登ったことのない者には とうてい理解してもらえない」と述べ、穂高が好きで穂高だけ登り、穂高以外の山を知らない。はじめて訪れたのは、 月見をするなら涸沢小屋で観月の宴をはろうと言うことになった観月登山で、山の暗い月を見たと書き、穂高で見た月は寂しかったようだ。 涸沢小屋からの穂高連峰、上高地から横尾の出合の樹林地帯、5月の梓川の美しさを述べている。 「穂高からの下山で、豪雨に遭い13時間歩き続け遭難しかかり、本当に山は恐いと思った。橋は流れる寸前に渡ることができたが、 樹林地帯は一面川のように流れ道は判らなかった」との経験談が残っている。穂高は「岩の秀(ほ、穂)が高い」から名ができ、 威風堂々の大艦隊といった登山家がいる。  北杜夫(1927-)は旧制松本高校へ入学、思誠寮で生活した。島々から歩いて徳本(とくごう)峠へ登り、 そこから見える穂高は絶品であると書き、穂高はいつも圧倒的に巨大すぎて、それを眺める自分はあまりに微少な存在にすぎなかったと 書いている。松本高校で「教育とは教えて育てること」を学んだ。安川茂雄著「霧の山」は戦争を背景に山に生き甲斐をもった 青春像を描いた。 1992年8月(43才時)、官舎が千葉大学の近くにあったので千大生協に行き学割を使い夜行バスのチケットを買った。 着いた上高地は土砂降りだった。徳沢、横尾、屏風岩、横尾谷に入り、涸沢までしとしとと雨に打たれ、全身びしょ濡れになった。 涸沢はすり鉢の形を呈し穂高連峰が取り囲み、壁が覆い被さり、岩壁が崩れ落ちるようだった。翌日は快晴で、 北穂頂上からの展望は最高だった。



(写真2)





写真2は北穂からみた奥穂とジャンダルムである(43才時)。登頂時は確認できなかったが、 スライドを幻灯機で観察したら吊り尾根方向に南アルプスが見え、左に富士山の頭が小さくかすんで見えた(写真3)。



(写真3)





確認できたのは15年後のことであった。写真家川口邦雄は、「大雨の後、空気中の細かいほこりが大分おちた後、 あるいは気圧が低くなって霞が吸収された時に巡り会うことがある。視程が200kmにおよぶことが珍しくなく、 山岳写真撮影が狙い目となる。それを<異状透明>と呼んでいる」と書いてあり、その現象だったのかもしれない。



(写真4)





写真4は奥穂・吊り尾根・前穂である。



(写真5)





写真5は蝶が岳から屏風岩と穂高連峰である(40才時)。

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6.3、剣岳登頂の小話


 剣は南から剣御前、前剣、剣、長次郎雪渓、三ノ窓、三ノ窓雪渓、小窓、小窓雪渓、大窓、大窓雪渓が連なり、 氷の浸食によって出来た谷とチンネが異様な景観を創っている(写真)。チンネは巨大な岩壁を持つ尖塔状の独立峰のことで、 三ノ窓チンネは高さが300mもある。仙人池からの眺めが壮観で、凄みをもって迫ってきて、登山者の憧れでもあり、 秋の仙人池はカメラマンの列が出来る。 立山は一般人の霊場であるが、剣岳は行者の秘密的修行の山であった。柴崎芳太郎(1876-1938)は明治9年山形県大石田町で生まれ、 陸軍所属の地図作製測量管で、測量管と測夫と人夫がチームを作り、4月から10月までの約半年間共同生活をして測量にあたった。 日本の地図の中で剣岳周辺だけが空白地帯であったことと、小島烏水が率いる日本山岳会が登頂の計画をしていたことから、 剣岳へ初登頂をすることが絶対命令であった。地元住民の反発、ガレキだらけの切り立った尾根、悪天候、雪渓に阻まれた。 昔から地獄の「針の山」といわれ、悪行を重ねた者が死後追い上げられる山と信じられ、嵐にあって死に、 登ったとしても帰り道で罰が当たって死ぬと言われた。北西の早月尾根と南の立山三山からの尾根を辿ったが、 登山路を探すことが出来なかった。岩穴で修行中の行者の言葉「登山路は雪を背負って登り、雪を背負って帰る道だ」を ヒントに、剣岳の東斜面にある長次郎雪渓を登り切り、60mの岩壁をはだしで登ると頂上に出た。明治40年(1907年)7月27日のことだった。 頂上には剣の先と錫杖の頭、石室様の人工物、火のあとが残され、分析の結果奈良から平安初期のものと鑑定され、 陸軍上層部は彼らの登頂が初登頂でなかったことから、登頂成功に冷たかった。逆に山岳会は恐るべき忍耐と勇気を称賛した。 剣と錫は重要文化財に指定され、立山博物館に展示してある。その後、明治42年日本山岳会の石崎光瑤が案内人宇治長次郎と頂をきわめた。 長次郎谷、平蔵谷、源次郎谷は登山案内人の名である。新田次郎の「剣岳<点の記>」に詳しい。点とは三角点の事である。  剣とは鋭く高く天にそり立つ山の呼称で、剣岳は天を突く「岩と雪の殿堂」である。3000mに2m足らないが、 剣のガイドは「頂上で誰かにおぶさって手を伸ばせば3000mにふれる」とぼくとつに語る。 2007年、柴崎らが初登頂してから開山100年となった。室堂2450mから2998mの剣に登るのには2泊3日かかり、 毎年1万人以上の登山者が頂きに立ち、多くは中高年である。前剣で引き返す登山者もいる。登りの難所は「カニのタテバエ」で、 「登り始めたら最後一生引き返せない」し、下りの難所は「カニのヨコバエ」で「落ちたら終わり」というスリリングな岩場がある。 絶壁から「ヨコバイ」の足場に移る最初の一歩は勇気が必要で、岩がぬれていると尚更その一歩が踏み出せない。 ほぼ直角の難所が繰り返しあり、備え付けのボルトと鎖を頼っての登攀が続く。剣山荘や剣沢小屋から往復約6時間かかり、 そのうち3時間は緊張の連続で、ほぼ垂直を数十メートル以上登らなければならない。登ろうと思ったことがあるが、 勇気がない。






(写真1)


写真1は爺ヶ岳、



(写真2)





写真2は岩沢小屋岳から撮った剣である(41才時)。種池山荘が見え、左から長次郎谷、 三ノ窓雪渓、小窓雪渓が見え、それらの間に聳えるのがチンネである。






(写真3)







写真3は蓮華岳のコマクサ群生地の上に聳える剣である。

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6.4、富士山登頂の小話


明治維新後、北海道開拓使長官黒田清隆の発案で、女子が教育をうけ日本の基礎をつくることを目的に、5人の少女が米国に留学した。 黒田は後日内閣総理大臣になったが、若い妻を撲殺したという噂があった人物である。5人のうちの一人が津田梅子(1864-1929)で、 7才で米国に留学し、11年後18才で帰国し、日本語は話せなかった。留学した男性はそれなりの位置を得て、 日本の近代化に活躍することができたが、梅子や捨松(後日大山巌と結婚)らは、明治政府からなんの指示もなく苦しんでいた。 日本がまだ貧乏であった明治初頭時代で、貴重な国費を使って、国のために何かをしなければならないという義務感を強くもち、 御恩に報いるためには何をすればよいのか分からなかったのである。そこで彼女は女性ための教育の場を作り、女性の生活向上を考え、 女子英学塾(津田熟大学)の設立に奔走した。米国人からの寄付金によって小さな女子専門学校ができ、多数の学生を育て、 留学生を米国へ送った。帰国後の1883年夏、米国の友人と一緒に1週間かけて富士登山をした。キイチゴ、サクラ、シダの話、 歩く時ブランデーを飲んで力をつけたこと、砂スベリに難渋したこと、凍るような寒さの中粗末な小屋に寝た。大庭皆子「津田梅子」に詳しい。 立原正秋(1926-80)は「富士山」の中で、「富士山は最近まで煙を上げていた。金塊集、古今和歌集に歌われている。煙を上げた富士を多くの人達は想像出来ないようだ。頂上に立つと、大きな噴火口が口を開け、荒々しいらしい。遠くから覗く富士は穏やかである。 いまだに登ったことがない。遠望する山と思っている」と書いた。太宰治(1909-48)は津軽の人で、山梨県の御坂峠の茶店に泊ま込み、 富士を眺めて過ごし、「富嶽百景」を書いたが、富士を好かず軽蔑し「風呂屋のペンキ画」と述べた。 故郷の岩木山(津軽富士)が一番だったようだ。多くの画家は約85度位の鋭角に富士を描き、北斎はなんと30度位に描いているが、 実測すると117度から124度で角度に差がありすぎると述べている。井上靖(1907-91)は、伊豆の山村で毎日のように富士を見て育ち、 1日が終わろうとする暮れ方の富士が好きだった。葛飾北斎(1760-1849)は三ツ峠山に登り、赤富士を描いた。新田次郎(1912-80)は、 富士をテーマに「芙蓉の人、怒る富士、富士山頂、富士に死ぬ」を書いた。 御殿場に住む知人は、富士が見えて幸せだとよくいう。富士山は誰でも知っているランドマークマウンテンで、 関東平野からは冬の日没前によく見え、里山に登り、尾根や峠にでた時、富士に出合うと感動するのである。 富士山には約20万人の登山者が7月と8月の2ヶ月間にやってくる。カメラマンは冬の田貫湖と山中湖でダイヤモンド富士を撮る。 田貫湖からは山頂より登る太陽、山中湖からは日が沈む太陽をねらい、前後20日間の撮影が可能である。湖面にも倒影して見え、 その形がダイヤモンドの結晶に見えるのだろう。私は北アルプスの白馬・燕・常念・北穂、南アルプスの北・農鳥・アサヨ峰、奥秩父の甲武信・雲取から富士を遠望することが出来たが、まだ富士に登ったことがない。




(写真1






写真1は中央線沿線の石老山を経由し大明神山展望台から、



(写真2)







写真2は陣馬山から、



(写真3)







写真3は筑波山中腹、



(写真4)







写真4は故郷栃木県・小山市の思川にかかる観晃橋から、



(写真5)







写真5は小山城山公園から、 2007-09年に撮ったものである。

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6.5、視覚の小話

 

物自体に色はない。眼は物を直接見ているのではなく、物を照らしている光の反射する波長を見ている。短い波長は青、中くらいは緑、長いのは赤で、色(光)の三原色という。網膜にある視細胞には、明るい時働く錐(すい)体と、暗い時働く桿(かん)体がある(写真1)。


(写真1)






錐体は青、緑、赤の3種類あり、光の波長を見分ける光センサーの役目をしている。光を感知する遺伝子はX染色体上にあり、X染色体を一本しか持たない男性には色覚異常が多い。錐体があるのは猿と人間だけで、霊長類以外の多くの哺乳動物では1種類の錐体しかないので、犬や猫は限りなくモノトーンに近い世界を見ている。その代わりにかん体が多く、暗闇でも目が見える。これから述べる眼が不自由な人の話は、勇気と元気を与えてくれる。
 瞽女(ごぜ)は、目が見えない女性で、三味線をひきながら歌をうたい、全国を歩き回った。幼女の頃から親と離れ、親方と師弟関係を持ち、厳しい修行に耐え不屈の精神で、瞽女歌を歌い続けた。味わった苦労は想像を超えている。会津や米沢などの養蚕の盛んな国では、瞽女が触った桑の葉を蚕が食べるとよく育つといわれ、瞽女の三味線を聞かせるとよく糸を出すといわれた。瞽女を神の使いと考え大切にしていたのである。魚沼地方では、苗代の種まきの頃、瞽女が唄うと種もみがよく育つといわれた。病人に瞽女の歌を聴かせると治ると信じられていた地方もあり、庶民信仰の対象となっていた。シャーマン的な性格を帯び、巫女的な役割を果たしながら、一生旅を続けた。「風景に色があり、四季に臭いがあるが、朝も昼も夜もつながり、隙間がなく、隙間が恐い」といった。いつも「瞽女と鶏は死ぬまで唄わねばなんね」と教わった。鋼の女・最後の長岡瞽女・小林ハル(1900-2005) (下重暁子著)に詳しい。105才の長寿を全うした人間国宝である。瞽女の歴史は平安時代までさかのぼり、ピンクの花をつける「ショウジョウバカマ」は「瞽女花」ともいう。
瞽女の壮絶な生き様を取材し、絵と文で表したのが斎藤真一(1922-94)で、1970年代に瞽女ブームがおこった。瞽女を、素朴な生身の人間味と、画面に広がる赤を基調とした色彩の豊かさと、単純化された超自然的に描き、強いインパクトを与えた。「瞽女・盲目の旅芸人」は日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。写真2は斎藤が描いた瞽女の絵「初旅」で、山形県天童市出羽桜美術館分館斎藤真一心の美術館に展示されている。  箏曲(琴のための楽曲)者である宮城道雄(1894-1956)は、8才で失明した。「春の海」は瀬戸内海の景色だそうだ。幼い記憶とみんなの話に、自分でつかまえた風や潮騒を重ね、変化に富んだ琴と尺八の二重奏を創ったのである。昭和の初め、35才だった。


(写真2)











 「楽障クラブ」という団体がある。視覚障害を乗り越え、御嶽、白馬、富士という3000m級の山に登り、フルマラソンにチャレンジしている。2007年、NHK歳末・海外助け合いの義援金が、「楽障クラブ」に贈られ、バスをチャーターし、谷川岳に登った。5時間かかった。登山道で木の実に触れ、頂上で風を感じたという。登山の様子が放映され勇気と感動をもらった。
 尾張名古屋は昔から医学が盛んであった。特に馬島流眼科は14世紀(室町時代、足利義満の時代)からはじまり、長く現在まで続いた。17世紀、後水尾天皇の白内障を治した。作家曾野綾子は、馬島流眼科医の子孫で白内障手術の権威である馬島教授(藤田保健衛生大学眼科)に、眼を治してもらい、「生まれてはじめて裸眼で星を見ることが出来た」と「贈られた眼の記録」の中に書いている。本居宣長の長子春庭は30才で馬島流の子孫に治療してもらったが、失明してしまった。失明してから動詞の4段活用を発明し、国文法の基礎をつくった。本居春庭については「やちまた」に詳しい。
 塙 保己一(1746-1821、写真3)は江戸時代、「群書類従」を編纂した盲目の大学者であった。埼玉県の農家にうまれ、7才で失明した。話を聞くこと、本を読んでもらうことを楽しみにし、一度聞けば忘れない優れた頭脳を持っていた。



(写真3)






当時、盲人は按摩や音曲で身を立てた。保己一は不器用であったが、師匠が愛情深い人で温かく見守られ、学問好きなことを理解してくれた。按摩をやりつつ、人に書物を読んでもらい、34才の時「群書類従」の編纂を決意した。多くの書物を集め分類した叢書は今までになかった。38年後の72才の時、空前絶後の超人的事業の完成をみた。正編530巻を完成させた。厖大な書物を人に読んでもらい、精魂をこめて聞き覚えるのである。並はずれた集中力と根気を要した。何か世のためになる仕事がしたいとの熱願に燃え、比類なき大事業をやり遂げたのである。元気の出る話である。彼を研究する「温故学会」がある。

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6.6、聴覚の小話


 

音は空気の振動でつくられる。音の振動を外耳の耳介で拾い、鼓膜が大きな音は大きく、小さな音は小刻みに振動させ、中耳の3つの耳小骨に伝える。耳小骨で増幅した振動を、内耳のカタツムリの形をした蝸牛に伝える。蝸牛(渦巻き管)はリンパ液で満たされ、音を識別する感覚細胞が入っている。このリンパ液の揺れで感覚細胞が刺激され、神経を通って脳へ音が伝達される。有毛細胞(聴細胞、写真1)が感覚細胞で、ストマイ難聴、ディスコ難聴、ウォークマン・ヘッドホーン難聴は、この有毛細胞が破壊され脱落して起こる病気である。ヘッドホーンで1、2時間聞いたら、少なくとも30分間以上耳を休ませる必要がある。ヘッドホーンから漏れ出てくる音は周囲の人達にとっては騒音で、気になるものである。



(写真1)






 ヘレン・ケラー(1880-1964)は、1880年米国南部で生まれ、熱病のために視力と聴力が失われた。静寂と暗闇の世界の住人だった。海水浴へ行った時、かたことでどもる様な話が出来た時、難解なパズルを組み立てながらものを書いた時、普通の人が眼と耳を通してえられる本(知識)を読んだ時、強烈な喜びを得た。ヘレンはとびぬけた秀才で英語、フランス語、ドイツ語に堪能で、ラテン語とギリシャ語を読みこなせた。アニー・サリバン(1866-1936, 通称サリバン先生)は、5才の時トラコーマを患って目が見えなくなりうつ病で苦しんだ。サリバン先生は電話機を発明したベルと出会い、あの有名な美談を作り上げた。ベル(1847-1922)は、電話の発明だけでなく、発生生理学を学び、視話法を教え、聴覚障害児の教育(聾者教育)に貢献した。「奇跡の人」とはサリバン先生のことで、ベルの助言があって、ヘレンの家庭教師になった話が本当に美しい。
 ベートーベン(1770-1827)が難聴になり、次第に聴覚が失われた原因は「耳硬化症」である。耳にある小さな耳小骨のひとつアブミ骨の働きが悪くなる病気が、耳硬化症である。大酒飲みの父と、信心深くやさしい母から、ボンの屋根裏部屋で生まれた。26才頃から耳が悪くなり、激しい下痢に悩まされた。頑固な性格、耳の病気から起こる絶望感、深い苦悩があり、32才で、有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」を書き、短期間ではあるが苦悩から解放され、33才から39才にわたりすばらしい作品(交響曲3番英雄・4番・5番運命・6番田園)を創った。聴覚障害という難病を克服し、真の芸術家としての境地に達した。「エロイカ」は、音楽家にとって一番大切な聴覚を奪われることから生じる絶望感を克服して、生命を肯定し、自己との戦いに勝ち、天職をつらぬいた後に完成したものである。40才の頃再び、万人が感じる不安な精神状態になった。家庭の幸福と愛情に恵まれず、一生伴侶を持たず、さびしい独身生活をおくった。一生を人間の尊厳の確立と、芸術の創造のために捧げたのである。56才でなくなり、生前からの希望でデスマスクをとり、病理解剖が行われた。諸井三郎「ベートーベン」に詳しい。
名指揮者トスカニーニ(1867-1957)は、ベートーベンを最高の作曲家と評し、彼以上には到底なれないと考え、やむなく指揮者となったと語った。写真2は、茨城県小美玉市玉里運動公園の東にある耳の病を治してくれるという「耳守神社」である。



(写真2)






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6.7、嗅覚の話


視覚と聴覚はそれぞれ、光と波長という物理的物質を認識し、脳へ伝える。それらに関わる遺伝子はそれぞれ3個と5個ある。一方、嗅覚は化学物質を認識し、嗅覚に関わる遺伝子は500-700個と他の感覚と比べて多い。嗅覚に関するノーベル賞受賞者は極めて少なく、嗅覚はほとんど学問として分かっていない。視覚と聴覚は単位があるが、嗅覚は基準値がない。もっとも謎に包まれた人間の感覚である。 生物の誕生と継代維持にとって、身を守るための嗅覚は大切な感覚である。毒物かどうか判定するためである。人間は文明の発達と、脳の発達と共に、毒物に対する知識と経験が蓄えられたため、逆に嗅覚は退化してしまった。鼻の奥上部にある嗅覚器は切手1枚分の大きさで、ここに多くの嗅細胞(写真1)があり、空気に混じったにおいの化学物質を感知する。



(写真1)






嗅細胞はショウノウ・ジャコウ・芳香・ハッカ・エーテル・刺激臭・腐敗臭の7つの原臭を感じる。またニオイを、バラの香り、プリンのカラメル、汗臭、ももの香り、糞便(ジャスミンのニオイ)、化粧品のムスクの香り、病院石炭臭、樟脳臭、ニンニク臭、酢臭と10に分類する研究者もいる。数10万種類のにおいがある。人は約500万個の嗅細胞があり、3000から1万種類のにおいを識別できる。ニオイ受容体(レセプター)は約350-1000種あり、1個の嗅細胞は1種類のレセプターしか持たない。味覚が鈍い人より嗅覚が鈍い人の方が「味オンチ」で、病態は深刻である。嗅覚からの情報がないと、情報をうまく統括できなくなり、味が大脳に伝わらなくなってしまうからである。「味気のない人生」よりも「ニオイのない人生」の方が色あせた人生なのである。
魚類は鼻と口のまわりのひげと側線に嗅覚器がある。サケが3-4年かけて海を回遊し、産卵のため自分が生まれた川へ戻ってくることができるのは、非常に鋭い嗅覚があるからである。嗅覚細胞が体表面にあるので、川の水の中にとけこんでいる僅かのアミノ酸のニオイを記憶しているのである。ウミガメやウナギも、ニオイを記憶し生まれ故郷に帰ってくる。 フェロモンは、生き物が自ら作り外へ分泌する物で、自分と同じ生き物に対し生理状態や行動の変化を引き起こす物質である。一般のにおい物質と区別されている。フェロモンは1959年独のブーテナント(1903-95、ノーベル化学賞受賞)が、メスの蛾の尾部からオスを誘引する物質を抽出し、化学構造を明らかにしたのが始まりで、これが「性フェロモン」である。オスを誘引するメスの生理活性物質をフェロモンと定義した。フェロモンはギリシャ語のフェライン(運ぶ)とホルマン(刺激する)からつくられた造語である。性フェロモンの他に、いろいろなフェロモンがある。ミツバチと魚のカマスは「警告フェロモン」を出し、敵が来る、逃げろ、攻撃しろと仲間に警告する。アリは「追跡(道しるべ)フェロモン」を出し、甘い場所への道しるべを仲間に教え、集団の移動や帰巣を引き起こすのである。ゴキブリは糞から「集合フェロモン」をだし、仲間を引き寄せる。1匹のゴキブリがいればその背後に100匹のゴキブリがいる。さらに交尾や越冬のために仲間を呼び寄せる。 性フェロモンはその種が子孫を残し、存続するために大切な物で、あらゆるフェロモンの中でもっとも強力な物である。メスが交尾の準備が出来たことをオスに知らせるために分泌する。人間にも性的なニオイがある。排卵日前後に多く分泌される発情ホルモンのエストロゲンである。この時期の女性は独特のニオイを放つらしい。ワキガも性フェロモンである。ヒトの精子に鼻にあるような「ニオイ受容体」がある。精子は「花の香り」の香料に使われるニオイ物質に最も強く反応した。精子は、卵子が出す「花の香り」の性ホルモンに向かって迷わず泳いでゆくのかもしれない。
トリュフを探しているブタはみなメスブタである。オスブタが分泌している男性ホルモンは弱いジャコウ臭を呈し、このにおいが高級食材のトリュフのにおい成分と同じであることを利用したのである。故に、草の下のトリュフを探し当てているのは、みなメスブタである。  犬は約2億個の嗅細胞がある。がん探知犬である「マリーン」は、患者の呼気でがんのニオイをかぎ当てて有名になった。その科学的解明が待たれるところである。病理診断医にとって、腫瘍か炎症による反応か、腫瘍なら悪性か良性かそれとも悪性良性境界病変かの判定は、大変難しい。がん探知犬は病理医を越えるのであろうか。



(写真2)






 「ニオイをかげば病気がわかる」「環境を感じる生物センサーの進化」に詳しい。写真2は埼玉県春日部市牛島のフジで、花房は2mにもなる。

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6.8、味覚の話


 味覚は嗅覚と同じく化学物質を認識し、脳へ伝える。味を感じる器官が味蕾で、「つぼみ」の形をしていて、舌の乳頭と乳頭のすきまに約5000個ある(写真1)。



(写真1)






ナマズは体表面だけでも17万個以上の味蕾があり、味覚が特殊に分化し、発達した魚である。「動く舌」(moving tongue)と呼ばれている。体表面に多数の味蕾があると、川や沼の中でわずかのアミノ酸を探知するのに有利である。ひとつの味蕾には30から70個の味細胞が集合し、味蕾の先端に小さな穴があいて、口腔内の唾液と接触し、味の情報を受け取っている。味物質が味細胞に触れると味細胞に化学変化が起こり、味蕾の根元にある味覚神経を刺激させて、味の情報を脳に伝える。味細胞には組織学的にI型からIV型の4つに分けられているが、それぞれが味覚受容体をもっているのかどうか分かっていない。味細胞の寿命は短く、10日くらいで、周囲の上皮細胞が分化して味蕾に入ってくる。基本の味覚は5つあり、甘味(ブドウ糖と果糖でエネルギー源)、塩味(塩化ナトリウムで体液のイオン源)、酸味(腐敗物源)、苦味(毒物源)、うま味(アミノ酸でタンパク質源)である。酸味と苦味は体に腐敗物や毒物の危険を知らせる信号の役割を担っている。味の仲間に、辛味、コク、渋味がある。辛口のビールの味は、すっきり飲みやすく、水っぽくなく飲みごたえがあるというイメージがある。
 うま味は、1908年池田菊苗(1864-1936、写真2)が、昆布のだし汁からうま味成分であるグルタミン酸を発見し、うま味と名付けた。商品名が「味の素」で、日本の10大発見のひとつである。池田の弟子である小玉新太郎は1913年、かつお節のうまみ成分であるイノシン酸を抽出し、1957年国中 明は干し椎茸からうま味成分のグアニン酸を発見した。



(写真2)






味には相互作用がある。スイカやお汁粉に塩をかけると、甘味が増す現象を対比効果という。逆に酢に塩を少し入れると酸味が少しマイルドになるが、これを抑制効果という。料理人の隠し味が他にもあるのだろう。
 ワインのソムリエ、コーヒーの味を評価するカッパー、酒の杜氏と利き酒師、料理人、栄養士は、味に対し鋭い感覚をもった職人である。味の達人は、耳を手術する時、術者の先生と十二分に相談する必要がある。一時であれ味覚障害を起こす可能性があるからである。
 酵素学と発酵学は我が国の得意分野である。酵素はいろいろな反応を触媒するタンパク質で、触媒とは自分自身は変化せずに化学反応を大きく促進物質である。酵素はおおよそ2500種類ある。酒の起源は、サルが木の実をかんで岩のくぼみに蓄えたのが自然発酵して猿酒になったものとされていた。また、酒の起源は数千年前小アジアで作り始めたワインである。ブドウの果汁をほうっておくと、酒酵母が自然に増殖して果汁の中のグルコースをエタノールに変化させ、二酸化炭素がでる。これがアルコール発酵である。ビールとワインは数千年前から醸造され、中国では四千数百年前に米から酒が造られていた。日本酒、ビール、ワインは醸造酒、それらを蒸留し度数を上げたのが、焼酎、ウオッカ、ブランデーである。それぞれ甘口と辛口がある。ひたちなか磯崎の酒列磯前神社の祭神は、医薬の神と、酒を造る醸造の神である。社殿の向拝に左甚五郎の彫刻「リスとブドウ」があり、リスが好物の酒を造っているのである。
登山家冠松次郎は75才の時「酒もほろよいきげんにしておくことだ。人間は生まれるときに酒だるをかついでくるという。私の酒樽ももう残り少なくなったのでたくさん飲めなくなったのかもしれない」とエッセイで述べている。私の酒樽はどのくらい残っているのか心配になる。日本酒では2合、ビールでは大瓶2本、ウイスキーだと水割り4杯がほろ酔い加減の目安である。注意しよう。
 おいしいカニの味はアミノ酸(グリシン、アラニン、アルギニン)、うま味物質(グルタミン酸、イノシン酸)と食塩からなっている。だし昆布、煮干し、干し椎茸、鰹節が「だし」の素材に使われる。乾燥すると素材が持っていた酵素の働きでタンパク質がうま味の元であるアミノ酸に分解されるからである。長期間の保存が可能になるだけでなく、うま味が凝縮されるのである。肉は屠畜後低温で貯蔵し熟成させて食肉になる。熟成中にタンパク質分解酵素が働き、タンパク質が分解されて、アミノ酸とくにうま味成分のグルタミン酸に変化する。肉は屠畜後食べても酸っぱくて渋味があり、美味しくない。鶏で半日、豚で2〜5日、牛で10日頃が、ちょうど良い食べ頃である。同じく、刺身の食べ頃も締めてから数時間から1日が食べ頃で、「活け造り」は美味しい食べ方ではないようである。
 味覚異常の原因のひとつに、亜鉛の欠乏がある。味覚異常を来すいろいろな病気があり、副作用として味覚異常を来しやすい薬物が多数あるので気をつけよう。「味のなんでも小辞典」に詳しい。

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6.9、触覚の話


 皮膚の表皮の中にあるメルケル細胞と、表皮直下の真皮上層部にあるマイスナー小体が、触覚に関わっている(写真1)。




(写真1)






特に口唇に多く分布し、毛根部や外陰部にも多い。
らいは結核よりはるかに感染力が弱く、健康な成人には感染しないし、感染してもすべてが発病するわけではない。らいの3大受難のひとつに失明がある。さらに知覚と運動の神経障害を引き起こし、全身の感覚は麻痺する。舌は最後まで感覚を残し、舌で点字を読むけいこをする。国立多摩全生園の敷地内に、国立ハンセン病資料館がある。見学を勧める。
点字を英語でbrailleといい、開発者の名前をそのままあてている。フランス人ブライユ(1809-1852)は3才の時、馬具職人だった父親の工房にあった錐で片目を誤って突いてしまい、傷ついた眼は感染し、他眼も侵され失明してしまった。10才でパリ国立盲学校に入学、盲人が読み書きできる触読様文字のアイデアを抱いた。軍隊が情報を伝達するために使っていた12点字式のものを、1825年に縦3行横2列の6つの凸点でアルファベットを表記する方法を完成した。左上から縦に123,右上から456と番号が振られ、1だけならa、12ならb、14ならcとなる。
 このブライユの点字を日本の仮名文字に変換転用したのが、東京盲唖学校教師の石川倉次(1859-1944)だった。仮名文字研究会の小西信八からブライユ文字を日本文字に発展させるよう依頼された。1から6のドットを配列する組み合わせは63通りあり、アルファベット26文字には十分であった。しかし仮名文字だけでも100を越える日本語を6点で表すことは不可能だった。石川は8文字点字を考案したが、小西は国際性を考え6点にこだわった。前置付加点方式(清音文字の前に濁点符を置く方法)を考えた。1890年11月1日採択され、その日が日本点字制定の日となった。石川は「点字器」「点字ライター」も開発した。写真2は点字の記念切手である。




(写真2)






 パソコンで文章を点訳することは出来たが、図や絵の点訳は長年出来なかった。藤野稔寛(としひろ、1952-)は、1990年に徳島県立盲学校に勤務してから、図形点訳ソフト「エーデル」を開発し続け、2008年完成した。エーデルは「絵が出る」から由来した。18年間で手掛けた改良は100以上に及び、功績が認められて、2009年「ヘレンケラー・サリバン賞」を受賞した。パソコンの画面上に描いた図が、点字と同じように盛り上がった点となり、「点図」となって印刷される。誰でもダウンロードして使えるように、ソフトはネットで無償提供している。ある全盲の母親は「幼い子供が読んでいる絵本の世界を一緒に理解することが出来ました」と述べている。視覚障害者に図の感覚を提供した元気ある仕事人である。ソフトは世界中で利用されるようになった。
 昭和54年度の一年間福島県立盲学校で病理学の講義をした。同じ文章をゆっくりと3回繰り返しながら、大きな字で黒板に書いて授業を行った。学生8名は激しい音を立てながら点字を打ち、その点字を打つ迫力に圧倒されてしまった。30年前の話である。関西在住の教え子と年賀状の交換が今でも続いている。

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6.10、続・聴覚の話 (エコロケーション)


空気を振動させながら伝わる音を音波という。人間の耳は1秒間に20から1万8千回振動する音波を聞き取ることが出来るが、コウモリの出す音は1秒間に3万から5万回振動するので人の耳では聞こえない。超音波という。1938年、超音波を出し、物にあたってはね返ってくるこだまを耳で聞き分け、まわりの様子を感じ取るシステムが発見された。音響探知といい、魚群探知機やレーダーも同じ原理である。自ら音を出し、反響音を利用し、自分の位置や獲物の位置を見定める。エコーは反響・山彦・反射音、ロケーションは位置・場所の発見の意味で、反響定位と訳され、コウモリは夜間、イルカは水中で、エコロケーションを獲得した。
コウモリはエコーの周波数の差を検出することで、獲物までの距離、獲物の大きさと速度、獲物が向かってくるのか遠ざかるのかを知り、それらを聞き比べることで情報を交換しあい、「夜の空の狩人」といわれている。コウモリは超音波で自分の子供を認識でき、母と子の会話も超音波で行い、目をふさがれても暗闇の中を飛ぶことが出来る。コウモリは声で物を「見ている」のである。2m先にいる1cmの昆虫を正確に発見できる。超音波を使う理由は、@自然界で音による干渉を抑え、A空気中で減衰が大きく遠くまで届かず、獲物に接近でき、B小さな昆虫を探知でき、波長と同じ大きさの動物をつかまえられる。
コウモリは夜の空で行動することにより、競争相手が少ない空に進出したことで繁栄し、種類が多くなった。イソップ物語では、コウモリを裏切り者・卑怯者のたとえになっているが、我が国ではコウモリを蝙蝠と書き、「蝠」の字が「福」に通ずることから縁起の良い動物とされている。写真1は長崎カステラ本家「福砂屋」のロゴマークで、東京駅一番街で売っている。



(写真1)







エコロケーションと関係ないが、コウモリは不思議な生態をもっている。コウモリは暗い洞窟の中に太陽のエネルギーを運ぶ使者でもあり、コウモリの糞が洞窟で生活している他の動物にとって大切な食料となる。消化されない昆虫の羽や足を餌にするのである。コウモリは哺乳動物であるのに冬眠する。コウモリは秋に交尾しメスの体内に入った精子(未熟精子)はそのまま春まで生き続け、春になってやっと卵とむすびつき受精する(成熟精子)。ほ乳類としては珍しい受精の仕方である。
イルカは海から陸へあがり、再び海へ戻ったほ乳類で、聴覚動物である。水中での光の透過性は良くなく、情報伝達手段としては効果的でない。水中における音の伝達速度が毎秒約1500メートル(空気中の5倍)に達し、しかも遠く(空気中の1万倍)まで届く。海の中では「一見」よりも「百聞」の方が勝っているのである。
イルカは、「クリック音」と「ホイッスル音」を出す。「クリック音」は「ギリギリ、ブチブチ」という音で、対象物の大きさ、距離、形、材質の違いを認識する音である。「ホイッスル音」は「ピーピー」という音で互いに交信し、えさ場や天敵を仲間に知らせる音である。物体に向かって発せられ、ぶつかってはね返ってくる反響音を聞き取って物体の位置を探り、餌や仲間の位置を探知している。イルカに声帯はなく、おでこの鼻道にある気のうから音が出る。外耳道は耳垢でふさがっているので、反射してきた音は下顎骨にある脂肪層を通って鼓膜を振動させ、中耳・内耳へ届いている。
イルカのエコロケーションのしくみは、@鼻の奥をふるわせて音を出す。Aひたいで音の方向をひとつにまとめて発射する。B何かにぶつかってはねかえってきた音があごの骨を通って耳に伝わる。C音の情報が脳に入り、物の形や大きさが分かる。イルカが超音波ビーム(クリック音)を一気にトビウオにあびせると、トビウオは気絶しこれをゲットできる。イルカが自閉症、脳性小児マヒとうつ病の治療に使われ、この治療は動物介在療法のひとつでイルカテラピーという。科学的証明は難しい。脳のシワは人より多い。半球睡眠を行い、脳半球が片方ずつ眠る特技を持っている。写真2は帝人のロゴマークであるが、意味は不明である。



(写真2)









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7.1、山と秘湯・北海道


1971年(22才)8月初旬、札幌で開かれた卓球大会に参加、団体戦は今年も1回戦で負けた。学生周遊券で札幌から夜行列車で層雲峡へ、ロープウエイとリフトを乗り継ぎ、黒岳五合目から一時間で黒岳1,984mに着いた。黒い岩と土の色、草原、点在する残雪が調和していた。避難小屋(黒岳石室)から最高峰旭岳2,290mに登り、勇駒別温泉(現旭岳温泉)や天人峡温泉へ縦走ができる。翌日阿寒湖西岸の阿寒湖峠から、活火山の雌阿寒岳に登った(写真1)。頂上は白い火山灰で覆われた裸山で、大小の火口が不気味に煙を上げていた。山肌は茶、褐色、黄色、黒色の斑に見えた。オンネトーが真下に見え、直接下ったら、道が消えた。登ってきた登山路をめざし滑りながら尾根を5本越え、戻れた。迷ったらすぐに頂上に上り返すことだ。雌阿寒岳ユースホステルに泊まり、温泉で疲れをとった。



(写真1)






1980年(31才)6月、仲間と黒岳に再度登った(写真2)。


(写真2)
黒岳





1988年(39才)5月、ニセコ「国鉄山の家」を予約したが、残雪でバスは運休、麓にある湯本温泉・国民宿舎「雪秩父」に泊まり露天風呂に浸った。翌日ニセコアンヌプリへの登山路は残雪で閉ざされ、フキノトウが顔を出していた。バス道路を歩き、雪を抱く山々を展望し日焼けした。ニセコアンヌプリ(写真3)、チセヌプリ、イワオヌプリは小さな山で、暖かくなるとハイカーで賑わうのだろう。二股駅へ向かう車窓から、均整のとれた羊蹄山(写真4)がどっしりと見えた。


(写真3)
ニセコアンヌプリ








(写真4)
羊蹄山




独立峰なので熊はいないらしい。迎えの専用バスは生活必需品の仕入れで商店に立ち寄った。二股ラジウム温泉は湯治場で、リウマチで足が変形している人と痩せて顔色の悪い人が多かった。夕食時に熱燗を2本頼んだら、冷たい目で見られた。天然記念物「石灰華ドーム」は温泉成分が沈着して出来上がった。一度温泉が止まる危機があった。叔母ちゃん達に「いいおけつだね」と誉められ、風呂から逃げでた。相部屋の人は話をしなかった。翌日駒ガ岳の頂上は雲がかかり、大沼公園に寄らず函館に直行、恵山岬までのバスは2時間30分かかった。冷たい雨が降り、つつじはまだ早く、恵山登山はあきらめた。水無海浜温泉は海岸にある露天風呂で、国民宿舎「恵山荘」に泊まった。底から温泉が出るが、冷たい海水が湯船に入り、それでも湯?に入る人がいた。ここから眺める日の出・日の入りは格別だろう。湯船で転び浴衣の裾を濡らした。汽車で青函トンネルを渡り、弘前駅から夜行バスで品川に帰った。 1991年(41才)5月、旭川から無料バスで天人峡温泉(旧松山温泉)まで60分。羽衣の滝は見事で、夏はライトアップされる。「ホテル敷島荘」に泊まり、翌日往復1時間半かけ滝見台へ、残雪を抱く旭岳(写真5)と羽衣の滝が素晴らしかった。誰にも出会わなかった。


(写真5)
旭岳





無料バスで旭岳温泉へ行ったが、リフトが点検中で、姿見ノ池へは行けなかった。山麓駅のまわりに水芭蕉が咲いていた。テレビドラマと夏の裸踊りで有名な上富良野駅で降りたが観光客はいなかった。バスで十勝岳温泉まで45分、「凌雲閣1,280m」宿泊。宿の主人が「資金と暇が出来ると親父と温泉探しにきた。苦労の連続だった。自衛隊隊員に風呂を提供したら道を作ってくれた。二人の娘さんが3代目だ」と自慢げに話した。温泉になる条件は「高温の湯が地表近くから持続的に噴出すること」と話はつきない。「モーターとパイプが何度も腐り、パイプが詰まり、3回のボーリングを行った。もう1度ボーリングしなければならない」と愚痴をこぼしていた。「温泉の権利を売ってくれ」と言われているが断っている。露天風呂からの展望が宿の売りで、中央に上ホロカメットク山と安政火口(写真6)、右に八つ手岩、化物岩と三峰山1866m、富良野岳1912m、左に三段山が見える。反対側に、富良野市街方向を眺める露天風呂を造る計画だ。下をヌッカクシフラヌイ川が流れている。30才代の美女が露天風呂に入ってきてびっくり。混浴に慣れているようだ。翌日吹上温泉まで車で送って貰い、望岳台を経て白金温泉まで約1時間半歩き、十勝連峰(写真7)を見渡した。左から美瑛岳、美瑛富士、オプタシケ山、十勝岳、富良野岳と続く。白金温泉で風呂を浴び、飲んだビールは旨かった。



(写真6)
安政火口










(写真7)
十勝連峰





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7.2、山と秘湯とこけし・青森


1991年(42才)夏、5家族合計20名で団体旅行を行った。娘4才。十和田温泉焼山部落の温泉民宿「南部屋」を起点にした。元湯、谷地、猿倉、酸ヶ湯、蔦温泉に浸かった。翌日快晴、八甲田山系の1,478m小岳と睡蓮沼をバックに記念写真(写真1)。昭和43年に完成した八甲田ロープウエイに乗ると、10分で山頂到着、20分歩くと田茂萢(たもやち)岳湿原1,324mに着いた。池溏が点在。赤倉岳1,548mが聳え、大岳1,585mと高田大岳1,552mは確認できなかった。大岳に登り、酸ヶ湯温泉へ下るルートがある。翌日、焼山から石ゲ戸までバスで入り、奥入瀬渓流を10km2万歩3時間歩いた。一面の深緑の絨毯、渓流に接してある遊歩道、1年中水位が変わらない渓流、感動した。阿修羅ノ流れ、白布、雲井、双竜ノ滝を通り、銚子大滝の前で記念写真。十和田湖で遊覧船に乗り、子供達の笑顔がよかった。



(写真1)





1997年(48才) 8月、娘10才。17:00水戸出発、20:30須賀川IC、23:20前沢SAで仮眠、2時岩手山SAで仮眠、6時出発。八甲田は風雨強く登山を断念。8:10青森IC、9:00縄文大遺跡の三内丸山着。6本の栗の柱をもつ大型堀立柱建物(木柱の直径2m)、縦32m横9mの大型竪穴住居、土瓶状の子供の墓、道を挟んで2列に並んだ大人の墓があった。縄文尺は4.2m。5,500年前から4,000年前まで1,500年間続いた。なぜ捨てたのか。棟方志功記念館へ。目が不自由でぶ厚い眼鏡をかけ、版木に額を擦るようにして版木を彫り、「釈迦十大弟子」を1週間で完成させた。ねぶたの里で「青森の巨大な武者人形型ねぶた」と「弘前の行燈型ねぷた」のショーを見物し、参加した。七夕様の灯篭流しの変形である。1台が7x5m, 4トン, 1〜2千万円で、1台に3,000人の跳人(ハネト)がラッセラー、ラッセラーと叫んで踊る。八甲田山系に入るとガス、雨となり、「3日間雨にたたられ、ロープウエイは運行中止、酸ヶ湯温泉から登り、全身ずぶぬれ、青森のコインランドリーで服を洗った」と登山者談。国道394号に入り、城ヶ倉温泉をへて、津軽こけし館着。笹森惇一が実演をしていた。10年前に5段の雛こけしを作って貰った(写真2)。




(写真2)





岩木山の嶽温泉(ペンション・ワンダーランド)に浸かり、ビールと冷酒を飲み、娘と将棋遊びをしながら寝てしまった。翌日、嶽農場前バス停にある今 晃こけし工人宅を訪問。1984年〜86年東京西部新宿線下井草の「おおきこけし屋」で、沢山の今こけしを買った(温湯型・津軽型こけし、写真3)。お茶を頂き立ち話、赤いほっぺのこけしを3本買った。岩木山(写真4)が顔を出したので岩木スカイライン(1,780円)で8合目1,247mへ、リフト410円で9合目へ。天気が急変、髪から水の滴が落ち、眼鏡はくもった。10:35登山開始、35分で岩木山1,625m頂上へ、ガスで真っ白。12:07、8合目着。13:30暗門の滝入り口着。探勝中止し14:00出発。白神ラインは、普通車では無理で、約50kmを3時間以上かかるといわれ、回り道をとった。本多勝一氏らの「白神山地の環境を守る運動」の成果であろう。




(写真3)










(写真4)





嶽温泉に戻り鯵ヶ沢から国道101号線へ入り、五能線(五所ガ原・能代間)と併走してドライブ、右に日本海、左に白神山地を見ながら快適だった。千畳敷海岸は絶景。17:20岩城村森山海岸沿いトロン温泉「森山荘」着。さざえのにがい内臓ときんめの煮魚が美味しかった。翌日、10:00十二湖リフレッシュ村着。越口の池からブナ原生林をへて、青池と鶏頭場の池を見た。登山口から3時間かかる大崩展望台、大崩山への往復は中止した。展望台から33池の内12池が見え、十二湖という。12:30、能代で101号線から国道7号線に入り、大館から県道を回り国道341号線へ。銭川、トロコ温泉を左折、八幡平アスピーテライン(27km, 走行無料)を走り、16:10、山頂遊歩道を登って15分で八幡平1,614m到着(写真5)。八幡沼、淡緑色の絨毯、濃緑色のトド松の群生が、評判通りだった。南に頂上と山麓が雲に覆われた大きな岩手山が見えた。藤七温泉から松川温泉への尾根歩きが魅力ある。松尾八幡平ICから泉IC、48号線で20:30ホテルキャッスルプラザ多賀城着。翌日、仙台「国際ゆめ交流博覧会」を見学。仙台東道路から仙台南IC、須賀川ICで高速を降り、10:15水戸に帰還。



(写真5)





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7.3、山と秘湯とこけし・秋田


1972年(23才)8月、学生最後の卓球大会が岩手で行われ、団体戦1回戦の突破はならなかった。バスで盛岡からユースホステル(八幡平か安比高原)に着き、近くの雫石に飛行機が落ちた事を知った。八幡平を歩き、後生掛温泉から焼山1,366mを登り玉川温泉へ下りた。大学付属診療所が併設し、温泉物療内科があった。オンドル小屋 (湯治宿, 500円)は、真中の通路を挟んで約30人が湯治し、ござが土の上に敷いてあるだけで、じいさんは尺八を、婆あさんは三味線を引き、民謡を唄っていた。床が熱く、脱水状態で、ビールが旨かった。田沢湖に着いた時は所持金が2,500円、旅館に頼みこんだが断わられ、キャンプ場泊(50円)。寝袋ひとつ大きな松の木の下から見上げると夜空が美しかった。夜露で顔がびっしょり濡れ、目が醒め、周遊券で小山へ帰った。 2001年(52才)6月春、秋田へ。茨城の常陸太田城主佐竹義宣が関が原の後秋田に転封され築いた久保田城と、平野政吉美術館の藤田嗣司「秋田の行事」を見た。翌日9:00バスで田沢湖へ。30年ぶりの田沢湖キャンプ場の松は太く、洗面所がきれいになっていた。バスで乳頭温泉「鶴の湯」入り口下車。新奥の細道5kmを歩いた。鶴の湯は殿様の湯治場で、家来が泊まった本陣が残っていた。蟹場温泉を経由し孫六温泉(写真1)へ。藁屋根で湯治宿の雰囲気が残っていた(9,000円)。翌日7:30孫六登山口から入り、視野は悪いが静かな山行きだった。登山路には雪が残り、8:30田代平着、山荘前に池塘が霧の中に横たわっていた(写真2)。9:00乳頭山(烏帽子岳, 1478m)到着。風が強い。南斜面は絶壁で崩壊がすすんでいた(写真3)。一本松登山路を降り黒湯温泉に下山し、黒湯の混浴露天風呂で若い女性が湯に浸かっていた。12:30バスで田代湖駅へ、18:45赤塚着。写真4は小椋正吾のこけし (小椋石蔵型復元こけし、木地山系)である。



(写真1)
孫六温泉










(写真2)










(写真3)









(写真4)






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7.4、山と秘湯とこけし・岩手


1979年(30才)8月末、早池峰の麓・河原坊の民宿に泊まり、翌日おにぎりの弁当を持って出発、コメガモリ沢を登った。頂上まで1から100まで番号がつけられていた。ハヤチネウスユキソウはなく、ガスで山全体が分からなかった。南の薬師岳から早池峰を仰ぎたい。下山は小田越に下り河原坊に戻ったら、アマチュアカメラマンが多数いた。米穀地帯の秋田県、凶作の岩手県の小話があるが、詳しいことは知らない。国見温泉「森山荘」泊。翌朝1時間登ると秋田駒の尾根に出た。空は真っ青、台風の通過直後で風が強く音も凄かった。低木地帯は歩けたが、頂上は裸の山で思うように歩けず、手を地に付き四つんばいで歩いた。顔は風下を向けないと息が苦しく、台風は恐ろしいと思った。突然、強い風をまともに受け、左のメガネのレンズとタオルと周遊券を飛ばしてしまった。レンズは岩に当たって割れた。数ヶ月前、福島市の一杯飲み屋で食事中、左のレンズが突然外れて、飲んでいた味噌汁の中に音を立て、しぶきが目の中に入った。レンズを箸ですくったら、レンズの周りはゴミと油で真っ黒、味噌汁を飲まなかったら、店の親父がどうしたと話しかけてきた。ねじが緩んでいたのだ。横岳1,583m、男岳1,632m、女目岳1,637m(写真1)は小さく丸い山で、阿弥陀池の岸辺の山小屋で、若者が寝ていた。昨日は凄い風だったと話していた。コマクサはなかった。左右の焦点が合わず、左目が疲れ、涙が出て、下りの距離感がつかめず、しまつが悪かった。志賀高原スキー場への夜行バスの中でも、レンズを割ってしまったことがあり、眼鏡には泣かされる。千沼ガ原、乳頭山への縦走路の展望は良かったが時間無く下山。盛岡へ出て南部系こけし(キナキナこけし、松田精一・弘次)を買ったが、盛岡駅のプラットホームに忘れてしまった。



(写真1)






1983年(34歳)秋、千葉から東京へ、新幹線で福島へ。弟の車で早池峰部落へ。麓の珍奇なホテル泊。ガスっていた。早池峰頂上(写真2)は山岳宗教のメッカで、盾と矛が並んでいた(写真3)。カレーライスをつくって食べた。国見温泉泊、秋田駒から美しい池溏が点在する千沼ガ原へ(写真4)。ここでのお茶タイムは楽しかった。車のため名湯・乳頭温泉郷へ行かなかった。



(写真2)
早池峰頂上








(写真3)








(写真4)
千沼ガ原



列車が遅れ、福島駅の待合室で数時間まち、早朝小山駅に着き車で千葉へ、一日中頭がボーとしていた。写真5は小林善作のこけし(肘折系、岩手和賀湯本温泉)である。 2010年(61才)5月、娘23才。東北の桜名所(北上展勝地、十和田市官庁街、角館桧木内川と武家屋敷)巡りをした。途中、小岩井農場から一本桜と大きな岩手山(岩手富士)が見えた(写真6)。



(写真5)











(写真6)








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7.5、山と秘湯とこけし・宮城


1990年(41才)6月初旬。山形蔵王の地蔵山頂までのロープウエイが運休で、中央ロープウエイで鳥兜まで上がり(9:30)、紅葉峠をとおってパラダイスロッジ、樹氷の家まで10分。リフトの真下を登って地蔵山(1,736m)山頂に10:15到着。高さ3m石地蔵を拝んだ。よく整地された山道を踏みしめ、ワサ小屋跡を経て、楽に熊野岳(1,840m)頂上に到着。尾根に大正7年10月23日に遭難した旧制仙台二中の学生さんの遭難碑があった。今でも追悼登山が行われていると、遠刈田系こけし工人<佐藤守正さん>談。11:10分馬の背に出て、気持ちのよい尾根を歩き、突然目の前に御釜が現れ、非常に感動した(写真1)。鳥海山、出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)、雪を被った朝日、飯豊連峰は霞んでいた。11:35刈田岳到着。背の低い山桜が咲いていた。750円のラーメンと球コンニャクを食べたが、下の刈田岳駐車場では同じラーメンが490円で、大変損した。 1998年(49才)5月連休、娘11才。18:45水戸出発、23:10白石こけしコンクール会場着。43名の愛好家が並んでいた。記念品(けん玉、うーめん、さつきの苗木)を戴いた。小倉篤志こけし(大野栄治型)をかい、青根温泉「ハピーフォート」へ。翌日秋保工芸の里で、娘が木でウサギの壁掛けをつくり、秋保大滝の滝壺を往復、植物園を見学した。東北自動車道を若柳金成ICでおり、16:30駒ノ湯温泉「くりこま荘」着。イノシシ鍋(マタギ鍋)、鹿刺し、イワナの活造りと田楽を食べ、温泉に浸った。翌朝露天風呂に入り、8:20出発し、栗駒山登山口・いわかがみ平の中央コースから9:07登山開始、快晴。遊歩道が整備され、4カ所の残雪を踏みしめ登った。娘がぐずりだし、頂上まであと20分の所から、一人登山となった。時々オペラグラスで下を覗いたが娘は動かなかった。10:23頂上着(1628m、写真2)。真西にコニーデ型の鳥海山(写真3)、南西になだらかな月山、北に昨夏雨に濡れながら登った岩木山、八幡平から山半分しか望めなかった岩手山、手前に焼石と眺望は良かった。厳美渓、ガラス工房、毛越寺、中尊寺を見学。17:00出発。23:00走行距離1,000km。写真4は佐藤丑蔵こけし(遠刈田系)、写真5は大沼健三郎こけし(鳴子系)である。



(写真1)
御釜









(写真2)
栗駒山







(写真3)
鳥海山







(写真4)
佐藤丑蔵こけし(遠刈田系)








(写真5)
大沼健三郎こけし(鳴子系)




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7.6、山と秘湯とこけし・山形


1981年(32才)夏、5名で福島を出発、飯豊温泉「飯豊山荘」泊。翌朝温身平でおにぎりを食べ、カイラギ沢(梅花皮沢)を3時間歩くと、日本三大雪渓(白馬の大雪渓と針ノ木雪渓)の石コロビ沢大雪渓(写真1)が始まる。



(写真1)
石コロビ沢大雪渓




アイゼンはなかった。傾斜がゆるやかだったが、徐々にきつくなり、踏み跡の歩幅が合わなくなった。雪の斜面をつま先でキックするも足場ができず、リーダーがステップを切ってくれた。休憩までの間隔が短くなり、煙草を吸うと元気が出るが、疲れが増した。回復は錯覚で、以後禁煙を志した。転んだら下まで滑り落ちそうで、体力と神経が疲れた。
登山路は雪が厚い幅三分の一の所にあり、落石が集中した。腹筋背筋が疲れ、重心を前に置くのがきつくなった。雪渓から草付きへの移行は、斜度が急で、草にしがみつき、草の上にへたりこむと、十文字鞍部にカイラギ小屋が見えた。 2階に陣取り、凍らせて運んだ鶏肉入りのカレーがうまかった。翌日霧雨、花が点在する尾根歩きは気持ちがよかった(写真2)。



(写真2)
花が点在する尾根歩き




与四太郎ノ池、烏帽子岳(2,017m)、亮平ノ池、御手洗池、天狗の庭を歩き、御西小屋到着。飯豊本山は霧の中。カイラギ小屋に戻り、北股岳(2,024m)、門内岳(1,887m)までは快適だったが、梶川尾根に入ると足は踊り、手を使っての下山になった。のどが渇き仲間の水を戴き、荷物の一部を分担してもらい、さらに看護婦さんの荷物と交代した。梶川尾根で野宿かと思った。10時間以上歩いて、自動車がある登山口に辿り着いた。醜態だった。顔は脂ぎり、目が奇に座り、頬は痩けた。真っ暗闇の中、飛び込みで国民宿舎梅花皮荘に宿泊できた。ビールを飲んだが尿が出なかった。
1983年(34才)夏、弟と朝日連峰を歩いた。メニューは、全てじゃが芋、18kgのリュックが重かった。芋にあき、餅、焼き海苔、お新香、味噌汁、ぞうすい、梅干し、ラッキョウ、山海漬け、ふりかけが恋しくなった。
早朝車で山形駅へ、バスで落合部落下車、鶴岡からのバスに乗り換え大鳥部落へ。雨が降り続き、「朝日屋」泊。壁にイワナやヤマメの魚拓が貼ってあった。翌日も雨、翌々日出発。豪雨で橋が落ち、トラックから降ろされ、泡滝ダムまで長く歩くことになった。靴を履いたまま川を渡り、靴の中の水で歩きにくくなった。ダムから3時間で大鳥池(963m)に着いた。最後の登りはきつかった。巨大イワナ「タキタロウ」が棲んでいるというが、誰も見たことがない。30分歩いて三角池へ、黄色の花(写真3)が可憐だった。



(写真3)
三角池の黄色の花




高校生が岩魚を釣り、夕食のおかずにしていた。じゃがいもカレーが旨かった。夕方になると、水面より約10m以上を、霧が覆い、霧と水面の間が神秘的となった(写真4)。



(写真4)
霧が覆い、霧と水面の間が神秘的となった




翌日青空、三角峰、ウツボ峰へのコースを登り、以東小屋で水を補給、昼食をとった。南から立教大学ワンゲル部が大声をあげて登ってきて、リュックを降ろさず、手を膝について喘ぎ、リーダーの掛け声で、十数回深呼吸し、下山して行った。以東岳から狐穴小屋迄の尾根歩きは気持ち良く、ヒメサユリとニッコウキスゲが咲いていた(写真5)。



(写真5)
ヒメサユリとニッコウキスゲ




尾根での昼寝が最高だろう。狐穴小屋に着くと霧が出てきた。じゃが芋を炒めけんちん汁を作ったが、不味く、缶詰の汁を混ぜたら最悪になった。翌朝風雨が激しく、タオルが吹き飛ばされた。寒江山の斜面にウスユキソウが咲いていた。竜門小屋で休憩し「やけくそ」で歩き、名水「金玉水」を飲んだが元気が出なかった。大朝日小屋に入り餅を焼き海苔を巻いてたべたら、身体が暖かくなった。女子大ワンゲル部のテントが壊れ、部員は雨に打たれながら外で頑張っていたが、管理人の説得ですごすごと小屋に入ってきた。
全身がずぶ濡れで震えが止まらず、下着が透け気の毒だった。暖かい食べ物と山小屋はありがたい。大朝日岳は霧の中、下山開始。イワカガミの群生が可愛かった。古寺鉱泉「朝陽館」(写真6)に着くと晴れた。スイカを食べ、湯に浸った。



(写真6)
古寺鉱泉「朝陽館」





直通電話がなく、伝言で無事下山した事を家族に知らせた。 写真7は佐藤文吉のこけし(遠刈田系、山形及位・天童)である。




(写真7)
佐藤文吉のこけし





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7.7、山と秘湯とこけし・福島1・中通り吾妻山系


1974年(25歳)10月、二本松市の「ちょうちん祭り」を見た。山車が、心棒を高く伸ばし、高く提灯がともされ、傾斜した直線道路に並んだ景観は壮観だった。友人宅に招待され、13から15才の子供が犠牲となった『二本松少年隊』の話を聞いた。3時間の睡眠で翌日磐梯山へ。バスで桧原湖へ(写真1)、モーターボートで対岸に渡り、歩き始めると、二日酔いと脱水で冷汗が出た。



(写真1)
桧原湖





雄国沼を通り、猫魔ケ岳に登り、中ノ湯温泉に下った。自炊部は今年限りで廃館になる。自炊者が板を剥して煮炊きするようで、柱が傾き、羽目板と床板に隙間があった。カレーがグツグツと煮え、御飯もプツプツと音をたてた。厚着をし、酒を飲んで寝たが、すきま風が冷たく眠れなかった。翌朝は雑炊を食べ、磐梯山(1,818m)に登り(写真2)、猪苗代スキー場に下山。。



(写真2)
磐梯山











雷とひょうに見舞われた。現在、中ノ湯温泉は休館中で、旅館は痛んでいた。荒川洋一が猪苗代湖の西田面でこけしをつくっている(写真3、土湯系中の沢亜系・通称たこ坊主)。


(写真3)
通称たこ坊主






1978年(29才)夏、福島駅前からバスで、吾妻スカイラインの不動沢入り口で下車。だらだらした登山路歩きが気持ちいい。慶応大学避難小屋の前を通り、家形山との分岐点を左に曲がり、五色沼のほとりに遭難慰霊碑があった。一切経山(吾妻山、1,949m)の頂上から、スカイラインの向こうに、吾妻小富士(1,705m)と桶沼(写真4)がみえた。



(写真4)
吾妻小富士と桶沼





南に下ると鎌沼。岸辺に小さな酸ガ平小屋で、子供連れの家族が弁当を広げていた。東吾妻(1,975m)、東大巓(1,928m)、西吾妻(2,035m)、西大巓(1,928m)への縦走路があり、微温湯(昭和54年泊)、五色(最古のスキー場)、滑川、姥湯(昭和46年学生寮の旅行泊)、大平、新高湯(昭和61年6月泊)、白布温泉(1993年2月スキー旅行泊)がある。 1978年(29才)10月、塩沢渓谷の登山道は、落葉が約10aの厚さで積もり、落葉を踏むと心地よい音がした。黄赤色の斜面、登山道の上に厚く重なった落葉、沢の上に垂れ下がった色づいた木が、薄暗い空間の中で鮮やかに映えていた(写真5)。



(写真5)
塩沢渓谷の登山道





天狗岩で小休止し、くろがね小屋で食事を作った。安達太良山(1,700m)頂上手前から天気が悪くなり、霧雨と風が冷たく、震えた。写真6は岳温泉の大内一家の今朝吉、一次、慎二のこけし(土湯系)である。1981年5月(32才)、安達太良山(写真7)の山開きは雪が多かった。



(写真6)
今朝吉、一次、慎二のこけし








(写真7)
安達太良山





2006年(57才)晩秋、朝霧の中福島を出発、土湯峠から塩沢へ。9:30登山開始、1時間で屏風岩、紅葉は終わっていた。11:30くろがね小屋着、馬の背を歩く登山客が見えた。小屋休憩料200円、風呂400円、カップヌードル300円。風呂は硫黄泉、やさしいお湯だった。地元のヒトと話が弾んだ。ホルモン焼きや「鳥政」で祝杯。翌日朝霧の中出発。土湯に入ると快晴になりスカイライン(1,570円)に入る。10:00浄土平駐車場(410円)着、姥ヶ原までは霜柱が融けた泥道を登った。45分で鎌沼、左から前大巓、一切経山、蓬莱山をバックに鎌沼、南は東吾妻、西に谷地平、北に一切経山がある。鎌沼自然探勝路は2時間、真東に吾妻小富士と桶沼が見える。吾妻高湯温泉にある清水屋で自家製豆腐、ところてん、小麦まんじゅうを食べ、共同風呂(250円)で汗を流したが、硫黄ガスで気分が悪くなった。娘のアパートで豚肉鍋を食べて祝杯。 2007年(58才)11月、11:20くろがね小屋、風が強く、馬の背に出ると吹き飛ばされそうだった。雨具を着て、フードを付け頂上を目指した。薄緑色の沼ノ平(写真8)は不気味だった。12:30安達太良山頂、16:00下山。数年前毒ガスで登山者がやられ通行止めとなり、登山路は尾根伝いだけとなった。写真9は阿部勝英のこけし(土湯系・阿部分家・下の松屋)である。


(写真8)
薄緑色の沼ノ平












(写真9)
阿部勝英のこけし





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7.8、山と秘湯とこけし・福島2・浜道り阿武隈山系


2008年5月6日、10:28霊山登山口スタート(写真1)、10:45宝寿台、11:18護摩壇、11:25霊山城址、11:44「霊山」東物見岩(825m)頂上。説明文「南北朝時代、北畠顕家が霊山城を築き、義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて北朝に抗したが1347年落城、寺院仏閣すべてが灰燼に帰した」があった。同年9月6日、10:10川俣町「花塚の里」登山口スタート、姥神様の石像を通り、11:07花塚山(918m)頂上着、11:13下山開始、護摩壇岩からの眺望が良く、小さな部落が点在して見えた。12:00下山。同年11月2日、5人で、須賀川市と小野町の間にある蓬田岳(952m)を登り、帰りに福島市の小倉寺大蔵寺の大きな秘仏を拝んだ。例祭で豚汁をごちそうになった。




(写真1)
霊山登山





2009年6月20日、常葉の鎌倉岳(967m)に登った。同年11月21日、常磐道いわき中央ICを出る。10:35登山開始、11:45月山、12:03二ッ箭山(710m)頂上で昼食、頂上は狭かった。12:25女体山頂上、男体山の左を巻いた。約20mと約30mの岩壁(写真2)が続き太い綱を頼りに下山、杖が邪魔で苦戦。中間点で数人だけが休める狭い岩場があって、眺望が眺められたが、余裕はなかった。どこまでも続く岩壁のようで緊張した。12:58岸壁を下った。登る方が楽のようだ。時々事故があるようだ。13:55登山口着。翌22日、10:00出発、11:20田沢登山口を出発、12:05日山(天王山、1058m、写真3)頂上着。日山が富士山の見える北限地で、証拠写真が休憩所にあった。茂原登山口へ下り、田沢登山口へ。翌23日、14:00出発、14:45半田山公園センター着(福島県桑折町)。半田沼を周遊した。800年代に半田銀山があったところで、銀採掘の坑道が陥没し、山が変形し、改修して半田山自然公園として生まれ変わった。初冬の風景であった。




(写真2)
岩壁











(写真3)
日山





2010年6月5日、8:55水戸出発、10:33高柴山登山口、11:00高柴山(884m)頂上、一面ドウダンツツジ(ヤマツツジ)が満開だった。小振りで可憐なツツジで、九州のミヤマキリシマに似ていた。2-3mの高さのツツジが頂上全体を覆っていた。展望台からのツツジの眺めは見事だった(写真4)。花の管理が十分行き届いた山だった。11:30下山。連続して12:50高塚山登山口出発(大滝根山の南東)、ドウダン林は紅、桃、白のツツジが咲いていた。高塚山(1,066m)をへて13:23ペラペラ石到着。360度の展望を味わった。川俣方面に出て、木幡山神社「三重の塔」見学。



(写真4)
展望台からのツツジ





石段を登るのがきつかった。饅頭屋でおしんこ饅頭、栗、黒糖饅頭を買って食べ、素朴で美味しかった。17:30磐梯熱海温泉「緑風苑」着。5名で寂しかったが、楽しい「酒酔会」が出来た。翌日土湯こけし館見学。12:45女神山登山口出発、13:15女神山(599m)頂上着。岩にしめ飾りが張られ、鉾が供えられていた。14:00下山。地元のご夫婦と団らん。15:00花見山へ、30数年ぶりで懐かしかった。変貌していた。21:30水戸着。 写真5は稲毛 豊のこけし(土湯系鯖湖亜型・山根屋、飯坂温泉)である。写真6は福島川俣の佐久間虎吉のこけし(土湯系・稲荷屋)である。写真7は斉藤一家:佐藤正一、斉藤弘道のこけし(土湯系・西屋)である。



(写真5)
稲毛 豊のこけし









(写真6)
福島川俣の佐久間虎吉のこけし








(写真7)
斉藤一家:佐藤正一、斉藤弘道のこけし





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7.9、山と秘湯・尾瀬


1973(24才)年6月、病理学教室の仲間と尾瀬へ行き、夜行バスの警笛で起こされた。沼山峠駐車場にテントを張っていたのだった。尾瀬沼、尾瀬ヶ原を通り山の鼻キャンプ場へ。隣のテントが突然爆発し炎上した。イワナが群がり、から揚げにしたらおいしいだろう。同僚が20kgのガスボンベを背負い、滑って湿地に落ち、身体がドロだらけになった。二日酔いで下痢と冷汗で苦しみ、雉打ちをしていたら、上から石が降ってきた。三条の滝への下降時、石段の段差が高く、横長リュックが石段に引っかかり、足をばたつかせた。湯の上温泉で露天風呂に入り、福島に帰った。 1980年(31才)9月、千葉稲毛から総武線、浅草から東武電車、バスを乗り換え桧枝岐に着いた。福島からの2人はそれぞれの車を運転し、民宿で合流。桧枝岐温泉の共同風呂で先輩と会った。体型は随分変わっていたが、かすれた声はそのままだった。小さな体育館で隣合わせにクラブ活動を行い、学生寮近くの一杯飲み屋「一柳」で、コップ酒をご馳走になったことがある。翌日、桧枝岐村滝沢橋登山口から入り、約3時間で池の平に着いた。池の平は池塘のある湿原で、会津駒ヶ岳(2,132m、写真1)があり、駒ノ小屋が建っていた。数年後全焼し村人の努力で新しい小屋ができた。池の濁った水で食事を作った。




(写真1)
会津駒ヶ岳









富士見林道を下り大津岐峠をへて、キリンテでバスに乗った。翌日、沼山峠休憩所に車を1台置き、御池登山口(1,500m)から登った。広沢田代、熊沢田代をへて、最後の30分間の急登はきつかった。道に迷いブッシュの中をさまよい体力を消耗した。燧ガ岳(2,346m)頂上から会津駒、尾瀬沼、尾瀬ガ原が眺めた。靴が合わず沼尻へ降りると足が痛くなった。沼尻休憩所で蕎麦を食べ、沼山峠から羽鳥湖へ、白河駅まで送ってもらい千葉へ帰った。 1990年(41才)夏、娘3才年少さん。5家族での団体旅行。高杖原高原民宿(5,200円)に泊まり、広場で地元住民とラジオ体操をした。湯の花温泉から村道田代山線で猿倉登山口(約40分、14.4km)へ。悪路だった。小田代湿原(写真2)まで登り、子供たちが疲れ田代山(1,926m)登頂を断念。娘(約13kg)を前向きで背負って下山したところ、娘が元気なくなったことに先輩の奥さんが気づき、大声で名前を叫び、娘を揺すり大事にならずに助かった。




(写真2)
小田代湿原



下山中に胸が圧迫されたのだろう。後向きに背負って下山。湯の花温泉、帝釈山(2,060m)を経て木賊温泉への登山路がある。木賊温泉の露天風呂(100円)は、西根川に面し、清流を眺め、川のせせらぎを聞きながら湯に入った。翌日車で御池へ、沼山峠まで専用バス。大江湿原を経て1時間で尾瀬沼に到着。長蔵小屋の前でカレーライスを作った。冷たい水で米をとぎ、野菜を細切りにし、20人分のカレーライスを作った。カレーがグツグツ音を立て、においが香ばしく、米がプツプツと弾けた。回りの登山者は羨やましそうで視線が痛かった。尾瀬沼に映る燧岳(2,360m、写真3)を見ながらのカレー体験は忘れないだろう。民宿脇で米沢牛バーベキュー。ビールは冷える事なく腹の中へと消え、鶴岡名産「ダダチャ豆」はビールに最高。 2006年(57才)夏、水戸から国道400号線をへて、8:30御池着(駐車料1,000円)。シャトルバス(530円)で沼山峠へ。大江湿原は黄色のニッコウキスゲが満開だった(写真3)。10:00尾瀬沼着。燧は大きかった(写真4)。


(写真3)
燧岳









(写真4)
ニッコウキスゲが満開だった





沼尻休憩所までの湿原は白いワタスゲ一色だった。11:00沼尻休憩所着。パンとポタージュスープで昼食。白砂峠を経て12:50見晴(下田代十字路)着。弥四郎小屋前庭でオニオンスープを飲み、小熊に出会い14:50山の鼻着。国民宿舎尾瀬ロッジは食事(野菜コロッケと魚フライ)がまずく、山菜やお新香はしょっぱかった(8,500円)。翌日7:00出発。森林限界を超えた頃から晴れ、尾瀬ヶ原が雲の間に見えた(写真5)。燧山頂は雲の中。至仏への直登はきつかった。9:25至仏頂上着、スープとゼリーを食べ、ナデシコ(写真6)を撮った。



(写真5)
尾瀬ヶ原が雲の間から








(写真6)
ナデシコ



12:20山の鼻へ下山。15:10檜枝岐小屋着(8,500円)。生ビール(800円)で乾杯。五目飯が付き、そばのおかわりがあった。翌日8:07三条の滝着。りっぱな見晴台ができていた。天神・西・横・上・御池田代はワタスゲ(写真7)が雨に湿っていた。11:00頃御池着。桧枝岐温泉共同浴場で風呂に入り、民宿「山びこ荘」で檜枝岐そばを食べた。


(写真7)
ワタスゲ(






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7.10、山と秘湯・栃木


11989年(40才)10月、千葉稲毛―浅草―東武日光―霧降の滝―大笹牧場―八丁ノ湯―手白沢温泉へ。庭で焼鳥とローストビーフを肴に酒を飲んだ。非常に寒かった。料理のうまさ、手際よさに感心した。星を見ながら露天風呂に入り、同僚は温泉の温度、PH、電解質を測定していた。翌日オロオソロシの滝が遠くに見えた。鬼怒沼は台地に点在する多数の小さな沼で、一面が草紅葉だった(写真1)。西に燧岳の頂上が見え、約7時間で尾瀬に行ける。日光沢、加仁湯に入湯。女夫淵から奥鬼怒、尾瀬が原への縦貫道路が出来ないことを祈る。



(写真1)
一面が草紅葉だった



1992年(43才)8月、娘年長さんで始めての山行き。北温泉の玄関へ入ると、真っ暗で神棚が廊下にあり、燈明が光り、娘は怖がって離れなかった。浮き袋を使って温泉プールで遊んだ。旅館全体がかび臭く家族には不評だった。直径1mの大天狗が下がっている天狗の湯と、目の湯と、湯滝に入湯した。秘湯。茶臼岳(1917m、写真2)のガレ場で尻餅をついた。



(写真2)
茶臼岳



1996年(47才)夏、小山−栃木−鹿沼−例幣使街道−杉並木−いろは坂−中禅寺湖経由−6:35菅(すげ)沼登山口−8:30弥陀ガ池へ。京葉高校320名の学校登山隊にぶつかる。女子学生が「超こわい」とうるさく、混み合っている岩場で「写真をせがむ」子、若い先生は「つっかえてるから、くっちゃべってないで動きなさい」と怒鳴っていた。73歳のおばあちゃんが杖を突いて、声を張り上げて登ってきて、「60歳から登山を始め、飯豊にも登った」と自慢していた。9:40奥白根山登頂(2,578m、写真3)。



(写真3)
奥白根山登頂



西の上州の山と尾瀬は霞んでいた。頂上は広く生徒達が弁当を開いて楽しそうだ。イナリ寿司、ミカンの缶詰、チョコレートを食べ、「○は」ソーセージが旨かった。周囲に池が点在し、外輪山を持つ大きな山だった。11:05五色沼避難小屋、五色沼から弥陀ガ沼、13:10菅沼着。シラネアオイは鹿に食べられ激減し、電流が流れる電線で保護されていた。直径約4cmの青いシラネアオイが斜面に這いつく様に咲いていた。金精峠近くの金精神社で立派な「金精様」を拝んだ。日光湯元温泉休暇村の硫黄泉に入湯。小山市花火大会とアトランタオリンピック女子マラソンの日だった。 1996年夏、小山発、6:30銀山平キャンプ場、7:35一の鳥居着。丁目が彫られた石碑が114丁目まで続いた。庚申講が盛況だった江戸時代の物である。1丁目は何メートルか知らない。8:50二の鳥居、庚申山荘着(写真4)。



(写真4)
庚申山荘



山荘はきれいで、寝具が借りられ、神社があった。一の門と大胎内は奇岩が多く、鎖と鉄梯子があるスリル満点で、修験者達が作ったのだろう。妙義山に似ていた。滝沢馬琴作「南総里見八犬伝」の中で、犬飼現八の山猫退治の場でもある。10:10庚申山(1,901m)頂上へ。イナリ寿司、モモ缶、ソーセージが旨かった。見渡しが悪く、皇海山(2,144m)は見えなかった。10:55下山開始、11:50山荘、13:50銀山平着。口で絵と文章を書いた星野富弘の美術館を見学。満員。 庚申待(講)は民間信仰で、庚申(かのえさる)にあたる夜、念仏や物語などをして夜をあかす、信仰・娯楽の行事である。 2002年(53才)6月、水戸出発。三本松をへて志津登山口に着くと大真名子山へ行くパーテーにであった。9:50出発、風が強く東斜面からガスが強く動いた。11:00男体山(2,484m)到着。強い風で雲が払われ視界が広がった。日光白根山、太郎山、大真名子山、奥に尾瀬の至仏、燧、南下に中禅寺湖が見えた。湯元温泉に入った。赤池口から無公害バスに乗り千手ガ浜でクリンソウ群生地へ(写真5)。赤桃色の可愛い小さな花だった



(写真5)
クリンソウ群生地



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8.1、伝統こけしの話


陀羅尼経が納められた三重小塔(百万塔、高さ13.5cm、直径10.5cm)が現在法隆寺に残っている。印刷されたお経は世界最古のものである。木地師が考謙天皇の勅命をうけ、764年から770年の6年間に小塔100万基を作り、奈良10大寺に10万基づつ寄進した。ろくろ技術は1200年前から二人挽きとして発達し、技術は高かったのである。
木地師は琵琶湖東岸の山中で活動し、15から16世紀頃、全国の山々へ移り、ろくろ師、ひきもの師と呼ばれ、椀や盆やろうそく立てや神器や仏具(白木もの)を作り、山から山へと材料を求め渡り歩いた特異集団だった。江戸時代後半になると山から里へと定着した。木地師は生涯転々と移住する人が多く、「渡り木地師」と呼ばれ、いろいろなところに出かけ、多くの弟子を作り各地で影響を与えた。文化文政時代(1804-30年)、農閑期に湯治を行う習俗ができた。天保年間(1830-44年)、白木ものや日常用雑器のほかに染料を使ったこまなどの玩具(赤物)を作るようになった。東北に移動してきた木地屋のうち湯治場に定着した木地屋が、こけしを作るようになった。
明治17年(1884年)頃、静岡出身の田代為次郎や伊沢為次郎が土湯に「一人挽きろくろ」を伝え、仕事の効率が上がり、電力モーターろくろへと発展した。こけしの他、こま、笛、車、籠、大砲、だるま、臼杵ね、動物、オシャブリ、エジコを作った。盆や塗り物の下地仕事の副業だった。「二人挽きろくろ」は女房が綱を取りろくろを回し、亭主がこけしを挽いた。工人がろくろの回転の軸に向かって平行した位置で挽いた。横ろくろといい、綱取りと削り手の協調が必要だった。「一人挽きろくろ」は堅ろくろといい、ろくろの回転の軸に向かって直角の位置に座って引いた。ろくろ模様と、菊や梅の花を手描きした。頭と胴のつなぎには差し込み式とはめ込み式があり、前者は頭が回らず、後者は頭が回ったりグラグラと動く。



(写真1)
こけし作り




子供のおもちゃとして発展してきたが、大正末から昭和初めにセルロイド、プラスチック、金属製のおもちゃが進出し、突然とこけしは消え。その時大人のこけし愛好家や研究者が「こけしの美」を発見し、何とか絶滅を防ぐことができ、こけしブームが幾度か繰り返した。こけしの生命は顔の表情で、目鼻が大切で、胴は顔を引き立てるためのものに過ぎない。こけしには持ち運び用こけし、雛まつりに飾った飾り用こけし、木地屋が太子堂へ奉納した奉納用こけしがある。
こけし絵つけ


(写真2)
こけし絵つけ



こけしの発生には、@ 残存説、A 固有説、B キナキナやオシャブリの玩具起源説、C 土着の信仰起源説がある。こけしの発展には@ 木地屋、A 玩具を作る技術、B 湯治湯 が必須だった。
こけし祭り


(写真3)
こけし祭り



こけしの魅力と特徴は、@ 球と円筒からなる簡単で単純な姿をしていること、A木の温もりがあることである。東北は寒冷で、東北人は粘り強い性格を持ち、東北の農民は信仰を持っている。湯治湯の風習があり、田植えや養蚕の後、秋の取り入れや収穫の後、鍋釜、米、みそ、夜具をもって、温泉へ行き、自炊をして疲れを癒す風習があった。孫の土産は決まってこけしや駒などの玩具であった。こけしの手足はなく、着物や座布団を着せて遊ぶ子供の玩具だった。子供や孫の成長を祈って、厄よけの人形としてこけしを求め、こけしは姉から妹へ、その子たちへと受け継がれ、手垢で黒光りすると薪になり、古いこけしは残っていないのである。  こけし3大発生地は、吾妻山脈の麓の土湯温泉、蔵王山脈の遠刈田温泉、栗駒山の鳴子温泉である。 こけし群像


(写真4)
こけし群像







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8.2、土湯こけしの話


1580年蒲生氏郷が会津へ転封した時、木地屋が近江から一緒にきた。土湯の人たちに木地業を教え、盃、桑椀、高坏など白引き木地を作った。 土湯こけしの創始者は佐久間亀五郎で、文政10年(1827年)、伊勢参りと金毘羅参りに行き、上方の木地を参考にしたと伝えられている。明治維新の40年前のことである。息子弥七が首の回るこけしを作ったと言われている。2人のこけしは確認されていない。孫の浅之助のこけしが最古のこけしとして残っている。 土湯こけし 陣野原幸紀


(写真1)
土湯こけし 陣野原幸紀




 土湯こけしの特徴は、@ 頭は小さく胴が細い、A 頭は胴にはめ込み首が回り、B目は二重まぶたで眼点を入れ鼻は丸鼻、C 胴は中央がやや膨らんだエンタシスと三角胴、D 頭頂は小さな黒い蛇の目模様、E 前髪とびんの間に渦巻状の簡単な「かせ」という赤い模様かざりをいれ、F 胴はろくろ線の組み合わせの線模様で、「返しろくろ」を考案した。女児のままごとの道具で無事成長したら焚き木にされ古い時期のこけしは残っていない。
木地業が盛んになったのは、湯治客がいたこと、養蚕業が盛んになり機織り用の木管(糸を巻きつける棒)の受注が多くなったことがある。土湯温泉と機織りが盛んな川俣との結びつきが強くなった。湯治は労働力の再生、身体の回復の意味があり、五穀豊穣と結びついている。湊屋系列は一族の浅之助・由吉・粂松・七郎・米吉・虎吉・芳衛親子がこけしを作ったが、事業に失敗し、天災にあい、土湯を離れ福島や川俣へ移った。
土湯こけし2


(写真2)
土湯こけし2




渡辺和夫(二代目浅之助)が湊屋のこけしの復元を行った。粂松こけしは陳野原和紀・幸紀兄弟が復元した。一族に渡辺作蔵、西山弁之助・勝次、斉藤太治郎がいた。松屋系列には阿部治助、西山徳二、阿部金蔵・広史がいた。明治末から大正初めのこけしが残っている。浅之助のこけしは目の描き方に特徴があり、「ねむり猫」と言われた。太治郎はきれいなこけしを作り評判がよかった。一方、治助のこけしは地味なこけしで評判が悪かったが、再評価され、土湯こけしを代表するこけしとなった。土湯こけしには治助や勝次が作る素朴で稚拙なこけしと、太治郎が作る甘美なこけしがある。治助こけしは阿部シナ、勝英とその子孫が、太治郎こけしは、正一と孫の弘道が引き継いだ。
 らっこコレクションは中井淳氏が昭和2年頃から集め始め、昭和13年以降は高久田脩司氏が引き継いだ560本の古品こけしで、三春の博物館で見ることができる。
安達太良山山麓の岳温泉で、大内今朝吉、一次、慎一3代がこけしを作り続けている。飯坂温泉では渡辺角次が木地を、妻キンが胴にろくろ線と花もようのこけしを描き、高橋忠蔵・佳隆・通3代が発展させ、稲毛豊が柔らかいタッチのこけしを見事に再現させた。
土湯こけし 3


(写真3)
土湯こけし3




温泉の鯖湖湯にちなんで、鯖湖亜系こけしと呼ばれ、下まぶたの端が上に跳ね上がった鯨目を描いた。中ノ沢亜系こけしは、岩本善吉が考案し、目が大きく目の周りとほほが赤く、胴に見事なボタンを施した独特のもので、「タコ坊主」と呼ばれた。息子芳蔵が引き継ぎ、多くの弟子を指導し発展させた。荒川洋一、三瓶春男、瀬谷重治、多数の工人がいる。

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8.3、弥治郎系こけしの話


宮城蔵王の麓・弥治郎村の近くに鎌先温泉があり、遠刈田の影響を受けた弥治郎こけしが生まれた。昭和30年頃まで、木地屋の女房が1km先の鎌先温泉の湯治部屋へこけしを売りに行った(鎌先商い)。新山栄五郎型は髷つきこけしや笠をかぶったこけしである。
弥次郎こけし1


(写真1)
弥次郎こけし1




新山3兄弟(久治、福太郎、左内)は久治型を完成させと息子久志、福雄、右京がおり、新山直系以外に小関幸雄・幸一、横山水城がいる。小倉嘉三郎は梅こけしを創作し大野栄治が発展させ、篤と篤志が引き継いだ。佐藤勘内は菊のくずし模様を考え、国分栄一が復元をした。幸太、栄治、今三郎一家がいる。胴をくびらせたり、頭の下に襟巻をつけたり、髷つきこけしなど形態と描彩に新しい工夫がなされ、多種多様のこけしが創作された。他の系統にない現象である。弥治郎こけしは決まった型がなく、形態と描彩に約束事がないので、集めるのが楽しいこけし達である。
白布高湯温泉には新山慶治・慶美・純一の3代がこけしを作り続けている。慶治と春二は幸太一族である。佐藤春二の弟子に、井上四郎・ゆき子夫婦がおり、娘のはるみが熱塩温泉の手前の塩川でこけしを作っている。

弥次郎こけし2


(写真2)
弥次郎こけし2




 豊麗な美しさのある弥治郎こけしの特徴は、@ 頭はベレー帽を、周囲に髪をはみ出し、正面に半円形の飾りを3個描き、A 上まぶただけに眼点を入れる一側眼で、鼻はばち鼻(三味線のバチ)、頬紅やえくぼをつけ、B 胴はろくろ線が基本である。ろくろ線は、土湯こけしと違って帯のように太く様々変化していった。文市は旭菊を、春二系は花や蝶やトンボを、小倉系は枝梅を描いた。ペッケと呼ばれる胴の中程をくびらせた作り付けこけしも考案した。 弥治郎こけし  小倉勝志


(写真3)
弥治郎こけし 小倉勝志




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8.4、遠刈田こけしの話


宮城県側の蔵王山麓に遠刈田温泉がある。温泉街から離れた新地部落でこけしが作られている。明治18年、東京の田代寅之助が「1人挽きろくろ」を伝えてから大量生産ができるようになった。2つの型に大別できる。一つは角頭で甘美派の直助こけし(小原直治、佐藤護、大原正吉、佐藤菊治、佐藤静助型など)と、丸頭で剛直派の松之進こけし(佐藤茂吉、円吉型こけし)が代表的である。遠刈田こけしは師匠の型を終止模倣し、変化がないのが他の系統と違うところで、伝統を守っているのである。
遠刈田・英太郎1


(写真1)
遠刈田・英太郎1




遠刈田こけしは近隣の青根、肘折、蔵王高湯、秋保、稲子へ影響を与え、それぞれの系統のこけしができた。大正10年、モーターろくろ工場が完成した。遠刈田・新地の木地屋は商人(北岡、小室)の支配下に入ったこと(仕送り制度)が遠刈田こけしの特徴で、描彩が画一的で、個性がない。大量生産のためである。
遠刈田こけし


(写真2)
遠刈田こけし




 松之進系こけしは、息子好秋、弟子我妻吉助と六郷満が引き継いだ。直助は、胴に木目もようを考案、息子秀一と孫英太郎が良いこけしを残している。佐藤吉弥型は斉藤良輔と佐藤哲郎、佐藤豊治型は三蔵、佐藤静助型は守正が、小原直治型は我妻信雄が、佐藤円吉型は大沼昇治が伝統を守った。肘折型を思い出すアルカイックスマイルのこけしを作った佐藤丑蔵は、文男、英裕、大籏英雄が引き継いだ。
遠刈田こけし・松之進系


(写真3)
遠刈田こけし・松之進系




 秋保温泉には佐藤三蔵、菅原庄七と息子敏、山尾武治が、頭頂部に七の字を模様に入れた良いこけしを作った。  遠刈田こけしの特徴は、姿態が華麗である。@ 大きい頭に大柄の紅い放射状に描いた手絡(てがら、婦人が丸まげの根本にまくかざり布)、後に放射線の中間にうねりを加え、A 三日月型の眉に眼点を入れ、B 丸鼻と割れ鼻、C抽象的な胴もようの重ね菊、D 胴の裏に枝菊、あやめ、牡丹を描き、写実的なこけし作りの伝統が守られている。重ね菊のほかに井桁、旭菊、ぼたん菊、枝梅、ちらし梅、桜くずしがある。遠刈田は華麗、弥次郎は豊麗なこけしで対照的である。

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8.5、蔵王高湯こけしの話


蔵王温泉は、蔵王山系の西中腹(920m)にある。蔵王エコーラインは西の国道13号線と東の国道4号線を結んでいる。岡崎栄治郎が作った名物こけしは、明治29年作で、雛祭りの壇に飾るために特製され、子供が遊ぶためのものでなく、どっしりとした貫禄のあるこけしである。2本が現存している。
蔵王高湯ではお雛様の雛壇にこけしを飾る風習があった。作者と年代が確認できる最古のこけしである。栄治郎は明治5年蔵王の能登屋に生まれ、16才の時青根温泉で木地の修業をし、蔵王に木地業を伝え、岡崎栄作・久太郎、斉藤松治、荒井金七を指導、その後斉藤松助・源吉が続き、岡崎直志・昭一、岡崎幾雄、田中敦夫、田中恵治、吉田昭へとつながっている。栄治郎が蔵王こけしの祖である。
蔵王高湯こけし


(写真1)
蔵王高湯こけし




岡崎長次郎型は梅木修一と娘がを引き継いでいる。阿部常松は鶴岡に移り、常吉、進矢と3代続いて目玉の大きなこけしをつくっている。  蔵王高湯こけしは遠刈田の亜流で、遠刈田こけしに似ている。明治30年以降鳴子の影響もあって胴を太くし、黄胴を作った。太い直胴に重ね菊と桜くずしやボタンを描き、目は二重まぶた、鼻は垂れ鼻、頭は赤い放射線の飾りか黒いおかっぱ頭で、伝統が確立した。

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8.6、山形作並系こけしの話


仙山線で結ばれた山形、作並、仙台にそれぞれ似たこけしがある。遠刈田の影響を受けた。頭は大きく胴は極めて細く、立ちにくくすぐ倒れてしまう。幼児が手に握って遊ぶのに便利だったのだ。 作並では、岩松旅館の木地師岩松直助が遠刈田風こけしを作り、作並こけしの祖となったが、こけしは残っていない。平賀謙蔵は、山形の小林倉吉のもとで修業し、多蔵、貞夫、貞蔵を指導した。現在平賀輝幸が活躍している。胴は横ばいのカニに似た菊もようである。
作並系こけし1


(写真1)
作並系こけし1




山形には小林倉治一族がこけしを作った。倉治は作並の直助に指導を受けたが、こけしは残っていない。子の倉吉、吉兵衛、吉太郎、吉三郎と孫清次郎のこけしが代表的で、現在阿部正義、小林清、長谷川正司が作っている。遠刈田の影響があって目上下の瞼に眼点を入れ、鼻は割れ鼻、口は紅で描き、頭部はかきあげて結んだ髪を後ろに長く垂らす。
作並系こけし2


(写真2)
作並系こけし2




仙台では高橋胞吉が、紅と墨だけで描いた独特のこけしを作り、大崎八幡の祭りの境内で売られた。鈴木清が継承し、鈴木昭二・明親子と里見正雄・正博親子が引き継いだ。

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8.7、肘折こけしの話


肘折温泉は月山の麓、最上川支流銅山川沿いにある。月山登山の肘折温泉登山口コースは最も困難なコースなので寂れてしまった。新庄市からバス1時間で、農閑期の湯治湯として栄えた。柿崎酉蔵(伝蔵か)は鳴子で木地修行を行い、明治10年に戻り、肘折木地業の祖となった。
弟子井上藤五郎は遠刈田温泉新地で修業し、明治23年足踏みろくろを持ち帰った。奥山運七は柿崎と井上の弟子になり、鳴子型と遠刈田型こけしを受け継ぎ、素朴で田舎くささが溢れるこけしを作った。初期は鳴子型で胴が太く肩が張っていたが、次第に遠刈田型が加味され肘折型こけしの完成となった。肘折の風土にあった鄙びと不思議な微笑をもったこけしであった。養子喜代治と孫庫治が引き継ぎ、現在は鈴木征一が見事に復元した。
 肘折こけし-文吉


(写真1)
肘折こけし-文吉




一方、佐藤周助は明治6年遠刈田に生まれ33年肘折に移り、赤青墨黄色の強烈な目立つ配色を考案し、三白眼という迫力のある目を描き、こけし界で際立ったこけしを作った。遠刈田の色を強くだし、存在感のある独自のこけしだである。横山政五郎、中島正、息子己之助を指導し、孫佐藤重之助もこけしを作り、現在は佐藤昭一が後を継いでいる。己之助は明治型、大正型、昭和型と時代ごとに創造してこけしを描き分けた。
 肘折こけし・己之助系


(写真2)
肘折こけし・己之助系




佐藤文六は明治35年に遠刈田から肘折へ行き、文六型を創案、真室川町及位(のぞき)へ移り、鳴子から来た鈴木庸吉と大沼新兵衛、遠刈田の鈴木幸之助と佐藤丑蔵を指導した。孫佐藤文吉が受け継いだ。こけしの中で最も強烈な印象を持ったこけしである。文六と丑蔵は肘折を去ってからも、強烈な作風は変わらなかった。丑蔵が作るこけしの顔はアルカイックスマイルと呼ばれている。アルカイックスマイルの代表は斑鳩の里にある中宮寺の国宝菩薩半跏像(伝如意輪観音)の微笑像である。
 肘折こけしは遠刈田こけしの亜流であるが、厳しい自然条件と似て、強烈かつ濃厚、鮮烈で個性が豊かなグロテスクなこけしができあがった。

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8.8、鳴子こけしの話


鳴子温泉は栗駒山麓の玉造温泉郷の中心で硫黄泉である。仙台北部の農家の人びとは農閑期に馬の背にふとんと自炊道具を積み込み、子供を乗せ、鳴子へ湯治に来た。10-20日間逗留し、こけしを土産物として買った。首を回せばキイキイ鳴るのが鳴子こけしである。回転と摩擦熱の膨張によってはめ込み、回すと鳴くのである。大正期に入って化学染料が安く入り、黄胴が生まれ紅や緑色が冴えた。木肌のよごれを隠す効果と赤と緑の色を鮮やかにみせる効果があった。しかし子供たちが「黄疸こけし」と嫌ったので、白胴に戻った一時期がある。
 鳴子こけし1


(写真1)
鳴子こけし1




1824年生まれの大沼又五郎が小田原の木地師から技術を学び、鳴子こけしを作った。温泉神社でこけしをお守りとして売った。伝又五郎のこけしが1本残っているが、現在のこけしとは違い、手の込んだもので、子供のおもちゃではなかった。又五郎には5人の弟子がいて、彼らがそれぞれ独自の鳴子こけしを作り上げた。5大亜系は、大沼系(岩蔵、甚四郎、斉型)、高亀系(雄四郎、武蔵)、高幸系(幸八、庸吉、初見)、高勘系(勘治、盛)、万五郎系(寅蔵、五平、松三郎)である。明治、大正の鳴子こけしを古鳴子といい、一筆目のクラシックな情味のものであった。
 鳴子こけし2


(写真2)
鳴子こけし2




高勘系には高橋勘治・盛・盛雄・遊佐福寿が、高亀系には高橋武蔵・正吾と息子がいる。大沼岩蔵一族には、岩蔵・甚四郎・健三郎・永吉・万之丞・こう型こけしがあり、桜井昭二、佐藤実、五十嵐勇とその家族、岡崎斉一族には、斉司、斉一がおり、津軽系の今晃は若い時斉の指導を受けた。大沼誓・力親子、岸正男・正規、秋山忠・忠市、秋山慶一郎・一雄、大沼竹雄・秀雄・秀顕、の家族がこけしを作る。新型こけしを作る石原日出男は、ろくろは回さないが、他人が引いたこけしに高橋幸八型・高橋寅蔵型・鈴木庸吉型・大沼甚四郎型を描き、筆運びの早いよい切れがあるこけしを残した。
 鳴子こけし3


(写真3)
鳴子こけし3




 鳴子こけしの特徴は、@ 頭と胴の太さは同じ、肩が盛り上がり、胴の中央部が幾分細くなっている。A 頭の首の下部に突起を作り胴にはめ込み首を回すとキイキイと鳴く。B 昔は一筆目で眼点なし、鼻は左右二筆、大正期になって眼点が入れられる。C 猫鼻、「水引手」は毛髪をかきあげ水引(糸ひも)で結んで後方にたらす。D 胴の上下に赤で太いろくろ模様を描き、胴は菊もようで、重ね菊、正面からの菱菊、風車に似た車菊、楓、牡丹、キキョウ、石竹、がある。古鳴子、黄鳴子、白鳴子に分類できる。胴もようは菊の花が基本で写実的に描かれている。優雅な趣を持ったこけしで、仙台の堤人形と張子の影響が強い。温泉神社に深沢要の「こけし歌碑」、鳴子公園に「日本こけし館」ある。
 鳴子こけし4


(写真4)
鳴子こけし4




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8.9、木地山系こけしの話


栗駒山系の西から北西に秋田の雄勝山地があり、皆瀬川が漆器の川連(かわずら、稲川町)から酒の湯沢へ流れている。19世紀初め小椋の姓を名乗る「渡り職人」木地師集団が南からやってきた。飛騨から会津を経て、近江と信州から陸前を経て、一族を作った。川連漆器の木地(茶櫃、椀、鉢、木地玩具)を作り、近くの泥湯、小安、須川、鷹ノ湯温泉の湯治客に売り歩いた。二人挽きろくろから始まった。
 木地山系こけし1


(写真1)
木地山系こけし1




木地技術は明治35,6年頃鳴子から伝わった。初期のこけしは古鳴子風の菊をさらさらと描いたものであった。小野寺梅太郎は絵が上手で、泰一郎、米吉、久四郎に絵を指導、縞もように梅花をあしらった前垂れのデザインを教えた。娘の晴れ姿をイメージし、健康美あふれるものとなった。胴が太くなり、重量感と安定感が加わった。小椋久四郎の胴模様は、枝菊もよう(小寸こけし)と梅花の前垂れもよう(大寸こけし)を描き分けている。久太郎一家だけが木地山の桁倉沼のほとりに住み、留三、宏一、利亮一家が協力して長くこけしを作った。コレクターが一回は行ってみたいところであった。一族に小椋石蔵がいて、胴いっぱいに細かいもようを一面に描いた。石蔵型は小椋正吾が作り、三春文雄が作り続けている。
 木地山系こけし2


(写真2)
木地山系こけし2




 皆瀬村木地師集団のこけしの祖は二人いる。小椋泰一郎は、明治22年生まれで、枝菊もようと前垂れもようを作った。小椋米吉は明治15年生まれ、一人挽きこけしの技術を鳴子から導入した。佐藤兼一・秀一親子、阿部平四郎一家、弟子の北山賢一が泰一郎型と米吉型、石蔵型を作った。

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8.10、南部花巻系こけしの話


南部地方の中心地は盛岡市である。飢饉が多く生活するには厳しい土地である。色を付けないオシャブリこけし(キナキナ)が発生した。盛岡の安保一、松田精一・正一、花巻の煤孫実太郎一家がキナキナを作った。南部こけしで色を付けたのは鎌田千代治、藤原政五郎、佐々木与始郎である。佐々木覚平が長く制作していたが、後継者はいない。  花巻の照井音治型は佐藤英吉・忠雄が作り、鉛の藤井梅吉は梅吉型を作ったが、遠刈田と鳴子と肘折の影響が強く、系統ははっきりしない。
 南部花巻系こけし


(写真1)
南部花巻系こけし




 無彩の頭と胴で、頭がくらくらと動くようにゆるく胴にはめ込めてある。キナキナだけを作った集団と、描彩を行いこけしに発展させた集団がいた。後者は鳴子系の影響を受けた。キナキナこけしはこけしの原点である。単純なこけしから遠刈田、弥次郎などの華麗なこけしに変化していったのである。

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9.1、津軽温湯系こけしの話


西十和田温泉郷の温湯温泉と弘前の南にある大鰐温泉で、津軽こけしは作られている。寺の住職が大正5年頃、木地師盛秀太郎にこけしの製作を依頼したのが始まりで、こけしの歴史は比較的遅い。アイヌもようのこけしが出来上がった。
 津軽こけし・今晃


(写真1)
津軽こけし・今晃




盛秀太郎・通称盛秀の古いこけしは南部のキナキナと鳴子の「立ち子」の融合したもので、胴に唐草模様(アイヌもよう)のくびれ型と直胴の「長おぼこ」型がある。斉藤幸兵衛型と島津彦三郎型は長おぼこで、佐藤善二一派が長おぼこを作っている。奥瀬鉄則と家族、盛秀の孫みつおが盛秀型を作っている。素朴で稚拙で泥臭くグロテスクなこけしである。古いのは作り付け直胴で細長く?引きはしなかった。新しいのは都会風の甘美なこけしに変わってしまった。
 津軽系こけし・鉄則


(写真2)
津軽系こけし・鉄則




大鰐木地業は津軽塗と能代塗の下木地挽きとして古くから栄えた。大正末期に長谷川辰夫が多くの種類の描彩をはじめ、島津、佐々木、間宮、村井といった居木地師は辰夫に描彩を依頼した。昭和10年までは大鰐こけしの90%以上が辰夫により描彩された。絵の才能があったのだろう。佐藤伊太郎、川崎謙作、村井福太郎、三上文蔵、山谷太兵衛・権三郎の名で売られた。
現在、今晃が数知れない種類の津軽こけしと鳴子の斉型と五平型こけしを作っている。津軽のこけしは山の神信仰、民間信仰に関係するものと思われる。
 津軽系こけし


(写真3)
津軽系こけし




温湯こけしは3つに分類される。@ 斉藤幸兵衛、佐藤伊太郎、間宮明太郎のこけし、A盛秀が創意工夫して大正5年頃から作ったこけし、B長谷川辰雄が昭和元年頃鳴子系の要素を取り入れて定着させたこけし、である。  津軽系こけし・今晃


(写真4)
津軽系こけし・今晃






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9.2、続聴覚1・コウモリの話


エコーは反響、ロケーションは場所の発見を意味する。コウモリとイルカは、自ら音を出し、エコーを利用し、自分と獲物の位置を見定める。エコロケーション(反響定位)という。コウモリは夜間、イルカは水中で、このシステムを獲得した。私たちが聞くことが出来ない超音波を出し、エコーを聴取し、聞き比べることで情報を交換している。
コウモリは大きな耳介を持ち、音を効率的に集積でき、口や鼻から超音波を出し、周波数の差を検出することで、獲物までの距離、獲物の大きさと速度、獲物が向かってくるのか、遠ざかるのかを知ることができる。自分の子供を認識でき、親と子の確認、母と子の話も超音波でおこなう。夕方餌探しに暗い空へ飛び、レーダーを使って暗闇を飛んでいる。コウモリは真っ暗な洞窟にすみ、細いうしろ足で天井にぶら下がっている。コウモリは暗い洞窟の中に太陽のエネルギーを運ぶ使者でもある。コウモリの糞が、洞窟で生活している他の動物にとって大切な食料となる。消化されない昆虫の羽や足を餌にするのである。
 コウモリ



コウモリ




空気を振動させながら伝わる音を音波という。コウモリは、高い音は、低い音よりも波の山あるいは谷の距離が短く、同じ時間内で振動する回数が多い。人間の耳は1秒間に20から1万8千回振動する音波を聞き取ることが出来る。一方、コウモリは1秒間に3万から5万回振動するので、人の耳には聞こえない。この音を超音波という。口や鼻から超音波を出し、物にあたってはね返ってくるエコーを耳で聞き分け、まわりの様子を感じ取ることが出来る。
鳥が持っている羽はなく、その代わりに翼を持っている。長くなった手の指と腕の間が膜で完全に被われている。尾と両足の間に尾膜をも持つ。コウモリは秋に交尾しメスの体内に入った精子(未熟精子)は、そのまま春まで生き続け、春になってやっと卵とむすびつき受精する(成熟精子)。珍しい生殖器をもつ動物である。コウモリは声で物を「見ている」のである。超音波を出し、はねかえってくる音を正確に聞き取っているのである。2m先にいる1cmの昆虫を正確に発見できる。コウモリは夜空で行動することにより、競争相手が少ない空に進出したことで繁栄し、コウモリは種類が多くなった。さらに、他の動物との関係から、花の受粉など生態系に大きな役割をはたしている。
超音波を使って狩りをする「夜の空の狩人」ともいわれ、暗闇の中で獲物を見つける能力、飛翔しながら獲物をつかまえる技術にたけた動物である。

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9.3、続聴覚2・イルカの話


イルカは水中動物で、音の伝達速度が毎秒約1500メートル(空気中の5倍)に達し、遠く(空気中の1万倍)まで届く。イルカは「クリック音」と「ホイッスル音」を出す。「クリック音」は「ギリギリ、ブチブチ」という音で、対象物の大きさ、距離、形、材質の違いを認識する。「ホイッスル音」は「ピーピー」という音で互いに交信し、えさ場や天敵を仲間に知らせる。物体に向かって発せられ、ぶつかってはね返ってくるエコーを聞き取って物体の位置を探るのに利用される。
外耳道は耳垢でふさがって役に立たず、反射してきた音は下顎骨にある脂肪層を通って鼓膜を振動させ、中耳・内耳へ届いている。音速は空気中で340m/秒、水中で1500m/秒で、5倍早い。音の減衰も少なく遠くまで音が届く。海の中では「一見」よりも「百聞」の方が勝っている。イルカのエコロケーションのしくみは、@鼻の奥をふるわせて音を出す。Aひたいで音の方向をひとつにまとめて発射する。B何かにぶつかってはねかえってきた音があごの骨を通って耳に伝わる。C音の情報が脳に入り、物の形や大きさが分かる。暗闇に獲物や敵の位置、自分の進んでいる方向を確かめることが出来る。目で見るだけでなく、音を使って物の形や大きさを知る能力をもっている。物体に向かって発せられ、ぶつかってはね返ってくるエコーを聞き取って物体の位置を探るのに利用される。エコロケーション(反響定位)と訳される。餌や仲間の位置を探知している。休息中のイルカは視覚に頼る。エコーは反響・山彦・反射音、ロケーションは位置・場所の発見の意味である。
 イルカ



イルカ






イルカに声帯はなく、おでこの鼻道にある気のうから音が出る。外耳道は耳垢でふさがっていて、反射してきた音は下顎骨にある脂肪層を通って鼓膜を振動させ、中耳・内耳へ届いている。周波数の単位はヘルツで、1kHZから200kHZは超音波で、目で見るだけでなく、音を使って物の形や大きさを知る能力をもっている。イルカが自閉症、脳性小児マヒとうつ病の治療に使われ、動物介在療法のひとつイルカテラピーという。科学的証明は難しい。

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9.4、一人地方病院病理医と症例報告  昭和48年20回卒 岡 邦行


元東大医科研教授・元岐阜大学長・黒木登志夫は「医学部を出たからにはいつか症例報告をしてみたいと思っていた。1人の患者さんを診断し治療しそれらの考察をして発表する症例報告はもっともお医者さんらしい研究発表だと思います。僕にもその機会がやってきました」と述べ、「自分の直腸生検の一症例:癌を持つ直腸ポリープというタイトルで
@ ポリープの中に癌組織を、癌組織内外に小リンパ球の集族巣を認め、
A 正常粘膜と癌組織が一つのバンド (K-ラス遺伝子) を示し、
B 癌細胞がp53とHER-2染色陰性で、
C マイクロサテライト法で遺伝子の不安定性がなかった、
という内容をJpn J Cancer Resに発表した。
Cから今後新しい癌が発生する可能性が少ないことで安心したようだ。病理学と腫瘍学そして癌遺伝子学者の症例報告であった (黒木著がん遺伝子の発見)。
旧第1病理から千葉の放医研をへて恩師小島 瑞先生が勤務していた水戸済生会総合病院に移り、病院病理医となった。珍しい細胞診と生検と手術そして剖検検体の症例を呈示し、メッセージを加える。
症例@は回腸ポリープで発見され、右卵巣原発の成熟奇形腫が回腸内腔に突出した34才女性の生検と手術例である。27才で左卵巣の皮様嚢胞が摘出された。血便に気付き、内視鏡検査で有茎性の回腸ポリープが発見され生検で成熟奇形腫と診断された。右卵巣と回腸腫瘤は壊死様物質で連続し、回盲部とポリープが一緒に切除された (写真1)。
 (写真1)






(写真1)






腫瘍内に膵と唾液腺組織が認められなかったことから、発生機序は、
@ 病変部回腸が憩室あるいは筋層の部分的欠損や脆弱を示し、右卵巣腫瘍と接触し癒着し、
A 急性と慢性の炎症が生じ、
Bタンパク分解酵素が炎症細胞から分泌し、腫瘍は回腸を穿通し、
C 回腸の蠕動が持続し、右卵巣腫瘤が回腸内腔に突出した、
と考察した。生検標本で皮膚組織を観察した時は、検体の取り間違いかと心配した。
症例Aは胎児の頚部に発生した未熟奇形腫で、胎齢20週の解剖例 (写真2) である。
 (写真2)







(写真2)





母親は24才。頚部腫瘍は柔らかく93g、8x6x5cm大、被膜で包まれ剥離が容易で、割面は充実性で脳神経組織様であった。腫瘍は3胚葉からなり、未熟 (神経上皮組織、軟骨と骨組織) と成熟な組織が混じり、成熟した甲状腺組織も混在していた。腫瘍摘出後鼻咽頭から縦隔組織を約2mmの厚さで15個に全割したところ、甲状腺の左葉は発見できず右葉は気管と食道の側面に確認出来たことから、頚部腫瘍は胎児の甲状腺の左葉から発生したものと考えた。胎児内胎児や封入胎児とも呼ばれる一卵性双生児奇形の一種で、一方の胎児の発育が悪く他方の胎児内に迷入した二重体と考えられている。手塚治虫のブラックジャックのピノコを思い浮かべた (第12話畸形嚢腫、文庫本第2巻)。
症例Bは25年の長い経過をたどった女性の胸水細胞診検体例である。
39才で脾腫を指摘され骨髄生検で特発性骨髄線維症と診断され、49才で髄外造血を伴う乳がんが摘出され、62才で左胸水が貯留し11ヶ月後に腎不全と呼吸不全で死亡した。脾腫は腹腔から骨盤腔内に達していた。胸水細胞診は多くの芽球様細胞と少数の巨核球と赤芽球が混在し、芽球はアズール顆粒を欠きペルオキシダーゼ陰性で、フローサイトメトリーとセルブロック切片でNK細胞のマーカーを示した。末梢血液の白血球数が3.4うち芽球が61%を占め、直径3cmまでの暗赤色結節 (写真3) が皮膚に多発していた。
 (写真3)






(写真3)







従って、胸水細胞診は左胸膜の髄外造血とその白血病転化を示した骨髄/NK細胞性急性白血病と診断した。剖検を希望したが叶わなかった。病理検体の長期保存と細胞診検体の詳細な検索が不可欠だった。
症例Cはアミロイド沈着が全身の骨格筋に高度に認められ、急速に侵攻し致死性の経過を辿った59才男性の手術と解剖例である。
骨格筋腫瘤が多発し、左鼡径部痛と筋力低下による歩行障害を自覚した。タンパク尿 (3.3g/日) とκ型BJP尿 (2.3g/日) が認められ、骨髄有核細胞の11.6%が単クローン性の形質細胞だった。手術検体は直径約7cmの左鼡径部腫瘤で, 好酸性無構造物質が認められコンゴ赤染色で赤橙色、κ軽鎖免疫染色で陽性を呈した。以上から、ALアミロイドーシスを示すBJP型骨髄腫と診断した。全身の多発性骨格筋腫瘤が急速に増大し、呼吸不全で3ヶ月後死亡し解剖が行われた。大きなアミロイドーマ (写真4) が全身の骨格筋に見られ、広範囲のアミロイドの沈着が全消化管の固有筋層に限局してびまん性に強く認められた。心筋と腎組織にアミロイドの沈着はなかった。病理解剖の適用症例と考えた。
 (写真4)







(写真4)






他に、部分胞状奇胎共存妊娠の真性半陰陽 (46,XX/46,XY モザイク型) と臨床診断され、妊娠中毒症と性器出血のために妊娠20週で人工妊娠中絶が行われた胎齢20週の解剖例を経験した。骨盤腔内組織を一塊にして連続切片を行うと卵精巣ovotestisと精巣を確認でき、臨床診断と病理診断が一致した。次に、42才男性の解剖例で、心臓のホルマリン固定パラフィンブロックからピコルナウイルスウイルスが確認出来た劇症型心筋炎を経験した。ウイルスの確認後一時期解剖業務が怖くなった。最後に、繰り返し発生した乳腺腫瘤摘出症例で、40才で線維腺腫、42才で良性葉状腫瘍、49才で右乳腺原発骨肉腫と診断され、術後9ヶ月で肺転移が出現して死亡した手術例を経験した。解剖は許可されなかった。乳腺腫瘍はフォローが必要と再確認した。
学生と研修医へ送るメッセージは「病院病理医は医学の基礎である症例報告ができる。
顕微鏡を見ることが嫌いでなかったら病理医を選択肢の一つに加えて欲しい。
認定病理医と細胞診指導医の資格を取ったら早く独り立ちして欲しい。一人地方病院病理医の醍醐味が味わえるのである。

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9.5、福島県・土湯こけし (追加)


 陀羅尼経 (世界最古の印刷物) が塔身に納められた三重小塔 (百万塔、塔身と相輪からなりさし込み式で直径10.5cm高さ21.4cm、(写真1)、梅木修一と渡辺鉄男の復元) が法隆寺に4万数千基残っている。
 (写真1)







(写真1)百万塔






官営職人の木地師が平城京周辺に住み、称徳女性天皇 (718-770、前の考謙、父聖武天皇母光明皇后、道鏡神託事件) の勅命をうけ764年から6年間に木地ろくろで小塔100万基を作り、天皇が奈良10大寺 (法隆寺、興福寺、東大寺、薬師寺など) に10万基づつ寄進した。従兄弟の恵美押勝を粛正した (恵美押勝の乱) 戦没者の冥福を祈るためであった。610年高句麗の僧曇徴が来朝して製紙術が始めて伝わってから150年がたった時期である。印刷した陀羅尼経の紙が本邦紙か舶載紙か分かっていない。また韓国の仏国寺で印刷された陀羅尼経が発見され、則天文字が用いられていたが、こちらが最古かどうか確定されていない。陳舜臣の紙の道に詳しい。 木地師の祖は惟喬親王 (844-897、文徳天皇の第一皇子) である。木地師は平安時代に琵琶湖東岸の近江に棲み椀盆、ろうそく立て、神器や仏具を挽く職人で、ろくろ師やひきもの師とも呼ばれ、15から16世紀になると材料が不足し良木を求め全国各地に移動し、弟子を育てた特異な木地ろくろ技術集団だった。天正18年 (1590) 蒲生氏郷 (1556-95) が伊勢松坂から会津へ転封した際木地師を近江から引き連れ、そして寛永11年 (1634) 信濃高遠から会津へ移封された保科正之 (1611-72) が木地師を帯同した。木地師は会津周辺で木地業を伝え江戸後期になると山中から湯治場に定住するようになった。文化文政年間 (1804-30) 農民は田植えや稲刈りや養蚕の後、鍋釜と米味噌や夜具を携え数週間湯治場で自炊し疲れを癒す湯治の風習を持つようになり、湯治は労働力の再生や身体の回復や五穀豊穣を意味した。天保年間 (1830-44) 彩色したこま笛、籠臼杵ね、車大砲、だるま、動物、オシャブリ、エジコやこけしを副業として作るようになった。こけしは手足がなく着物を着せかえ布団で包んで遊ぶ子供の玩具だった。湯治場で求める子や孫への土産は木地玩具で、子や孫の成長を祈ってまた厄よけとしてこけしを求め、こけしは母から娘へ姉から妹へその子供たちへと受け継がれ、無事成長し手垢で黒光りになると焚き木にされたために江戸末期のこけしは残っていない。木地師は全国に分布していたのに、東北の湯治場に棲みついた木地師だけが何故こけしを作るようになったのか、大きな謎である。
こけしの発生・祖型も謎で、@ 全国で生まれ東北にだけ残った東北残存説、A 東北で生まれ東北の風土で育成した東北固有説、B おしゃぶり玩具説、C 養蚕や農業に関する土着信仰説、D 性的信仰説 などがあるが定説はない。こけしの魅力は球と円筒からなる単純な形にあり木の温もりにある。こけしは目鼻の表情が重要で胴は顔を引き立てるに過ぎず、頭と胴のつなぎには差し込み式とはめ込み式があり前者は首が回らず後者は回る。3大発生地は吾妻山脈麓の土湯温泉、蔵王連峰東麓の遠刈田温泉と栗駒山南麓の鳴子温泉で、形態と描採から青森県の温湯 (津軽)、岩手県の南部、秋田県の木地山、山形県の肘折と山形と蔵王高湯、宮城県の作並と鳴子と遠刈田と弥次郎、福島県の土湯型こけしの11系統に分類されている。会社勤めの兼業のこけし工人が増え老齢化が進み後継者不足となった。こけしは温泉みやげとして羊羹や饅頭や菓子のように売れないのである。 奈良時代から二人挽きろくろの技術は高く、女房 (綱取り) が綱を握ってろくろを回し、亭主 (鉋取り) がろくろの回転軸に平行の位置で木を挽き、二人の協調が大切だった。明治17年 (1884) 静岡出身の箱根木地師の伊澤為次郎 (流れ木地師) が突然土湯に現れ、一人挽きろくろ・足踏みろくろを教え、仕事の効率も上がり電力モーターろくろへと発展していった。一人挽きろくろはろくろの回転軸に直角の位置に座り足踏みをしながら木を挽いた (写真2)。  (写真2







(写真2)一人挽きこけし







こけしの発展には @ 木地師の誕生 A ろくろ技術の向上 B 湯治の習慣 C 温泉みやげの需要、が不可欠だった。こけしは子供のおもちゃとして発展してきたが、大正末から昭和初めにセルロイドやプラスチックや金属製のおもちゃ縫いぐるみ人形が、東北にも進出し廃絶しかかった。が、収集家がこけしの美を発見しブームが戦前戦後現在と繰り返し起き、最近は収集する女性をこけ女と呼んでいる。
土湯温泉は会津伊達間の重要な交通路にあった。土湯こけしの創始者は佐久間亀五郎 (?-1836) で文政10年 (1827) 伊勢と金比羅参りに行き、上方や小田原や箱根で見た木地玩具を参考にしたと伝えられ、息子の彌七 (1822-80) が首の回るこけしを創作したと言われているが、亀五郎と彌七のこけしは確認されていない。明治維新の40年前である。孫の浅之助 (1847-1906) のこけしが最古の土湯こけしとして10数本確認され、亀五郎と彌七のこけしは浅之助のこけしから想像する他はない。土湯温泉近くの旧家の土蔵を解体した際に江戸末期の土湯こけしが偶然発見されるかも知れず、発見が待たれる。浅之助こけしは大阪や名古屋の西南地方で発見され、東北特に福島県では確認されていない。謎である。
 土湯こけしの特徴は、@ 頭は小さく胴が細く胴にはめ込み、首が回り、A 目は二重まぶたで眼点を入れ、鼻は丸鼻、B 頭頂部に黒い蛇の目 (写真3) を描き、C 前髪とびんの間に渦巻状の「かせ」という赤いかざり (写真3) を入れ、D 胴はエンタシスの胴と三角胴でろくろ線の組み合わせの線模様を描き、返しろくろ (写真4) を創作し躍動感を加えたことである。
 (写真3)





(写真3)頭頂部







湊屋系列では父浅之助・息子由吉・粂松・七郎・米吉・虎吉兄弟がこけしを作ったが、木材事業に失敗し火災と水害に見舞われ破産して、一家で川俣や福島へ移って行った。孫芳衛・ひ孫芳雄・曾孫俊雄が引き継ぎ、血縁の渡辺和夫らが湊屋のこけしを復元した (写真4)。一族に浅之助の弟渡辺作蔵、従兄弟西山弁之助・勝次親子や斉藤太治郎らがいた。浅之助こけしは目が特徴的でねむり猫の目と言われ、長らく弁之助や粂松のこけしとして紹介されていた。松屋系列には阿部治助・新次郎兄弟、阿部金蔵・広史親子や西山徳二らがいた。太治郎こけしは甘美で評判がよく値段が高く入手が困難で、娘婿正一と孫の弘道が引き継いだ。治助こけしは地味で稚拙と評判が悪く値段が安かったが、再評価され素朴で土湯を代表するこけしとなり、シナと勝英と子孫が継いだ。
 (写真4)






(写真4)土湯みなとやのこけし






 らっこ (共同住居の羅虎山塞から命名) コレクションは東北帝大の学生だった中井 淳 (明治36年-昭和29年、東京生、台北帝大教授・フランス思想研究者) が昭和2年から集め始め、昭和13年以降は大学時代からの友人高久田脩司 (明治37年-昭和50年、三春町立田村高校教諭・盲ろう学校長) が引き継いだ名品古品のこけし607本で、三春町立歴史民俗資料館で鑑賞できる。高久田の教え子で最高裁判事であった橋元四郎平が故郷三春の自宅の土蔵に戦中戦後預かり眠っていたこけし達である。福島市荒井のアンナガーデンにある西田記念館は東邦銀行によって文化事業として設立され、東京こけし友の会会長西田峯吉 (1900-93、島根生、農林省へ入省後蚕糸業に携わり東北研修でこけしと出会う) が収集した保存の良い原郷のこけし群3500本を含む1万本のこけしを鑑賞できる。浅之助こけしはらっこと西田コレクションの中にはない。謎である。
安達太良山麓の岳温泉では大内今朝吉・一次・慎一の3代が素朴なこけしを作り続けている。飯坂温泉では作蔵の次男渡辺角次が木地を挽き妻キンが胴にろくろ線と花模様のこけしを描き、下まぶたの端が上に跳ね上がった鯨目を描いた。弟子高橋忠蔵や養子喜平が発展させ鯖湖亜系こけしと呼ばれ、稲毛豊が柔らかい筆使いでキンこけしを見事に再現した (写真5)。
 (写真5)








(写真5)飯坂鯖湖湯こけし・稲毛豊





中ノ沢温泉では宇都宮生まれの岩本善吉が目を大きく描き目の周りとほほを赤く塗り、胴に見事なボタンを施したグロテスクなこけしを考案しタコ坊主と呼ばれ、息子芳蔵が弟子を育て中ノ沢亜系こけしを確立し、荒川洋一が鋭いタッチで善吉こけしの復元に成功している (写真6)。 以上西田著・こけし風土記・こけし伝統と美、鹿間著・こけし美と系譜、橋元著・ふくしまのこけし、こけしの会編・こけしの旅に詳しい。
 (写真6)







(写真6)中ノ沢こけし荒川洋一





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